理研の「STAP細胞」研究をめぐる問題に関しては、私は余り興味が湧きません。一点だけ、生命倫理へのタブーの薄い日本では、こうした再生細胞の研究は今後も大いに期待されるので、その足を引っ張ることがなければいいという思いはしています。それ以外は、「起きたこと」よりも、「伝えられ方」の方が「事件」であるし「問題だ」という見方をせざるを得ません。
その「伝えられ方」の中で、一点だけどうしても我慢のならないことがあります。それは、論文に「コピペ」が横行しているのはケシカランという報道が余りに加熱しているために、まるで「コピペがゼロ」の、つまり「100%オリジナルな論文」が理想であるかのようなイメージが拡散していることです。
これは大変な間違いです。学術論文(リサーチ・ペーパー)は文学作品ではありません。100%オリジナルなどというものは、評価の対象にすらならないのです。
余りにも基本的なことなので、私のような研究者以外の人間が言うのも妙なのですが、どうもキチンと伝わっていないようですので、お話することにします。
学術論文というのは、研究者が全くの独創で考えて書くものでは「ありません」。まずその分野における「先行研究」、つまり過去の多くの研究者が研究して発表した論文などの成果を、ひと通りレビューすることが求められるのです。過去の研究成果の積み上げに対して、異議を申し立てるにしても、足りないところを補うにしても、新たな説を付け加えるにしても、「先行研究」を紹介してまとめるという部分は、どのような学術論文の場合でも必要なことです。
この「先行研究の紹介」ですが、大ざっぱに言うと方法は2通りあります。一つは「引用」です。これは文字通り「引用」するわけで、過去の論文の中の重要な箇所をそのまま引っ張ってくるのです。但し、「ここは引用ですよ」ということが分かるように「カッコ(コーテーション・マーク)」で囲んで表示すると共に、出典を明らかにすることが必要です。
もう一つの方法は「地の文として紹介する」という方法です。先行研究の成果として、「分かっていること」など、先行研究の要点を「論文の筆者が理解し、咀嚼した上で、自分の言葉で論文の地の文として紹介する」というわけですが、この場合も、その元になった論文のタイトルと著者を、参考文献リストなどでキチンと表記して置かねばなりません。
実は、多くの研究者にとって、この「先行研究のレビュー」というのは、自分の研究成果の表現という「メインディシュ」ではないにも関わらず、神経を使い、手間のかかる「面倒な部分」であると思います。その結果として、この「先行研究のレビュー」の部分に問題のある論文というのは、世界中に相当な数が存在すると考えても良いでしょう。
色々なケースが考えられます。
例えば、論文を英語で書かねばならない場合に、「地の文に取り込み」たいが、どうしても正確な英語で「自分の言葉に言い換える」自信がないので、結局はオリジナルの表現の正確な英語をそのまま引用してしまった、その場合に出典を明記しようと思ったら、著者とタイトルは分かったが、「いつどこで出版されたか?」が時間内に判明しなかった、このままでは「出典明記の形式要件」を満たさないので、原文を引用したものの何も注記しなかった、などというケースは多々あると思います。
また、地の文に取り込むスタイルで書いたが、まとめて行くうちに「出典データ」が錯綜してきて、どこかが何の引用なのか分からなくなってしまった。結果的に出典を表示しないままに引用している部分が残ってしまった、などというケースもあるでしょう。
研究者の実力とは関係ない世界で、「どうしても雑誌の締め切りに間に合わせたい」とか「学位論文の締め切りに間に合わせたい」というような「時間との戦い」を行っている際には、特にこうした「事故」は起こりがちであると考えられます。
どちらもルール違反であるのは間違いありません。ですから、減点など何らかのペナルティを受けることは仕方がないでしょう。ですが、先行研究のレビューを行わず、100%自分の独創だと称して、100%自分で勝手なことを書いたとしたら、これは減点とか不合格だとかいう以前の問題であり、そもそも学術論文ではないのです。
そうしたものと比較するならば、コピペが多用された論文であっても、そのコピペが「必要な先行研究の紹介」であるならば、そして出典が明記されていれば、全く問題はないどころか、それは学術論文には必要なことです。
例えば、東大教養学部長の石井洋二郎教授は、この点に関して「学術論文におけるコピー・アンド・ペーストの問題がクローズアップされている。厄介なのは無意識のコピー・アンド・ペーストが目に見えない形で私たちの思考を侵食していることではないか」というようなことを、同大学の入学式で述べたそうです。
この言い方はおかしいと思います。真剣な研究者であれば、先行研究の中の主要な論文は、それこそ「思考を侵食する」ぐらい頭に入っていて、その上で研究を先に進めようと考えているはずです。「何にも侵食されない」で、オリジナルの独創ばかりを考えているのであれば、それが小説や詩であれば結構なことかもしれませんが、学術論文としては落第です。
