一風変わったシンガポール映画『TATSUMI マンガに革命を起こした男』が11月15日に日本公開される。マンガ家・辰巳ヨシヒロの5つの短編と、自伝的作品『劇画漂流』(09年に手塚治虫文化大賞受賞)を組み合わせてアニメーション映画化したものだ。監督はシンガポールのエリック・クー。20年来の辰巳ファンという彼の敬愛が全編にあふれている。
辰巳は戦後にマンガ家として活動を始め、50年代に「劇画」というスタイルを生んだ中心人物。マンガを超えたリアリスティックな作風と大人向けのテーマを持つ劇画には多くの人が夢中になり、一種の劇画ブームも生まれた。その後、辰巳本人は劇画を離れ、社会の底辺に目を向けた作品へと転向していく。80年代以降は日本よりもむしろ海外で高い評価を得ており、79歳の今も現役で活動を続けている。
『TATSUMI』にオムニバス形式で登場する短編(『地獄』『いとしのモンキー』『はいってます』など)が描くのは戦中・戦後・高度成長期の風俗や、そこで苦悩する庶民の姿。ちょっと暗くて辛らつで「昭和」の匂いがする、『月刊漫画ガロ』を思わせる世界だ(辰巳自身もかつて作品を載せていた)。特に、若い世代に見てほしい作品でもある。
今回の映画化で、辰巳への恩返しをしたかったというクー監督に話を聞いた。
──辰巳作品との出会いは?
かれこれ20年以上も前になるが、友人が先生の短編集をくれた。当時、私自身がマンガを描いていて、いろいろなマンガを読んでいた。でも、こんなに素晴らしいものは読んだことがないと思った。まさにぶっ飛んだ。自由に流れるような作風に魅せられたし、登場人物がとんでもなく面白い。
すっかりファンになったが、実際にどんな人かは知らなかった。それが『劇画漂流』(08年)で興味深い半生を知り、もう眠れないほどに取り付かれてしまった。「これは先生のために何かやらなきゃ」「ずっと先生の作品に触発されてきたのだから、そのお礼がしたい」と思った。
先生の作品はコマ割りが映画的で、読んでいると映画の場面が浮かんでくる。それで先生の自伝と、先生が生んだ劇画というムーブメントの歴史、そして私が好きな劇画作品をからめた映画を作ろうと思った。
──彼の半生を描くドキュメンタリーとして考えた場合、知人のインタビューや過去の映像を織り交ぜるという手法もある。しかし、劇画のみで構成したのはなぜか?
先生の人生を称えるようなもの、その短編作品を称えるものにしなければならない、と思ったから。私はそれまで人に聞かれても、アニメーションはやらないと言ってきた。でもこの作品については、アニメーション以外はありえなかった。彼のビジュアルセンスが、僕は大好きだからね。
──スタッフには日本人も?
私のほとんどの作品を手掛けている音響デザイナーが、シンガポール在住の日本人。彼は大阪弁が分かるので、今回の作品にとってはすごく重要だった。
アニメーターを取りまとめたのはカナダ人で、彼はインドネシアに工房を持っている。そこでアニメーター25人をそろえてもらって製作した。インドネシアは人口が多いので才能ある人を集めることができて、最後には辰巳作品の「贋作」を描けるくらいになった(笑)。
──別所哲也が1人で6役の声を担当するというのも変わった構成だ。
彼はすごく才能があって、舞台にテレビに映画にとすごく活躍している。そんな人にわざわざシンガポールに来てもらって1役しか担当させないなんて、そんなもったいないことはない。ということで6役を持ち掛けてみたところ、「やってみましょう」と言ってくれた。
僕はウルトラマンが大好きなんだけど、彼のことは「ウルトラマンを演じた人」として知っていた。だから収録の時にはウルトラマンのアクションフィギュアを持っていって、サインしてもらったよ!
──2011年の製作で外国では既に公開されているし、映画祭で賞も取っている。日本公開がなかなか決まらなかったのは不本意だった?
先生に捧げるために作った映画なので、それが故郷である日本で紹介されないことにはちょっと失望していた。でもついに公開が実現して、とてもハッピーだ。
──日本でも劇画を読む人がまた出てくるかもしれない。
そうしたら素敵だね! 劇画は60年代にブームになったが、70年代後半〜80年代くらいにポルノチックだったり暴力的だったりというものが出てきて......。例えば、実際に起きた犯罪が劇画に影響を受けている、なんて新聞に書かれたりもした。そんなことから、劇画が敬遠されてしまったりしたようだ。それは先生の意図する劇画とは違う方向だった。60年代には、オルタナティブミュージックみたいにちょっとヒップというか、かっこいいものだった。
──あなたが「映画にしたい」と言った時の辰巳さんの反応は?
「気がおかしいんじゃないか」「私の短編をつなげた映画なんか撮ったら、劇場で見た人は窓から飛び降りたいと思っちゃうよ」と言ってた。もちろんブラックなユーモアですけどね。でも、「暗い」ということは本人も十分承知していた。
──辰巳さんは出来上がった作品を見て、何と言っていた?
