先週、テレビ朝日の番組『朝まで生テレビ』に出演しました。テーマは安倍教育改革に関してでしたが、そこで、この4月から学校現場で使用されるという道徳教材『わたしたちの道徳』が紹介されていました。番組内では中身を見ることはできなかったのですが、終了後に文部科学省のホームページへ行って内容を見た私は愕然としました。
小学校1・2年生用の教材に、何と「二宮金次郎」が取り上げられていたのです。戦前の「修身」教育の象徴として、全国の学校に「焚き木を背負って運びながら読書をする」銅像の建てられていた、「あの」二宮金次郎です。
ストーリーは単純で、「幼くして両親と死別した金次郎は、おじの家に引き取られた。読書好きの金次郎は夜遅くまで読書をしていたところ、菜種油を無駄遣いするなとおじに怒られた。そこで金次郎は自分で畑を耕して菜種を収穫して読書を続けて立派な人になった」というものです。
愕然としたというのは、これが「戦前の修身教育の復活」だと思ったからだけではありません。また「物言わぬ国民を作って戦争への道へ引きずっていく」ような悪意を感じたからでもありません。
何が問題なのか? 思いつくままに列挙してみます。
これは虐待被害の話です。児童が虐待の被害を受けた場合は、何よりも信頼できる大人を探してSOSを出すことを教えなくてはなりません。ですが、この教材は、その反対に「忍従」を教えています。これ自体に違法性を感じます。
これは児童労働の話です。国連を中心に、現在の国際社会では児童労働を根絶するために大変な努力がされています。日本も多くの予算を負担し、実際に根絶のための活動に従事している日本人ボランティアも世界では活躍していると思います。ところが、この教材では児童労働を肯定的に扱っています。外務省と関係のNGOは厳重に抗議すべきだと思います。
金次郎はどうして忍従できたのでしょう? それ以前の話として金次郎はどうして強い学習へのモチベーションを持っていたのでしょう? それは、幼くして漢籍の素養があり、中国の古代哲学をベースとした早熟な世界観を持っていたからだと思います。要するに精神的な「武装」ができていたのです。この点を完全に無視して、児童に「忍従」を強いるというのは単なる野蛮に過ぎません。
現在の日本では、高い教育を受けた層よりも、俗に言う「ソフト・ヤンキー層」の方が高い出生率になってきていると考えられます。教育に関心を持たない親を持った子供が増えているのです。そうした子供たちに対して、「自分の方で学習へのモチベーションを持つ」ように仕向けてやりたい、教育関係者としてそのような危機意識を持つのは悪いことではありません。
ですが、仮にそうであるならば保護者に成り代わって巨大な愛情と知性を注いでそうした児童を保護するしかないと思います。「忍従せよ。自助努力せよ」というアプローチはその正反対です。
要するに21世紀の現代社会では、この「二宮金次郎」のストーリーというのは批判的な討論の材料にしか使えないのです。それを小学校1・2年生用の教材に使用するのは誤りだと思います。
ではそもそも、どんな授業をすればいいのでしょう? 例えばですが......
先生「おじさんはどうして油を使っちゃいけないと言ったのかな?」
生徒「ハーイ。たぶんお金がなくて困っていたんだと思いまーす。」
先生「正解だ。では君たちは自分が金次郎だったらどうするかな?」
生徒「私も、金次郎みたいに自分のできることをやって人に迷惑をかけないようにしまーす。」
先生「正解だ。みんなも、困ったらまず自分ができることをするんだよ。人に頼ったり、欲しい欲しいなんて言う前に努力する人間になりなさい」
というような授業が理想であり、そのような教師が人事考課で評価され、このエピソードを否定的に扱った教師は「処分」される、あるいは、このような「正解」を言った子供は「良い成績」(今のところ、成績はつけないという話のようですが)になるというのが「道徳教育」であるならば、それは勘違いもいいところです。
それでは、教師も生徒も「こういう教科書」が与えられたのなら「それが正解だろう」という「謎解き」をすることになるだけだからです。そのような「正解探し」の能力からは困難を打開する知恵も、困難に打ち勝って自分を高めるモチベーションも生まれては来ません。
いずれにしても、妙なファンタジーを教育現場に持ち込むのはいい加減にして欲しいと思いますし、それに対して「戦前の修身教育の復活だ」というような意味のない批判で済ませるのも止めて欲しいと思います。
実務的には以上ですが、こうした「道徳教育」という発想のウラにある「思想性」に関しては、そう簡単に見過ごせないものがあるように思います。それは、グローバルな世界の価値観、つまり「個の尊厳」とか「平等、権利、自由」といった考え方に合わせていては、日本古来の文化が失われるという観点から、国境の内側に閉じこもりたいという発想です。
その根底にあるのは近代の否定ということだと思います。個の尊厳を否定し、将来ある若者を年長者に忍従するように仕向け、アジアの草深い世界に帰って行きたい、そのような思想です。もしかしたら、人口も経済も縮小する中で、「整然とした撤退戦」を戦うには、そうした思想が全員の幸福につながるという判断があるのかもしれませんが、全くの誤りです。
