古書店に掲示されたいい加減な張り紙を見てISIS(イスラム教スンニ派テロ組織、自称イスラム国)に志願する、という話にはあきれました。今回の警察の「私戦予備及び陰謀罪」適用というのは、模倣者がどんどん出てくることを防止するためのもので、このレベルの「志願者予備軍」への抑止効果はあるのかもしれません。
ですが、フリーのジャーナリストの中東での活動まで制約されてしまうようでは、軍事や外交に関する判断材料が足りなくなり、まわりまわって日本の国としての判断を誤ることにならないか心配です。異例の「私戦予備及び陰謀罪」の適用に関しては、そうした総合的な判断も示して欲しいと思います。
ただ、この日本の若者が「イスラム国」に興味を持ったというストーリーは、そんなに驚くこととは思いません。というのは既視感があるからです。
1960年代の末に、東京大学医学部の学生による学部内の近代化運動が契機となって、全国に学生運動が広がりました。その運動は、ベトナム戦争への怒りや、中国の「文化大革命」への情けないほどの過大評価も手伝って一旦は拡大しました。ですが、結果的に「敗北」してゆく中で、一部の過激な部分は「共産同赤軍派」を結成しています。
その一部が「日本赤軍」を名乗って、日本とは無関係の中東に乗り込み、正義の味方を気取って本当にテロ行為を行いました。中でも有名なのは、1972年5月に発生したイスラエルのテルアビブにあるロッド空港での「無差別乱射事件」です。日本人の若者3人がイスラエルへの来訪者など26人を殺害し、70人以上に重軽傷を追わせた事件です。
この3人については、別にパレスチナに親戚がいるわけでも、イスラム教に理解があったわけでもありません。個人的には全く無関係であるにも関わらず、興味を持ったというだけで日本から遠く離れた中東の地に渡り、そこで大勢の人間を殺したのです。まさに、「日本の若者が興味本位でテロリストになった」という例です。
この「イスラム国志願者」の問題について、朝日新聞は10月6日の社説で、次のように述べています。
「テロリストを摘発しようと治安対策ばかり強化しても、根源的な解決は導けない。なぜ若者が過激派に走るのか。その土壌となっているそれぞれの国内問題に取り組み、『テロリストを生まない社会』を築く努力が必要である。そのためには、心理学者や宗教者、教師、カウンセラーら、若者たちと接してきた専門家との協力も求められるだろう。幅広い知恵を結集し、息の長い取り組みを続けてほしい。」
今回のバカバカしい事件、72年の血なまぐさい事件を考えると、この「社説」には何となく納得させられそうになります。60年代末に学生運動が発生したのは、東大医学部や日大の組織が前近代的だったことや、ベトナム戦争に対して当時の佐藤政権が間接的に協力していたことへの怒りがあったわけです。そうした怒りが、問題の発端であるならば、その原因から「絶たねばダメ」というわけです。
現在の日本で、あるいは欧米の社会で「イスラム国」に興味を持つ人間について言えば、例えば格差の問題であるとか、若者の雇用不安であるとか、あるいは自分の国が「悪い戦争に加担している」という怒りなどが発端になっていて、それが個々の若者を「テロリストになりたい」という心理に追いやっている、そうした解説は可能かもしれません。
ですから、60年代に大学の近代化が進み、ベトナム戦争への間接加担という怒りの元凶がなくなれば、あるいは現在であるならば格差や雇用の問題が解決すれば、テロリストに憧れる若者はなくなる......理屈としてはそういう話になります。
ですが、私はその理屈は違うと思います。2点申し上げたいと思います。
1つは、仮に自分の国の国内問題に悩んだり、国内の不公正に対して怒ったりしているのなら、その人間はその問題そのものと戦うべきです。親子の確執があるのなら、決別するか和解するまで徹底的に向き合うべきです。終身雇用制が自分の敵であるのなら、自身の実力を磨いて徹底的に上の世代を追い越すべきです。格差があって、そこに社会的不公正があるのならメディアや選挙制度を使って告発し続けるべきです。
もちろん、一人一人に出来ることには限界もあるでしょう。実際に社会の問題と対決するためには、その前に自分が一人の市民として生活できるだけの自立をしなくてはなりません。ですが、そうしたプロセスを経ないでは、この世の中は変わらないし、自分も社会も前へ進むことはできません。
なぜ自分自身の属しているコミュニティの問題、つまり自分自身の問題ではなく、どうして「自分とは無関係の中東」に行きたがるのでしょう?