学問というのは、過去の蓄積をまず学び、そこに新しい試みが重ねられていくことで積み上がっていくものなのです。学術論文というものは、その積み重ねが表現されていなくてはなりません。そうではなくて、100%独創であればいいというイメージが広がるのであれば、それは大変な間違いであると言わざるを得ません。
その「伝えられ方」の中で、一点だけどうしても我慢のならないことがあります。それは、論文に「コピペ」が横行しているのはケシカランという報道が余りに加熱しているために、まるで「コピペがゼロ」の、つまり「100%オリジナルな論文」が理想であるかのようなイメージが拡散していることです。
これは大変な間違いです。学術論文(リサーチ・ペーパー)は文学作品ではありません。100%オリジナルなどというものは、評価の対象にすらならないのです。
余りにも基本的なことなので、私のような研究者以外の人間が言うのも妙なのですが、どうもキチンと伝わっていないようですので、お話することにします。
学術論文というのは、研究者が全くの独創で考えて書くものでは「ありません」。まずその分野における「先行研究」、つまり過去の多くの研究者が研究して発表した論文などの成果を、ひと通りレビューすることが求められるのです。過去の研究成果の積み上げに対して、異議を申し立てるにしても、足りないところを補うにしても、新たな説を付け加えるにしても、「先行研究」を紹介してまとめるという部分は、どのような学術論文の場合でも必要なことです。
この「先行研究の紹介」ですが、大ざっぱに言うと方法は2通りあります。一つは「引用」です。これは文字通り「引用」するわけで、過去の論文の中の重要な箇所をそのまま引っ張ってくるのです。但し、「ここは引用ですよ」ということが分かるように「カッコ(コーテーション・マーク)」で囲んで表示すると共に、出典を明らかにすることが必要です。
もう一つの方法は「地の文として紹介する」という方法です。先行研究の成果として、「分かっていること」など、先行研究の要点を「論文の筆者が理解し、咀嚼した上で、自分の言葉で論文の地の文として紹介する」というわけですが、この場合も、その元になった論文のタイトルと著者を、参考文献リストなどでキチンと表記して置かねばなりません。
実は、多くの研究者にとって、この「先行研究のレビュー」というのは、自分の研究成果の表現という「メインディシュ」ではないにも関わらず、神経を使い、手間のかかる「面倒な部分」であると思います。その結果として、この「先行研究のレビュー」の部分に問題のある論文というのは、世界中に相当な数が存在すると考えても良いでしょう。
色々なケースが考えられます。
例えば、論文を英語で書かねばならない場合に、「地の文に取り込み」たいが、どうしても正確な英語で「自分の言葉に言い換える」自信がないので、結局はオリジナルの表現の正確な英語をそのまま引用してしまった、その場合に出典を明記しようと思ったら、著者とタイトルは分かったが、「いつどこで出版されたか?」が時間内に判明しなかった、このままでは「出典明記の形式要件」を満たさないので、原文を引用したものの何も注記しなかった、などというケースは多々あると思います。
また、地の文に取り込むスタイルで書いたが、まとめて行くうちに「出典データ」が錯綜してきて、どこかが何の引用なのか分からなくなってしまった。結果的に出典を表示しないままに引用している部分が残ってしまった、などというケースもあるでしょう。
研究者の実力とは関係ない世界で、「どうしても雑誌の締め切りに間に合わせたい」とか「学位論文の締め切りに間に合わせたい」というような「時間との戦い」を行っている際には、特にこうした「事故」は起こりがちであると考えられます。
どちらもルール違反であるのは間違いありません。ですから、減点など何らかのペナルティを受けることは仕方がないでしょう。ですが、先行研究のレビューを行わず、100%自分の独創だと称して、100%自分で勝手なことを書いたとしたら、これは減点とか不合格だとかいう以前の問題であり、そもそも学術論文ではないのです。
そうしたものと比較するならば、コピペが多用された論文であっても、そのコピペが「必要な先行研究の紹介」であるならば、そして出典が明記されていれば、全く問題はないどころか、それは学術論文には必要なことです。
例えば、東大教養学部長の石井洋二郎教授は、この点に関して「学術論文におけるコピー・アンド・ペーストの問題がクローズアップされている。厄介なのは無意識のコピー・アンド・ペーストが目に見えない形で私たちの思考を侵食していることではないか」というようなことを、同大学の入学式で述べたそうです。
この言い方はおかしいと思います。真剣な研究者であれば、先行研究の中の主要な論文は、それこそ「思考を侵食する」ぐらい頭に入っていて、その上で研究を先に進めようと考えているはずです。「何にも侵食されない」で、オリジナルの独創ばかりを考えているのであれば、それが小説や詩であれば結構なことかもしれませんが、学術論文としては落第です。
学問というのは、過去の蓄積をまず学び、そこに新しい試みが重ねられていくことで積み上がっていくものなのです。学術論文というものは、その積み重ねが表現されていなくてはなりません。そうではなくて、100%独創であればいいというイメージが広がるのであれば、それは大変な間違いであると言わざるを得ません。