おののいていた。彼の声がナレーションで使われちゃったから(笑)。
すごくシャイで謙虚で、自分の声に自信がないようだったから、「先生に話していただいた内容を、プロの声優に話してもらいますよ」と言っておいた。でも、そんな人は探さなかった(笑)。
映画自体は楽しんでくれたようだ。自分の作った登場人物に息が吹き込まれた、と。先生はもともと映画監督になりたかった人なんです。だからこの作品が素晴らしいのは、「先生がついに映画を作った」というところだと思う。
大橋希(本誌記者)
辰巳は戦後にマンガ家として活動を始め、50年代に「劇画」というスタイルを生んだ中心人物。マンガを超えたリアリスティックな作風と大人向けのテーマを持つ劇画には多くの人が夢中になり、一種の劇画ブームも生まれた。その後、辰巳本人は劇画を離れ、社会の底辺に目を向けた作品へと転向していく。80年代以降は日本よりもむしろ海外で高い評価を得ており、79歳の今も現役で活動を続けている。
『TATSUMI』にオムニバス形式で登場する短編(『地獄』『いとしのモンキー』『はいってます』など)が描くのは戦中・戦後・高度成長期の風俗や、そこで苦悩する庶民の姿。ちょっと暗くて辛らつで「昭和」の匂いがする、『月刊漫画ガロ』を思わせる世界だ(辰巳自身もかつて作品を載せていた)。特に、若い世代に見てほしい作品でもある。
今回の映画化で、辰巳への恩返しをしたかったというクー監督に話を聞いた。
──辰巳作品との出会いは?
かれこれ20年以上も前になるが、友人が先生の短編集をくれた。当時、私自身がマンガを描いていて、いろいろなマンガを読んでいた。でも、こんなに素晴らしいものは読んだことがないと思った。まさにぶっ飛んだ。自由に流れるような作風に魅せられたし、登場人物がとんでもなく面白い。
すっかりファンになったが、実際にどんな人かは知らなかった。それが『劇画漂流』(08年)で興味深い半生を知り、もう眠れないほどに取り付かれてしまった。「これは先生のために何かやらなきゃ」「ずっと先生の作品に触発されてきたのだから、そのお礼がしたい」と思った。
先生の作品はコマ割りが映画的で、読んでいると映画の場面が浮かんでくる。それで先生の自伝と、先生が生んだ劇画というムーブメントの歴史、そして私が好きな劇画作品をからめた映画を作ろうと思った。
──彼の半生を描くドキュメンタリーとして考えた場合、知人のインタビューや過去の映像を織り交ぜるという手法もある。しかし、劇画のみで構成したのはなぜか?
先生の人生を称えるようなもの、その短編作品を称えるものにしなければならない、と思ったから。私はそれまで人に聞かれても、アニメーションはやらないと言ってきた。でもこの作品については、アニメーション以外はありえなかった。彼のビジュアルセンスが、僕は大好きだからね。
──スタッフには日本人も?
私のほとんどの作品を手掛けている音響デザイナーが、シンガポール在住の日本人。彼は大阪弁が分かるので、今回の作品にとってはすごく重要だった。
アニメーターを取りまとめたのはカナダ人で、彼はインドネシアに工房を持っている。そこでアニメーター25人をそろえてもらって製作した。インドネシアは人口が多いので才能ある人を集めることができて、最後には辰巳作品の「贋作」を描けるくらいになった(笑)。
──別所哲也が1人で6役の声を担当するというのも変わった構成だ。
彼はすごく才能があって、舞台にテレビに映画にとすごく活躍している。そんな人にわざわざシンガポールに来てもらって1役しか担当させないなんて、そんなもったいないことはない。ということで6役を持ち掛けてみたところ、「やってみましょう」と言ってくれた。
僕はウルトラマンが大好きなんだけど、彼のことは「ウルトラマンを演じた人」として知っていた。だから収録の時にはウルトラマンのアクションフィギュアを持っていって、サインしてもらったよ!
──2011年の製作で外国では既に公開されているし、映画祭で賞も取っている。日本公開がなかなか決まらなかったのは不本意だった?
先生に捧げるために作った映画なので、それが故郷である日本で紹介されないことにはちょっと失望していた。でもついに公開が実現して、とてもハッピーだ。
──日本でも劇画を読む人がまた出てくるかもしれない。
そうしたら素敵だね! 劇画は60年代にブームになったが、70年代後半〜80年代くらいにポルノチックだったり暴力的だったりというものが出てきて......。例えば、実際に起きた犯罪が劇画に影響を受けている、なんて新聞に書かれたりもした。そんなことから、劇画が敬遠されてしまったりしたようだ。それは先生の意図する劇画とは違う方向だった。60年代には、オルタナティブミュージックみたいにちょっとヒップというか、かっこいいものだった。
──あなたが「映画にしたい」と言った時の辰巳さんの反応は?
「気がおかしいんじゃないか」「私の短編をつなげた映画なんか撮ったら、劇場で見た人は窓から飛び降りたいと思っちゃうよ」と言ってた。もちろんブラックなユーモアですけどね。でも、「暗い」ということは本人も十分承知していた。
──辰巳さんは出来上がった作品を見て、何と言っていた?
おののいていた。彼の声がナレーションで使われちゃったから(笑)。
すごくシャイで謙虚で、自分の声に自信がないようだったから、「先生に話していただいた内容を、プロの声優に話してもらいますよ」と言っておいた。でも、そんな人は探さなかった(笑)。
映画自体は楽しんでくれたようだ。自分の作った登場人物に息が吹き込まれた、と。先生はもともと映画監督になりたかった人なんです。だからこの作品が素晴らしいのは、「先生がついに映画を作った」というところだと思う。
大橋希(本誌記者)