英語圏でよく言われるのですが、日本人はよく「神秘的(ミステリアス)な微笑」をするというのです。この「神秘的な微笑」ですが、別に日本人はいつも神秘的な雰囲気を漂わせているというわけではありません。
この「神秘的な微笑」とは何なのでしょう? イザと言うときに「神秘的な微笑」を見せて困難な状況を受け止めて周囲を和ませるとか、ストレスの高い局面において強い忍耐を見せて感心されるということなのでしょうか? どうもそうではないのです。
実は、この「神秘的な微笑」というのは決して評判の良いものではありません。というのは、この微笑というのは、コミュニケーションが破綻した際に出現するものだからです。
例えば、英語が分からなくなって、会話が破綻したような場合です。本来であれば、話している相手に聞き返すとか、その場にいる英語力の高い人に確認する、あるいは頑張って自分で他の言い方に言い換えて誤解がないか確認するという場面で、ひたすらに黙りこみつつ微笑するのです。
英語圏の人間からすると、この微笑というのは理解しづらいのです。会話が破綻し、重要な内容が明らかに伝わっていないというのは危機的な状況です。内容に集中し、あらゆる手段を講じて誤解を解くなり、正確な理解へ行くといった真剣な努力をすべき局面のはずです。
ところが、相手は何もせずに「神秘の微笑み」を浮かべているわけで、これは正に宇宙からやってきたエイリアンとの「接近遭遇」のような経験になってしまうわけです。
どうして、日本人はこうした場合に微笑んでしまうのでしょう? 理由は単純です。相手にとって会話の破綻というのは、意思疎通の危機、つまり情報流通という事務的な、しかし重要な問題において目的が達成されない危機であるわけです。ところが、日本人にとってはそうではありません。そんなビジネスライクな問題よりも、「関係性の危機」つまり「会話の前提となる良好な関係」が危機に瀕しているという理解になるのです。
そこで、必死に誤解を解くとか、言い換えをして理解を確認するといった事務的な行動の前に「破綻しつつある関係性を修復したい」という無意識な、しかし強い動機が発生します。それが意味不明の微笑となって出現するわけです。
この「神秘的な微笑み」というのは、英語が分からない場合だけでなく、英語は通じているが、肝心の商談がほとんど物別れになりそうな場合にも起きます。商談ということでは、もうディールは成立せず、決裂ということで仕方のない局面であるにも関わらず、意味不明の微笑が来ると、場合によっては「バカにしているのか?」とか「最初から買いたくなかったのか?」といった不快感を与えることもあります。
ですが、日本人の方は真剣なのです。商談は物別れかもしれないが、関係性というのは平和的に修復して終わりたいという、何ともお人好しな品性が出てしまい、意味不明な微笑をしてしまうわけです。
ところで、東京都議会議場での「セクハラ野次」事件では、暴言のターゲットになった女性議員が、攻撃に対して微笑みを浮かべたということが問題になっています。
笑うべきではなく、そこでは即座に告発モードになって反撃すべきであったというような意見もあれば、攻撃された女性議員が笑ったので、自分もそのことに対して微笑した(本当かは分かりませんが)という舛添都知事のような反応もあります。
ですが、この攻撃を受けた議員の「微笑」というのは、これも正に「日本人の神秘的な微笑」なのです。つまり、野次を飛ばした議員だけでなく、野次に反応して議場内が騒然とする中で、かなり広い範囲から「笑い」が起きていた、つまり物言わぬ多数派が、笑うことで、そしてそれ以前に野次に反発しないことで、野次に同調する「空気」を作っていたのだと思います。
その空気はある状態を越えると、強い同調圧力を持っていくわけです。そうなると議場の多数派に空気が伝播していきます。結果として、野次だけでなく、それに暗黙のうちに同調している空気が、登壇していた女性議員に対する攻撃性を帯びてくるわけです。
女性議員は「野次とその野次に笑っている大勢の同調者」から自分に向かってくる敵意の総量に対して、とっさに「関係性の修復」を試みるために反射的に微笑んでしまったのだと思います。
では、その微笑は効果があったのでしょうか? 残念ながらそうではありませんでした。「笑ったから許容されたのかと思った」的ないい加減な口実に使われる中で、決して「関係性を修復しつつ相手に反省を迫る」ような良い効果は生まなかったのです。
どうやらこの「神秘的な微笑み」というのは、コミュニケーションのスタイルとしては生産性はないようです。明らかなコミュニケーションの破綻があったり、明らかな敵意に対して徹底して戦わなければならない時に、とっさに「関係性の改善」をしようと微笑んでしまうのは、自分の方の失点にしかならないからです。
こうした問題に関しては、ちょうど日経ビジネスの電子版に、榎本博明という方への『「はい論破。」は誰も幸せにしない 空気を読むコミュニケーションは日本の長所だ』というインタビュー記事が出ていました。その中には「日本人は他者との関係性に自己がある」とか「日本は相手に合わせる文化」だという主張が並んでいます。
ですが、今回の都議会議場での一件がそうであるように、現代の日本社会に求められているのは「多様な人間が共存しようとする」ための協調であり、ある保守的な価値観に、下の世代や少数者が合わせていかねばならないような協調ではないのです。
この二種類は協調といっても、全く別です。この点から考えると、榎本氏の主張は、得てして間違った守旧派の論理を正当化するために使われる危険性があるように思います。その意味で、誤った考えを追及していくためには、「微笑み」を封印して、言うべきことは言っていかねばならない、そのような時代であるとも言えます。