もう1つの問題はそこにあります。現代の先進国社会が抱える問題は、人口動態にしても格差にしても、大変に複雑な利害で成り立っています。それを単純な理念によって再分配することはもはや不可能であり、複雑に錯綜した利害対立を、丁寧に解きほぐしながら、できるだけ中長期の視点で最適解を見出し、その最適解に社会的合意を近づけていくという大変な作業が必要です。為政者や官僚だけでなく、そうした社会に生きる一人一人もまた「複雑系の中での最適解」を求める生き方が必要なのです。
そうした中で、その「複雑さ」に向き合うことなく、単純に「イスラエルは悪だ」とか「欧米は悪だ」という善悪二元論に引き寄せられるというのは、要するに逃避なのです。複雑さの中で暫定的な最適解を探し、更に微修正をし続けるとか、3つ以上の利害関係の錯綜を解きほぐすといった「生き方」ができないから、逃げとして、敗北として「パレスチナ解放戦線」だとか「イスラム国」のことを「絶対的な善」と勘違いして興味を持つのです。
ここに最大の問題があります。イスラエルとパレスチナの紛争にしても、シリアやイラクのスンニ派の宗派問題にしても、実は複雑さということでは変わらないのです。利害調整の必要な対象は、どの問題にも三者とか四者が絡んでいますし、短期的な戦術と、中長期のビジョンはしばしば相反します。「生命のやり取り」が絡む分だけ、平和な日本の若者の雇用問題とか、格差問題よりももっと複雑かもしれません。
そんな「複雑な世界」に「単純な善悪を求めて」行くのは悲しいほどに滑稽であり、おそらくは先方の足手まといになるのが関の山であり、そして「使い捨て」にされる可能性が大であり、結果的に自分の人生の生きた証などにはならないでしょう。そのことを、徹底的に説いてやるべきだと思います。
ですが、フリーのジャーナリストの中東での活動まで制約されてしまうようでは、軍事や外交に関する判断材料が足りなくなり、まわりまわって日本の国としての判断を誤ることにならないか心配です。異例の「私戦予備及び陰謀罪」の適用に関しては、そうした総合的な判断も示して欲しいと思います。
ただ、この日本の若者が「イスラム国」に興味を持ったというストーリーは、そんなに驚くこととは思いません。というのは既視感があるからです。
1960年代の末に、東京大学医学部の学生による学部内の近代化運動が契機となって、全国に学生運動が広がりました。その運動は、ベトナム戦争への怒りや、中国の「文化大革命」への情けないほどの過大評価も手伝って一旦は拡大しました。ですが、結果的に「敗北」してゆく中で、一部の過激な部分は「共産同赤軍派」を結成しています。
その一部が「日本赤軍」を名乗って、日本とは無関係の中東に乗り込み、正義の味方を気取って本当にテロ行為を行いました。中でも有名なのは、1972年5月に発生したイスラエルのテルアビブにあるロッド空港での「無差別乱射事件」です。日本人の若者3人がイスラエルへの来訪者など26人を殺害し、70人以上に重軽傷を追わせた事件です。
この3人については、別にパレスチナに親戚がいるわけでも、イスラム教に理解があったわけでもありません。個人的には全く無関係であるにも関わらず、興味を持ったというだけで日本から遠く離れた中東の地に渡り、そこで大勢の人間を殺したのです。まさに、「日本の若者が興味本位でテロリストになった」という例です。
この「イスラム国志願者」の問題について、朝日新聞は10月6日の社説で、次のように述べています。
「テロリストを摘発しようと治安対策ばかり強化しても、根源的な解決は導けない。なぜ若者が過激派に走るのか。その土壌となっているそれぞれの国内問題に取り組み、『テロリストを生まない社会』を築く努力が必要である。そのためには、心理学者や宗教者、教師、カウンセラーら、若者たちと接してきた専門家との協力も求められるだろう。幅広い知恵を結集し、息の長い取り組みを続けてほしい。」