残念ながら日本は成熟国家であり、最先端の高付加価値産業で食べていくしかないからです。忍従の思想で訓練して生産性を上げれば、労働集約型の産業でも新興国に伍していけるなどというのは幻想に過ぎません。そのためには、日本人の生活水準を今から更に50%以上切り下げなくてはならないからです。
小学校1・2年生用の教材に、何と「二宮金次郎」が取り上げられていたのです。戦前の「修身」教育の象徴として、全国の学校に「焚き木を背負って運びながら読書をする」銅像の建てられていた、「あの」二宮金次郎です。
ストーリーは単純で、「幼くして両親と死別した金次郎は、おじの家に引き取られた。読書好きの金次郎は夜遅くまで読書をしていたところ、菜種油を無駄遣いするなとおじに怒られた。そこで金次郎は自分で畑を耕して菜種を収穫して読書を続けて立派な人になった」というものです。
愕然としたというのは、これが「戦前の修身教育の復活」だと思ったからだけではありません。また「物言わぬ国民を作って戦争への道へ引きずっていく」ような悪意を感じたからでもありません。
何が問題なのか? 思いつくままに列挙してみます。
これは虐待被害の話です。児童が虐待の被害を受けた場合は、何よりも信頼できる大人を探してSOSを出すことを教えなくてはなりません。ですが、この教材は、その反対に「忍従」を教えています。これ自体に違法性を感じます。
これは児童労働の話です。国連を中心に、現在の国際社会では児童労働を根絶するために大変な努力がされています。日本も多くの予算を負担し、実際に根絶のための活動に従事している日本人ボランティアも世界では活躍していると思います。ところが、この教材では児童労働を肯定的に扱っています。外務省と関係のNGOは厳重に抗議すべきだと思います。
金次郎はどうして忍従できたのでしょう? それ以前の話として金次郎はどうして強い学習へのモチベーションを持っていたのでしょう? それは、幼くして漢籍の素養があり、中国の古代哲学をベースとした早熟な世界観を持っていたからだと思います。要するに精神的な「武装」ができていたのです。この点を完全に無視して、児童に「忍従」を強いるというのは単なる野蛮に過ぎません。
現在の日本では、高い教育を受けた層よりも、俗に言う「ソフト・ヤンキー層」の方が高い出生率になってきていると考えられます。教育に関心を持たない親を持った子供が増えているのです。そうした子供たちに対して、「自分の方で学習へのモチベーションを持つ」ように仕向けてやりたい、教育関係者としてそのような危機意識を持つのは悪いことではありません。
ですが、仮にそうであるならば保護者に成り代わって巨大な愛情と知性を注いでそうした児童を保護するしかないと思います。「忍従せよ。自助努力せよ」というアプローチはその正反対です。
要するに21世紀の現代社会では、この「二宮金次郎」のストーリーというのは批判的な討論の材料にしか使えないのです。それを小学校1・2年生用の教材に使用するのは誤りだと思います。
ではそもそも、どんな授業をすればいいのでしょう? 例えばですが......
先生「おじさんはどうして油を使っちゃいけないと言ったのかな?」
生徒「ハーイ。たぶんお金がなくて困っていたんだと思いまーす。」
先生「正解だ。では君たちは自分が金次郎だったらどうするかな?」
生徒「私も、金次郎みたいに自分のできることをやって人に迷惑をかけないようにしまーす。」
先生「正解だ。みんなも、困ったらまず自分ができることをするんだよ。人に頼ったり、欲しい欲しいなんて言う前に努力する人間になりなさい」
というような授業が理想であり、そのような教師が人事考課で評価され、このエピソードを否定的に扱った教師は「処分」される、あるいは、このような「正解」を言った子供は「良い成績」(今のところ、成績はつけないという話のようですが)になるというのが「道徳教育」であるならば、それは勘違いもいいところです。
それでは、教師も生徒も「こういう教科書」が与えられたのなら「それが正解だろう」という「謎解き」をすることになるだけだからです。そのような「正解探し」の能力からは困難を打開する知恵も、困難に打ち勝って自分を高めるモチベーションも生まれては来ません。
いずれにしても、妙なファンタジーを教育現場に持ち込むのはいい加減にして欲しいと思いますし、それに対して「戦前の修身教育の復活だ」というような意味のない批判で済ませるのも止めて欲しいと思います。
実務的には以上ですが、こうした「道徳教育」という発想のウラにある「思想性」に関しては、そう簡単に見過ごせないものがあるように思います。それは、グローバルな世界の価値観、つまり「個の尊厳」とか「平等、権利、自由」といった考え方に合わせていては、日本古来の文化が失われるという観点から、国境の内側に閉じこもりたいという発想です。
その根底にあるのは近代の否定ということだと思います。個の尊厳を否定し、将来ある若者を年長者に忍従するように仕向け、アジアの草深い世界に帰って行きたい、そのような思想です。もしかしたら、人口も経済も縮小する中で、「整然とした撤退戦」を戦うには、そうした思想が全員の幸福につながるという判断があるのかもしれませんが、全くの誤りです。
残念ながら日本は成熟国家であり、最先端の高付加価値産業で食べていくしかないからです。忍従の思想で訓練して生産性を上げれば、労働集約型の産業でも新興国に伍していけるなどというのは幻想に過ぎません。そのためには、日本人の生活水準を今から更に50%以上切り下げなくてはならないからです。