最近、イラク研究者が注目している、マニアックともいえる出来事がある。1月後半にイラク政府が、イラクの18の県のいくつかを分割して、県を22に増やす、という閣議決定をしたのだ。
県が増える程度の地方行政政策の変化になぜ、各国のイラク・ウォッチャーが耳目をそばたたせているのか。それは、現在の宗派対立の激化に対する政府の手詰まりを反映したこの安直な政治手法が、イラクという国の領域の一体性自体を崩すことになりかねないか、と懸念しているからだ。
県を増やす対象地域は、ニネベ県のキリスト教徒居住地域、サラハッディーン県のトルコマン民族居住地域、アンバール県のファッルージャ周辺、そしてクルド自治政府管轄地域のうちハラブチャ地域だという。前者の二県は、少数宗派、少数民族の保護、最後のひとつは、フセイン政権時代に化学兵器攻撃を受けた地域を特別にケアする、という意味がこめてられているので、まあ筋が通らないわけではない。
だが、三つめのファッルージャは、最近の、ファッルージャを中心とするアンバール県の反政府活動の激化に対応したものだということは、明らかだろう。2012年12月、アンバール県出身の元副首相で当時財務相だったスンナ派の有力政治家、ラーフィウ・イーサウィーの警護官が、反政府テロに関与した、との疑いをかけられ、これをきっかけにイーサウィーは一転、政府から追われる身となった。イーサウィーの地元、アンバール県の住民は、当然政府に反発を強める。
2006-08年の内戦期、アンバール県はアルカーイダ系など外国の反米・反シーア派戦闘員が居ついて、宗派対立の最大の戦場となった県だ。それを、地元の部族が中心となって、地元住民の政府支持を回復し、2008年になんとか外国人戦闘員を追い出すことに成功した。なのに、イーサウィー事件で、再び地元住民が政府への反発を強めたのである。内戦期に政府側に立って、アルカーイダ系を抑えるのに功のあった「サフワ」という組織も、2012年末から反政府側にまわった。
それに加えて事態をややこしくしたのが、シリアでのスンナ派反政府勢力との連携である。アンバールに居ついて内戦を煽ったのは、「メソポタミアのアルカーイダ」という組織だが、これがシリア内戦の過程で、「シリアとメソポタミアのアルカーイダ」となって、シリアとイラクで連動して活動をさらに拡大しているのだ。アルカーイダ系戦士たちは、イラクのアンバール県地元社会から追い出されたところに、シリアでの内戦が始まった。すわ、シリアに駆けつけて、シリアを主戦場とする。
イラク政府は、これでイラクにいる戦士たちはシリアに行ってくれた、と甘く考えたのかもしれない。だが、マーリキー政権のスンナ派政治家いじめの結果、アンバール県住民の政府離れが明らかになると、戦闘員たちはシリアからイラクに駆けつけ、せっかく追い出したはずのアルカーイダが、アンバールに舞い戻ったのである。一年前頃から、アンバールでの反政府デモでは、シリアの反政府組織、「自由シリア軍」の旗がはためく様子が報じられている。
アンバール県からファッルージャを切り離すというのは、反乱の温床を分割して鎮圧しやすいように、という発想だろう。上記の四県のうち、三つがスンナ派住民の多い県だということを考えれば、スンナ派地域の分断工作を狙った政策であることは、明らかだ。スンナ派のなかでも、いつまでも政府の手に負えない地域は、できるだけ細かくして置いてきぼりにする、という考えが、見え隠れする。
政治的目的で県を露骨に改変する、というのは、70年代半ば以来のことで、独裁の悪名高きフセイン政権時代ですら、露骨すぎて反発を招くとして、やらなかったことである。(もっとも、隣国クウェートを併合してイラクの「19番目の県」にするという、国際的に大ヒンシュクを買うことはやったけれど)。
フセイン政権時代にこうした細分化の手法を取らなかったのは、中央政権が圧倒的な力で、刃向う地方勢力を弾圧したからだ。今のマーリキー政権は、刃向う勢力を叩き潰すこともできないし、かといって懐柔する工夫もない。結局、手におえない地域だけを切り離して、手におえる地域だけで前に進む。安定しているクルド地域や南部のシーア派地域には、どんどん外国企業が進出している。
どうも、この傾向は、近年の中東での紛争全般に、みられる。シリア内戦がそうだ。政府軍、反乱軍ともに、、領域を面として支配することができず、町、地区、街区と細かい点でしか支配できない。その小さな点を一歩でもでたら、目と鼻の先に敵がいる。それを前提に、分断された点が横に交わらず、固定化される。
その状況は、イスラエル占領下のパレスチナが最初かもしれない。占領地のパレスチナ人社会に、ユダヤ人入植地が点在し、その間に高い壁を作ることで、お互いに「敵」を見えないようにする。衝突を避けることはできるが、そこから共存は生まれない。つまり、そこに地域や宗派や民族の違いを乗り越えた「国民」は生まれない。
むりやりにでも「国の一体性」にこだわってきたイラクの現代史が、県の細分化によって、その流れを変えるのではないだろうか。内戦期に危惧として囁かれてきたのは、イラクが民族、宗派で「三つに分かれるのではないか」ということだったが、ことはもっと深刻である。分かれ始めたらどこまで細かくなるかわからない、という未知の不安が、始まったからだ。いや、シリアで起きていることを考えれば、それは決して未知の杞憂とは言えなくなっているのかもしれない。