今回のバカバカしい事件、72年の血なまぐさい事件を考えると、この「社説」には何となく納得させられそうになります。60年代末に学生運動が発生したのは、東大医学部や日大の組織が前近代的だったことや、ベトナム戦争に対して当時の佐藤政権が間接的に協力していたことへの怒りがあったわけです。そうした怒りが、問題の発端であるならば、その原因から「絶たねばダメ」というわけです。
現在の日本で、あるいは欧米の社会で「イスラム国」に興味を持つ人間について言えば、例えば格差の問題であるとか、若者の雇用不安であるとか、あるいは自分の国が「悪い戦争に加担している」という怒りなどが発端になっていて、それが個々の若者を「テロリストになりたい」という心理に追いやっている、そうした解説は可能かもしれません。
ですから、60年代に大学の近代化が進み、ベトナム戦争への間接加担という怒りの元凶がなくなれば、あるいは現在であるならば格差や雇用の問題が解決すれば、テロリストに憧れる若者はなくなる......理屈としてはそういう話になります。
ですが、私はその理屈は違うと思います。2点申し上げたいと思います。
1つは、仮に自分の国の国内問題に悩んだり、国内の不公正に対して怒ったりしているのなら、その人間はその問題そのものと戦うべきです。親子の確執があるのなら、決別するか和解するまで徹底的に向き合うべきです。終身雇用制が自分の敵であるのなら、自身の実力を磨いて徹底的に上の世代を追い越すべきです。格差があって、そこに社会的不公正があるのならメディアや選挙制度を使って告発し続けるべきです。
もちろん、一人一人に出来ることには限界もあるでしょう。実際に社会の問題と対決するためには、その前に自分が一人の市民として生活できるだけの自立をしなくてはなりません。ですが、そうしたプロセスを経ないでは、この世の中は変わらないし、自分も社会も前へ進むことはできません。
なぜ自分自身の属しているコミュニティの問題、つまり自分自身の問題ではなく、どうして「自分とは無関係の中東」に行きたがるのでしょう?
もう1つの問題はそこにあります。現代の先進国社会が抱える問題は、人口動態にしても格差にしても、大変に複雑な利害で成り立っています。それを単純な理念によって再分配することはもはや不可能であり、複雑に錯綜した利害対立を、丁寧に解きほぐしながら、できるだけ中長期の視点で最適解を見出し、その最適解に社会的合意を近づけていくという大変な作業が必要です。為政者や官僚だけでなく、そうした社会に生きる一人一人もまた「複雑系の中での最適解」を求める生き方が必要なのです。
そうした中で、その「複雑さ」に向き合うことなく、単純に「イスラエルは悪だ」とか「欧米は悪だ」という善悪二元論に引き寄せられるというのは、要するに逃避なのです。複雑さの中で暫定的な最適解を探し、更に微修正をし続けるとか、3つ以上の利害関係の錯綜を解きほぐすといった「生き方」ができないから、逃げとして、敗北として「パレスチナ解放戦線」だとか「イスラム国」のことを「絶対的な善」と勘違いして興味を持つのです。
ここに最大の問題があります。イスラエルとパレスチナの紛争にしても、シリアやイラクのスンニ派の宗派問題にしても、実は複雑さということでは変わらないのです。利害調整の必要な対象は、どの問題にも三者とか四者が絡んでいますし、短期的な戦術と、中長期のビジョンはしばしば相反します。「生命のやり取り」が絡む分だけ、平和な日本の若者の雇用問題とか、格差問題よりももっと複雑かもしれません。
そんな「複雑な世界」に「単純な善悪を求めて」行くのは悲しいほどに滑稽であり、おそらくは先方の足手まといになるのが関の山であり、そして「使い捨て」にされる可能性が大であり、結果的に自分の人生の生きた証などにはならないでしょう。そのことを、徹底的に説いてやるべきだと思います。