恐れていたことが起こりつつある。
アルカーイダすら「絶縁」するほどの過激派、「イラクとシャームのイスラーム国」(ISIS)が、イラクで攻勢に出、イラク第3の都市、モースルを手中にいれたのだ。
ISISは、すでに今年初めからファッルージャなどイラク西部で拠点を築き、イラク国軍と抗争を繰り返していたが、6月に入ってバグダードの北125kmにあるサマッラーに攻勢をしかけるなど、活動範囲を急速に拡大していた。それが、10日には北部ニナワ県県庁所在地のモースルを陥落したのである。
ISISの武装勢力はモースルの市庁舎や空港など要所を制圧し、同市を守るべき警察、軍は軍服を脱いでほうほうの体で逃走したという。庇護を失った市民は市外、県外に逃げまどい、その数は45万人にも上ると言われるが、隣接するクルド自治区では殺到する難民に固く門戸を閉ざして、騒動に巻き込まれまいと必死だ。
イラクの治安は、2011年末に米軍が撤退して以降、じわじわと悪化していたが、今年にはいり1日平均の民間人の死者が50人前後となった。2011-12年に1日平均10人程度だったのに比べると、5倍にも上っている。さらに、6月第1週では1日平均80人を超えた。このままいくと、最悪の内戦を経験した2006-2007年の、1日平均100人以上の死者を出す状況に舞い戻らないとも限らない。
なぜこんなことになってしまったのか。イラク・イスラーム国の活動は、内戦を終わらせたいイラク政府と米軍がさまざまな手を講じて、2008年にはその武装活動が大きく封じ込められたはずだ。反米武装勢力が激しく抵抗運動を展開していた西部のアンバール県やニナワ県では、覚醒評議会と呼ばれる親政府の部族勢力を支援することで、武装勢力と地元住民が協力関係を断つことに成功した。その「住民の心を獲得する」方法は、当時ペトレイアス方式と呼ばれて、米軍の戦後処理の成功例と言われたほどだ。
なのになぜ、内戦が再燃する状況になったのか。イラクとシャームのイスラーム国、というぐらいなので、シリアでの武装勢力の活発化がイラク国内での活動に影響を与えていることは、明らかだ。だが、最大の失敗は、イラク政府がせっかく獲得したはずの「住民の心」を再び手放したことである。
「住民の心を獲得する」ことのひとつには、政権から外れた非主流派にも閣僚などのポストを配分し、不満の大きいスンナ派にも政権参加意識を持たせることがあった。マーリキー政権は、2010年、つまり第2期が始まる頃までは、スンナ派の中心的な政治家に、要職を与えて権力分与を心掛けていた。ところが米軍の撤退後は一転、こうしたスンナ派政治家を政敵として排除するようになる。
なかでも問題だったのが、2012年末にアンバール県出身のイーサウィ財務相の追い落としを開始したことである。それをきっかけにして、せっかく落ち着いていたアンバール県で政府不信が再燃した。反政府デモが続き、それを政府軍が鎮圧するという混乱のなかで、イラク・イスラーム国の武装集団がこの地に再び拠点を確立したのは、想像に難くない。遅ればせながら政府は、かつて「心を獲得する」ために起用した覚醒評議会などを再利用しようとしたが、いったん失われた信頼を築くのは難しい。
だが、こうしたアンバール県の事情に比べて、今回のモースル陥落のほうが、事態は深刻だ。というのも、モースルのスンナ派住民は、政府に不満を持ちながらも議会制度を通じて政権参画を着実に続けているからだ。地元出身の政治家がパージされたアンバール県と異なり、モースルに基盤を持つヌジャイフィー国会議長は、今やスンナ派政治家のなかでは最も支持を集める要人だ。アンバール県が、政権から排除されてその結果武装勢力につけ入られたのだとしたら、そのような環境はモースルの場合、ない。いいかえれば、住民の間に武装勢力が入り込む隙がないにも関わらず、イラク・イスラーム国の武装集団は街ひとつを制圧できるほどの力を持っていた、ということである。
そして、2006-07年の内戦の頃よりも事態は深刻かもしれない。なぜなら、これは宗派対立ではないからだ。内戦当時、武装勢力は住民の間に入り込む隙を作る必要があって、あえて宗派対立を助長するような無差別テロを行ってきた。サマッラーのシーア派聖地、アスカリ廟が爆破されたのは、その代表的な例である。だが、今展開しているのは、そのような挑発というよりは、本格的な軍事行動だ。宗派対立の挑発を受けていたときには、それに乗らないように、と自制を効かせることで、対応できた。だが、今の攻勢には、住民側が自制してどうにかなるものではない。
モースルとアンバール県を支配下におさめて、すでにイラク・イスラーム国は北と西からバグダードを見据えている。首都陥落などという悪夢が、悪夢ではないかもしれない、という不安が、イラクを包んでいる。