では、海外で会話が破綻した際の「神秘的な微笑み」はどうかというと、こちらも百害あって一利なしであることを思うと、止めたほうが良いと思います。
この「神秘的な微笑」とは何なのでしょう? イザと言うときに「神秘的な微笑」を見せて困難な状況を受け止めて周囲を和ませるとか、ストレスの高い局面において強い忍耐を見せて感心されるということなのでしょうか? どうもそうではないのです。
実は、この「神秘的な微笑」というのは決して評判の良いものではありません。というのは、この微笑というのは、コミュニケーションが破綻した際に出現するものだからです。
例えば、英語が分からなくなって、会話が破綻したような場合です。本来であれば、話している相手に聞き返すとか、その場にいる英語力の高い人に確認する、あるいは頑張って自分で他の言い方に言い換えて誤解がないか確認するという場面で、ひたすらに黙りこみつつ微笑するのです。
英語圏の人間からすると、この微笑というのは理解しづらいのです。会話が破綻し、重要な内容が明らかに伝わっていないというのは危機的な状況です。内容に集中し、あらゆる手段を講じて誤解を解くなり、正確な理解へ行くといった真剣な努力をすべき局面のはずです。
ところが、相手は何もせずに「神秘の微笑み」を浮かべているわけで、これは正に宇宙からやってきたエイリアンとの「接近遭遇」のような経験になってしまうわけです。
どうして、日本人はこうした場合に微笑んでしまうのでしょう? 理由は単純です。相手にとって会話の破綻というのは、意思疎通の危機、つまり情報流通という事務的な、しかし重要な問題において目的が達成されない危機であるわけです。ところが、日本人にとってはそうではありません。そんなビジネスライクな問題よりも、「関係性の危機」つまり「会話の前提となる良好な関係」が危機に瀕しているという理解になるのです。
そこで、必死に誤解を解くとか、言い換えをして理解を確認するといった事務的な行動の前に「破綻しつつある関係性を修復したい」という無意識な、しかし強い動機が発生します。それが意味不明の微笑となって出現するわけです。
この「神秘的な微笑み」というのは、英語が分からない場合だけでなく、英語は通じているが、肝心の商談がほとんど物別れになりそうな場合にも起きます。商談ということでは、もうディールは成立せず、決裂ということで仕方のない局面であるにも関わらず、意味不明の微笑が来ると、場合によっては「バカにしているのか?」とか「最初から買いたくなかったのか?」といった不快感を与えることもあります。
ですが、日本人の方は真剣なのです。商談は物別れかもしれないが、関係性というのは平和的に修復して終わりたいという、何ともお人好しな品性が出てしまい、意味不明な微笑をしてしまうわけです。
ところで、東京都議会議場での「セクハラ野次」事件では、暴言のターゲットになった女性議員が、攻撃に対して微笑みを浮かべたということが問題になっています。
笑うべきではなく、そこでは即座に告発モードになって反撃すべきであったというような意見もあれば、攻撃された女性議員が笑ったので、自分もそのことに対して微笑した(本当かは分かりませんが)という舛添都知事のような反応もあります。
ですが、この攻撃を受けた議員の「微笑」というのは、これも正に「日本人の神秘的な微笑」なのです。つまり、野次を飛ばした議員だけでなく、野次に反応して議場内が騒然とする中で、かなり広い範囲から「笑い」が起きていた、つまり物言わぬ多数派が、笑うことで、そしてそれ以前に野次に反発しないことで、野次に同調する「空気」を作っていたのだと思います。
その空気はある状態を越えると、強い同調圧力を持っていくわけです。そうなると議場の多数派に空気が伝播していきます。結果として、野次だけでなく、それに暗黙のうちに同調している空気が、登壇していた女性議員に対する攻撃性を帯びてくるわけです。
女性議員は「野次とその野次に笑っている大勢の同調者」から自分に向かってくる敵意の総量に対して、とっさに「関係性の修復」を試みるために反射的に微笑んでしまったのだと思います。
では、その微笑は効果があったのでしょうか? 残念ながらそうではありませんでした。「笑ったから許容されたのかと思った」的ないい加減な口実に使われる中で、決して「関係性を修復しつつ相手に反省を迫る」ような良い効果は生まなかったのです。
どうやらこの「神秘的な微笑み」というのは、コミュニケーションのスタイルとしては生産性はないようです。明らかなコミュニケーションの破綻があったり、明らかな敵意に対して徹底して戦わなければならない時に、とっさに「関係性の改善」をしようと微笑んでしまうのは、自分の方の失点にしかならないからです。
こうした問題に関しては、ちょうど日経ビジネスの電子版に、榎本博明という方への『「はい論破。」は誰も幸せにしない 空気を読むコミュニケーションは日本の長所だ』というインタビュー記事が出ていました。その中には「日本人は他者との関係性に自己がある」とか「日本は相手に合わせる文化」だという主張が並んでいます。
ですが、今回の都議会議場での一件がそうであるように、現代の日本社会に求められているのは「多様な人間が共存しようとする」ための協調であり、ある保守的な価値観に、下の世代や少数者が合わせていかねばならないような協調ではないのです。
この二種類は協調といっても、全く別です。この点から考えると、榎本氏の主張は、得てして間違った守旧派の論理を正当化するために使われる危険性があるように思います。その意味で、誤った考えを追及していくためには、「微笑み」を封印して、言うべきことは言っていかねばならない、そのような時代であるとも言えます。
では、海外で会話が破綻した際の「神秘的な微笑み」はどうかというと、こちらも百害あって一利なしであることを思うと、止めたほうが良いと思います。