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ブラジルと日本に言っておきたい、いくつかの事柄 - 森田浩之 ブラジルW杯「退屈」日記

ニューズウィーク日本版 2014年7月11日 17時24分

 日本に帰ってきたら、いきなりブラジルが準決勝でドイツに惨敗した。僕がいたときと今のブラジルの空気は、大きく違ってしまったにちがいない。日本人だって1-4でコロンビアに負けたらあれだけ失望するのだから、開催国として臨んだ準決勝で1-7などというスコアで敗れたら、国中が集団的トラウマを負ってもおかしくない。

 ブラジルの人たちには深く同情する。ブラジルには3週間ちょっと滞在し、ハードな旅ではあったけれど、とても楽しめた。また行けるかどうかはわからないが(なにしろ遠いので)、今まで経験した旅のなかで3本の指に入る面白さだった。

 一方、東京では「日本にとってのワールドカップ」がずいぶん前に終わっていたようだった。留守中にたまっていた日本の新聞をめくると、いつものように日本代表の戦いへの総括があり、辛口の批判があり、次期代表監督の有力候補のことが詳しく報じられていた。

 そして、このブログも最終回。とくに今回のワールドカップをめぐって、ブラジルと日本に言いたいことを2点ずつに絞って書いてみたい。まずブラジルから。

■もっと街歩きがしたかった

 僕は12の開催都市のうち半分に行ったが、リオデジャネイロとサンパウロ以外は正直言って「田舎」だった。街を歩く楽しさがないし、そもそも歩くだけの街がない。

 宿からタクシーや乗り合いのバンでスタジアムへ行き、試合が終わったらタクシーや乗り合いのバンで帰ってくる。翌日はタクシーで空港へ行き、次の試合の開催地へ飛行機で飛ぶ。そんな味気ない時間を過ごしたこともあった。もしかすると僕の予習が足りなかったせいかもしれないが、スタジアムでサッカーを見る以外にはやることがない街が多かった。

 4年前の南アフリカ大会は、まだよかった。ケープタウンやダーバンという「歩ける」街が開催都市に入っていたし、要塞のような家が立ち並んでいたヨハネスブルクも、「危険だから行くな」とさんざん言われていたダウンタウンに行けば十分に楽しめた。

 ワールドカップを開く国は、たいてい10カ所以上の開催都市を選ぶ。開催都市が増えるほど、見どころのない街が多く入ってくる(今大会の開催都市で最も見どころのない街は首都ブラジリアだったと思う)。

 これだけのメガイベントを開くのだから会場を全国各地に設けたいという意図はわかるが、メガイベントだからこそ、スタジアムを建てて試合をすればいいというものではないと思う。ブラジルへの意見というよりワールドカップそのものへの提案になってしまうが、開催都市はもうちょっと少なくてもいいのではないか。



■もう少し手厚く案内をしてほしい

 ブラジルでは、スタジアムへの行き帰りの案内がほとんどなかった。リオデジャネイロのマラカナンのように、メトロの駅が近くにあるスタジアムはいい。でもそんな便利なスタジアムは、僕が行ったなかではマラカナンだけだった。

 残りのスタジアムは、行くときも自分でバスの発着所などを調べないといけなかった。しかも試合が終わったあと、どこへ行けば何があるのかが、ほとんどわからない。

 最悪だったのは日本の第3戦が行われたクイアバのスタジアムだ。来るときは街の中心部から出ているシャトルバスを使ったので、スタジアムからの帰りもそのバスに乗りたかったのだが、どこから出ているのかまったくわからない。とりあえず人の流れについていき、途中で係員(だと思う)に確認もしたのだけど、乗り場はいっこうにわからない。最後には奇跡的にタクシーがつかまって宿に帰ることができたが、まじめな話、一時は遭難するかと思った。

 けれども考えてみたら、スタジアムからバス乗り場までていねいに案内をしている国など、日本のほかにはなかった気もする。フランスでもドイツでもイングランドでも、人の流れについていって、なんとか移動していた記憶がある。

 こういうときに外国の大ざっぱさが目につくのは、このあたりが日本人の超得意科目だからかもしれない。2002年の日韓共催ワールドカップのとき、イングランドのサポーターの間に「奇跡のバス」という言葉が生まれた。イングランドがデンマークと戦った新潟のシャトルバスを指したものだ。なぜ奇跡と呼ばれたか。それは駅前に並んでいるのが乗客ではなく、バスのほうだったからだ。

 次に日本について。おもにメディア報道の話だ。

■サッカーの成績を「国民性」のせいにするな

 日本に帰ってきて代表が大会を去った翌日の新聞を読んでいたら、やはりこんな文が見つかった。「代表チームはその国の民族性や価値観、文化、社会を映し出す」(6月26日、朝日新聞)。まっとうなことを言っているように聞こえるが、この手の議論は眉つばものだ。

 日本代表が勝てば「持ち前の組織力がものをいった」と称賛し、負ければ「日本人はまだ個の力が足りない」と批判する。日本のメディアはサッカーについて、そんな報道を繰り返してきた。だがこの議論が正しいなら、サッカーの試合に勝っても負けても、その理由は「日本人だから」ということになる。サッカーという複雑なスポーツを語り合う面白さは、そこで立ち消えになってしまう。

 選手が替わり、世代が交代し、監督が(国籍まで)替わっても、サッカー日本代表は日本人の「文化」に縛られるのだろうか。そのときの文化とは、いったい何だろう。



■開催国を「強盗だらけの国」みたいに言わないで

 この連載の初回に書いたが、僕はブラジルに行くことをずいぶん迷った。ブラジルの治安の悪さを伝えるニュースが嫌というほど流れてきたからだ。

 行った当初は相当に緊張していた。テレビで誰かが勧めていたとおり、強盗に囲まれたときに渡してもいい「2つ目の財布」も用意していった。しかし現地に行ってしばらくたつと、ごく普通に注意を払っていれば危険なことには出合わないという感触がつかめてきた。

 もちろん犯罪が多いことは統計にも表れているから、「ブラジルの治安にはなんの心配もいらない」とは言えないだろう。しかし、日本のメディアの報道からイメージされるような「強盗だらけの国」では決してなかった。

 ワールドカップ開催国の治安を問題視する報道ラッシュは4年前の南アフリカ大会でもみられたが、結果的にその国のイメージをゆがめている。こうなってしまうのは、起こったこと(たとえば「殺人が起きた」「デモが起きた」「スタジアム建設が間に合いそうにない」)ばかりを伝え、平穏な日常はあまりニュースにしないというメディアの習性による部分が大きいだろう。起こったことだけを見聞きしていれば、たいていの国は危険な場所に映る。

 しかしもう1つ気になるのは、開催国の治安を問題視する傾向が最近になって強まっていないかということだ。たまたま南アとブラジルだから、こういう報道になったのか。あるいは、もしかすると日本の「ソト」は危ないという意識が強まっていることの表れではないのか。次のロシア大会では、どんなことになるのだろう?

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 ひとまず僕は「2つ目の財布」を引き出しにしまい、ドイツ─アルゼンチンの決勝をテレビ観戦することにします。午前4時のキックオフも苦になりません。まだ体はブラジル時間で動いていますから。

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