アルカーイダすら「絶縁」するほどの過激派、「イラクとシャームのイスラーム国」(ISIS)が、イラクで攻勢に出、イラク第3の都市、モースルを手中にいれたのだ。
ISISは、すでに今年初めからファッルージャなどイラク西部で拠点を築き、イラク国軍と抗争を繰り返していたが、6月に入ってバグダードの北125kmにあるサマッラーに攻勢をしかけるなど、活動範囲を急速に拡大していた。それが、10日には北部ニナワ県県庁所在地のモースルを陥落したのである。
ISISの武装勢力はモースルの市庁舎や空港など要所を制圧し、同市を守るべき警察、軍は軍服を脱いでほうほうの体で逃走したという。庇護を失った市民は市外、県外に逃げまどい、その数は45万人にも上ると言われるが、隣接するクルド自治区では殺到する難民に固く門戸を閉ざして、騒動に巻き込まれまいと必死だ。
イラクの治安は、2011年末に米軍が撤退して以降、じわじわと悪化していたが、今年にはいり1日平均の民間人の死者が50人前後となった。2011-12年に1日平均10人程度だったのに比べると、5倍にも上っている。さらに、6月第1週では1日平均80人を超えた。このままいくと、最悪の内戦を経験した2006-2007年の、1日平均100人以上の死者を出す状況に舞い戻らないとも限らない。
なぜこんなことになってしまったのか。イラク・イスラーム国の活動は、内戦を終わらせたいイラク政府と米軍がさまざまな手を講じて、2008年にはその武装活動が大きく封じ込められたはずだ。反米武装勢力が激しく抵抗運動を展開していた西部のアンバール県やニナワ県では、覚醒評議会と呼ばれる親政府の部族勢力を支援することで、武装勢力と地元住民が協力関係を断つことに成功した。その「住民の心を獲得する」方法は、当時ペトレイアス方式と呼ばれて、米軍の戦後処理の成功例と言われたほどだ。
なのになぜ、内戦が再燃する状況になったのか。イラクとシャームのイスラーム国、というぐらいなので、シリアでの武装勢力の活発化がイラク国内での活動に影響を与えていることは、明らかだ。だが、最大の失敗は、イラク政府がせっかく獲得したはずの「住民の心」を再び手放したことである。
「住民の心を獲得する」ことのひとつには、政権から外れた非主流派にも閣僚などのポストを配分し、不満の大きいスンナ派にも政権参加意識を持たせることがあった。マーリキー政権は、2010年、つまり第2期が始まる頃までは、スンナ派の中心的な政治家に、要職を与えて権力分与を心掛けていた。ところが米軍の撤退後は一転、こうしたスンナ派政治家を政敵として排除するようになる。
なかでも問題だったのが、2012年末にアンバール県出身のイーサウィ財務相の追い落としを開始したことである。それをきっかけにして、せっかく落ち着いていたアンバール県で政府不信が再燃した。反政府デモが続き、それを政府軍が鎮圧するという混乱のなかで、イラク・イスラーム国の武装集団がこの地に再び拠点を確立したのは、想像に難くない。遅ればせながら政府は、かつて「心を獲得する」ために起用した覚醒評議会などを再利用しようとしたが、いったん失われた信頼を築くのは難しい。
だが、こうしたアンバール県の事情に比べて、今回のモースル陥落のほうが、事態は深刻だ。というのも、モースルのスンナ派住民は、政府に不満を持ちながらも議会制度を通じて政権参画を着実に続けているからだ。地元出身の政治家がパージされたアンバール県と異なり、モースルに基盤を持つヌジャイフィー国会議長は、今やスンナ派政治家のなかでは最も支持を集める要人だ。アンバール県が、政権から排除されてその結果武装勢力につけ入られたのだとしたら、そのような環境はモースルの場合、ない。いいかえれば、住民の間に武装勢力が入り込む隙がないにも関わらず、イラク・イスラーム国の武装集団は街ひとつを制圧できるほどの力を持っていた、ということである。
そして、2006-07年の内戦の頃よりも事態は深刻かもしれない。なぜなら、これは宗派対立ではないからだ。内戦当時、武装勢力は住民の間に入り込む隙を作る必要があって、あえて宗派対立を助長するような無差別テロを行ってきた。サマッラーのシーア派聖地、アスカリ廟が爆破されたのは、その代表的な例である。だが、今展開しているのは、そのような挑発というよりは、本格的な軍事行動だ。宗派対立の挑発を受けていたときには、それに乗らないように、と自制を効かせることで、対応できた。だが、今の攻勢には、住民側が自制してどうにかなるものではない。
モースルとアンバール県を支配下におさめて、すでにイラク・イスラーム国は北と西からバグダードを見据えている。首都陥落などという悪夢が、悪夢ではないかもしれない、という不安が、イラクを包んでいる。