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『永遠の0』の何が問題なのか? - 冷泉彰彦 プリンストン発 日本/アメリカ 新時代

ニューズウィーク日本版 2014年2月6日 13時42分

 先月に一時帰国した際、評判の映画『永遠の0』を観ました。また、小説も評判であるというのでこちらも読みました。どちらもプロの仕事であると思います。技術的に言えば、ストーリー・テリング(物語の展開)だけでなく、セッティングやキャラクターの造形、そして何よりも時空を超えた大勢のキャラクターが、物語の進行とともに「変化していく」効果が見事です。

 キャラクターの「変化」というのは、「成長」したり「相互に和解」したり、あるいはキャラクターに「秘められていた謎」が明かされたりしてゆくという意味です。そうした効果を、時空を超えた複数のキャラクターを使って、しかも2000年代と第二次大戦期という2つの時間軸の中で実現している、そのテクニカルな達成はハイレベルだと思います。

 更に言えば、老若男女の広範な層にまたがる読者あるいは観客は、多くのキャラクターの中から自分の感情を投影する対象を見出すことができるようになっています。その視点に寄り添うことで、一見すると「遠く離れた」ストーリーが、「自分のもの」になっていく効果があるわけです。フィクションの創作としてレベルは非常に高く、作者と監督の卓越した技量は明らかです。

 ですが、同時にこの小説並びに映画は決定的な問題を抱えていると思います。それは、いわゆる特攻隊に対する評価です。

 特攻というのは搭乗員への死の宣告であり、同時に敗戦を前提とした自暴自棄的な作戦であり、敵側からは命がけで突っ込んで来る恐怖の存在であり、全体的には人道に反する行為です。ですから特攻作戦であるとか、レイテ戦以降の「全機特攻方針」などという軍の方針に関しては、最大限の非難と批判がされるべきです。もっと言えば、大戦末期における特攻というのは、「戦争を終わらせることができない」軍並びに政府の指導者の責任感不足、指導力不足のために継続されたとしか言えないわけです。

 ですが、個々の特攻隊員が受けた苦痛への同情の念というのは勿論、否定することはできません。例えば実際に身内の中に特攻による犠牲者を出した家族の場合であるとか、特攻隊員の遺書や手記に触れたりした場合には、その個々の特攻隊員への強い畏敬の念を持つということはあるわけです。

 ここに重たいジレンマがあります。つまり歴史的な評価としては全否定をしつつ、私的な心情としては個々の犠牲には畏敬の念を抱くという「重たいジレンマ」を背負わなくては、この問題に向かい合うことはできないのです。

 これは大変に難しいことです。例えば、本作の中で批判されているように、特攻を全否定する勢いで「個々の犠牲者まで戦犯扱い」するというような風潮があったのも事実で、それはその人がジレンマを背負うことができずに単純な回答に逃げたからです。また特攻に関係した多くの人々や同世代人が沈黙を守ってきたのも、そのジレンマを語る難しさのためであったと思います。

 本作の問題点は、この重たいジレンマを背負っているのかというと、そうではないということです。

 ちなみに、作品中の特攻に対する歴史的な見解としてはどうかというと、敗戦を前提とした絶望的なものだということは述べられています。また太平洋戦線の全体に関しても、真珠湾での空母索敵失敗やミッドウェイに始まる作戦の錯誤への批判も一応入っています。



 ですが、問題は「個々の特攻隊員の悲劇」へ感情移入する余りに、「特攻隊全体」への同情や「特攻はムダではなかった」という心情を否定しきれていないのです。作戦への批判は入っているのですが、本作における作戦批判は「主人公達の悲劇性を高める」セッティングとして「帳消しに」されてしまうのです。その結果として、観客なり読者には「重たいジレンマ」を感じることなく、悲劇への共感ないし畏敬の念だけが残ってしまうのです。

 もっと言えば、小説にも映画にも「個々の特攻隊員の悲劇」への畏敬の念を「個々ではなく全体への畏敬の念にしていきたい」、あるいは畏敬の念を「公的なものにして欲しい」あるいは「集団で主張することを認めて欲しい」という思想性が見て取れます。こうした主張は、21世紀の日本という国を国際的な孤立へと追いやる危険のある「不必要な行動」です。

 作品中には「特攻は自爆テロではない」という主張が掲げられています。そのこと自体は間違ってはいません。戦時国際法に基づく戦闘行為と、個人による政治的な殺人行為とは質的に異なるのは事実だからです。

 ですが、いかに戦闘行為の一環であったとしても、20世紀という時代に公式の軍事作戦として、国軍の正規の作戦命令として「自爆攻撃」を強いたというのは、第二次大戦末期の大日本帝国だけであった、これは大変に重たい事実です。そして、そのような作戦を採用したという事実は、公的にも私的にも強く否定されなくてはなりません。また戦後の日本と日本人は実際に強く否定をしてきたのです。そのことが日本の国際的な信用につながっています。

 この種の「特攻隊への畏敬」思想があるレベルを超えて社会現象になってゆくことは、そうした日本と日本人への信用を損なう可能性があります。もっと言えば、日本の孤立を招き安全を揺るがせるような形で戦没者の「名誉回復」が志向されるようでは、戦没者の魂に対して著しく非礼であるようにも思うのです。

 特攻隊にしても戦没者一般にしても、その個々の犠牲に対する畏敬は失ってはならないと思います。ですが、個々の犠牲への畏敬の念を考える余りに、「犠牲に対する尊敬のためには作戦や戦争の全体も肯定しないといけないのではないか?」と考えるのは誤りなのです。

 改めて申しますが、そこにはジレンマがあるのです。「戦争や作戦は否定しなくてはならないが、個々の犠牲には畏敬の念を抱く」というのはジレンマです。ですが、戦後という時間に生きる我々は、そのジレンマを背負わなくてはならないのです。どうしてかというと、先の戦争で日本は負けたからです。敗戦国が、負けた戦争の正当化をするということは、名誉回復へ向けた闘争を宣言することになるからです。

 そうなれば、戦没者への畏敬の念を持つことが、新たな紛争の火種になって行くのです。それは、日本を改めて孤立に導き、日本の繁栄を傷つけ、安全を保障するのではなく逆に危険を引き寄せて行くことになるのです。戦勝国が寄ってたかって日本を再び悪者にしようと思えばできる、そうした口実を与えるだけなのです。だからこそ、戦没者の個々人の犠牲には畏敬を払いつつ、戦争の全体や個々の誤った作戦への批判は続けなくてはならないのです。

 こうしたジレンマを戦後に生きる我々は背負わなくてはならない、そのジレンマを背負うという態度から、この映画は逃げています。単なるメロドラマだからいいではないかという意見もあります。ですが、メロドラマにすることで、このジレンマから逃げているのです。悲劇への畏敬や追悼の思いを集団化したり、感動的なエピソードで盛り立てたりしてもいいのではないかというのは、要するにそういうことです。

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