県が増える程度の地方行政政策の変化になぜ、各国のイラク・ウォッチャーが耳目をそばたたせているのか。それは、現在の宗派対立の激化に対する政府の手詰まりを反映したこの安直な政治手法が、イラクという国の領域の一体性自体を崩すことになりかねないか、と懸念しているからだ。
県を増やす対象地域は、ニネベ県のキリスト教徒居住地域、サラハッディーン県のトルコマン民族居住地域、アンバール県のファッルージャ周辺、そしてクルド自治政府管轄地域のうちハラブチャ地域だという。前者の二県は、少数宗派、少数民族の保護、最後のひとつは、フセイン政権時代に化学兵器攻撃を受けた地域を特別にケアする、という意味がこめてられているので、まあ筋が通らないわけではない。
だが、三つめのファッルージャは、最近の、ファッルージャを中心とするアンバール県の反政府活動の激化に対応したものだということは、明らかだろう。2012年12月、アンバール県出身の元副首相で当時財務相だったスンナ派の有力政治家、ラーフィウ・イーサウィーの警護官が、反政府テロに関与した、との疑いをかけられ、これをきっかけにイーサウィーは一転、政府から追われる身となった。イーサウィーの地元、アンバール県の住民は、当然政府に反発を強める。
2006-08年の内戦期、アンバール県はアルカーイダ系など外国の反米・反シーア派戦闘員が居ついて、宗派対立の最大の戦場となった県だ。それを、地元の部族が中心となって、地元住民の政府支持を回復し、2008年になんとか外国人戦闘員を追い出すことに成功した。なのに、イーサウィー事件で、再び地元住民が政府への反発を強めたのである。内戦期に政府側に立って、アルカーイダ系を抑えるのに功のあった「サフワ」という組織も、2012年末から反政府側にまわった。
それに加えて事態をややこしくしたのが、シリアでのスンナ派反政府勢力との連携である。アンバールに居ついて内戦を煽ったのは、「メソポタミアのアルカーイダ」という組織だが、これがシリア内戦の過程で、「シリアとメソポタミアのアルカーイダ」となって、シリアとイラクで連動して活動をさらに拡大しているのだ。アルカーイダ系戦士たちは、イラクのアンバール県地元社会から追い出されたところに、シリアでの内戦が始まった。すわ、シリアに駆けつけて、シリアを主戦場とする。
イラク政府は、これでイラクにいる戦士たちはシリアに行ってくれた、と甘く考えたのかもしれない。だが、マーリキー政権のスンナ派政治家いじめの結果、アンバール県住民の政府離れが明らかになると、戦闘員たちはシリアからイラクに駆けつけ、せっかく追い出したはずのアルカーイダが、アンバールに舞い戻ったのである。一年前頃から、アンバールでの反政府デモでは、シリアの反政府組織、「自由シリア軍」の旗がはためく様子が報じられている。
アンバール県からファッルージャを切り離すというのは、反乱の温床を分割して鎮圧しやすいように、という発想だろう。上記の四県のうち、三つがスンナ派住民の多い県だということを考えれば、スンナ派地域の分断工作を狙った政策であることは、明らかだ。スンナ派のなかでも、いつまでも政府の手に負えない地域は、できるだけ細かくして置いてきぼりにする、という考えが、見え隠れする。
政治的目的で県を露骨に改変する、というのは、70年代半ば以来のことで、独裁の悪名高きフセイン政権時代ですら、露骨すぎて反発を招くとして、やらなかったことである。(もっとも、隣国クウェートを併合してイラクの「19番目の県」にするという、国際的に大ヒンシュクを買うことはやったけれど)。
フセイン政権時代にこうした細分化の手法を取らなかったのは、中央政権が圧倒的な力で、刃向う地方勢力を弾圧したからだ。今のマーリキー政権は、刃向う勢力を叩き潰すこともできないし、かといって懐柔する工夫もない。結局、手におえない地域だけを切り離して、手におえる地域だけで前に進む。安定しているクルド地域や南部のシーア派地域には、どんどん外国企業が進出している。
どうも、この傾向は、近年の中東での紛争全般に、みられる。シリア内戦がそうだ。政府軍、反乱軍ともに、、領域を面として支配することができず、町、地区、街区と細かい点でしか支配できない。その小さな点を一歩でもでたら、目と鼻の先に敵がいる。それを前提に、分断された点が横に交わらず、固定化される。
その状況は、イスラエル占領下のパレスチナが最初かもしれない。占領地のパレスチナ人社会に、ユダヤ人入植地が点在し、その間に高い壁を作ることで、お互いに「敵」を見えないようにする。衝突を避けることはできるが、そこから共存は生まれない。つまり、そこに地域や宗派や民族の違いを乗り越えた「国民」は生まれない。
むりやりにでも「国の一体性」にこだわってきたイラクの現代史が、県の細分化によって、その流れを変えるのではないだろうか。内戦期に危惧として囁かれてきたのは、イラクが民族、宗派で「三つに分かれるのではないか」ということだったが、ことはもっと深刻である。分かれ始めたらどこまで細かくなるかわからない、という未知の不安が、始まったからだ。いや、シリアで起きていることを考えれば、それは決して未知の杞憂とは言えなくなっているのかもしれない。