同じ仕事をしたら同じ賃金をもらう、これは極めて当たり前のことのように思えます。事実、欧州では多くの専門職の仕事が「ワークシェアリング」の対象とされており、フルタイムの人も、パートタイムの人も時給換算では同じ賃金をもらっています。
私の住むアメリカでは、そこまで一般的ではありませんが、例えば子育て中の世代などで、時給制弁護士、時給制医師といったものがあります。本来は年収1800万の小児科医が、一時期だけ勤務時間を半分にしている場合には、年収は900万になるわけです。
アメリカの場合は、「ワークシェアリング」はまだ少ないのですが、同一労働・同一賃金という原則は極めて厳格に守られています。これに違反すると巨大な訴訟リスクを抱えることになるからです。そのために、「賃金の違う人は、相手の業務を奪ってはならない」ということも徹底しています。
例えば、学校で床の清掃をするのはジャニターという職種ですが、仮にジャニターよりも時給換算の給与の高い校長先生が、「ちょっと床が汚れているからチャッチャッと掃除してしまった」などということが露見するとマズいことになります。それはジャニターの雇用機会を奪うと同時に「同一労働・同一賃金」に反することになるからです。もちろんアメリカにも臨機応変な現実主義というカルチャーはあるので、実際の運用は柔軟ですが、原則はそうであり、仮にジャニターの側からの「異議申し立て」があればシリアスな問題になります。
では、この「同一労働・同一賃金」というのは、日本の場合どうして実現が難しいのでしょう? 具体的に言えば、同じ仕事をしていても、非正規労働者や派遣社員の賃金と、フルタイムの正社員の賃金には2倍、福利厚生まで入れると2倍半以上の格差があるわけです。
これは明らかな不公平です。では、どうしてこのような不公平が放置されているのでしょうか? どうして「同じ仕事をしたら、同じ賃金を払う」という当たり前のことができないのでしょう?
まるで正社員と、非正社員というのが身分制になっているかのようです。多くの非正規雇用者や第三者は、そのような「いわれなき差別」を感じていると思います。なぜ、そんな理不尽が許されているのでしょうか?
答えは簡単です。「正社員と非正規の仕事は違う」からです。5点指摘できると思います。
(1)4時間勤務と8時間勤務というのは単に「労働時間が倍」でありません。8時間勤務(7時間の場合もあり)というのはフルタイムであって原則正社員であり、その正社員には「突発事態や繁忙期」には8時間を超えて勤務することが前提となっています。悪いことに、その場合に賃金を払わない「サービス残業」の発生する可能性も、正社員の方が圧倒的に高いのが現実です。
(2)正社員の業務内容は、「日々の業務」だけではないのが普通です。例えば、全社的な「経営方針発表会」のようなものがあれば、新幹線や飛行機に乗って出張してその会議に出席し、またその後の懇親会などで本社や他事業所の「日々の業務では無関係」な同じ会社の社員と情報交換を行わなくてはなりません。また、全社横断的な「中堅社員研修」などに担ぎ出されたり、ある工場が異常事態になると「支援要員」として長期出張をさせられたりするのです。そうした本来業務と無関係な時間帯まで査定や評価の対象にされるのです。
(3)正社員はどうして余計な会議に出席しなければいけないのか、また実務研修とは違う「中堅社員研修」や「管理職選抜試験」などに参加しなくてはならないのかというと、正社員というのはイコール「管理職候補」だからです。会社はそのように正社員を見て人事異動をしたり、研修をしたりします。そのこと自体は正社員には負荷になりますが、将来の管理職という地位を「人質に取られている」正社員としては応じなくてはなりません。そうした会議や研修の多くは儀式ですが、儀式への真剣な参加は、共同体の団結を確認する重要なものと位置付けられています。
(4)正社員は管理職候補であるために、管理職になる前に複数の「現場」を経験することが期待され、その結果として「人事ローテーション」の対象とされます。ですから、辞令一枚で日本だけでなく海外にも転勤しなくてはならず、転勤を拒否すると管理職昇進が遅れるか不可能になるという「大きな負担」を背負っています。
(5)正社員は終身雇用ですから、その正社員だけによって構成された「共同体」に組み込まれています。そのために上司の公私混同をした要求、例えば「引越しの手伝いをしろとか、社長夫人の観光を案内せよといった要求」を拒否できないとか「税務調査とか労働基準監督署の調査といった場合に、内心の良心に従うのではなく、また法律に100%従うのではなく、企業への忠誠心から企業側の利害に基づいて行動しなくてはならない」といった難しい立場に立たされます。
以上のような点について、非正規労働者はそうした「重荷を背負う」必要はありません。ですから正社員から見れば「そんな気楽な存在の非正規労働者が同一労働・同一賃金などと主張するのはおかしい」ということになります。
では、この「正社員制度」は日本型経営の美徳だから「仕方がない」のでしょうか? とんでもありません。その会社の正社員という「タコツボ」に閉じこもる発想が、企業全体、日本経済全体のガラパゴス化を生むと同時に、その「正社員を育成して管理職にする」という制度が「膨大なコスト負担」になっているのです。
儀式を通じて忠誠心が生まれても、それで高度な業務スキルや管理能力が身につくわけではなく、「プロ管理職」が育つわけではありません。日本の事務仕事の生産性が低い理由の1つはこのためです。また、ワーク・ライフ・バランスを著しく損ねて、日本を少子化に追い込んでいるのもこのカルチャーです。専門職へのリスペクトと報酬が欠けているために、例えばITの競争力が崩壊しているのも同じ理由です。
その意味で、こうした「正社員制度」の弊害を見直す機会として「同一労働・同一賃金」の問題を提起するのは意味のあることだと思います。
私の住むアメリカでは、そこまで一般的ではありませんが、例えば子育て中の世代などで、時給制弁護士、時給制医師といったものがあります。本来は年収1800万の小児科医が、一時期だけ勤務時間を半分にしている場合には、年収は900万になるわけです。
アメリカの場合は、「ワークシェアリング」はまだ少ないのですが、同一労働・同一賃金という原則は極めて厳格に守られています。これに違反すると巨大な訴訟リスクを抱えることになるからです。そのために、「賃金の違う人は、相手の業務を奪ってはならない」ということも徹底しています。
例えば、学校で床の清掃をするのはジャニターという職種ですが、仮にジャニターよりも時給換算の給与の高い校長先生が、「ちょっと床が汚れているからチャッチャッと掃除してしまった」などということが露見するとマズいことになります。それはジャニターの雇用機会を奪うと同時に「同一労働・同一賃金」に反することになるからです。もちろんアメリカにも臨機応変な現実主義というカルチャーはあるので、実際の運用は柔軟ですが、原則はそうであり、仮にジャニターの側からの「異議申し立て」があればシリアスな問題になります。
では、この「同一労働・同一賃金」というのは、日本の場合どうして実現が難しいのでしょう? 具体的に言えば、同じ仕事をしていても、非正規労働者や派遣社員の賃金と、フルタイムの正社員の賃金には2倍、福利厚生まで入れると2倍半以上の格差があるわけです。
これは明らかな不公平です。では、どうしてこのような不公平が放置されているのでしょうか? どうして「同じ仕事をしたら、同じ賃金を払う」という当たり前のことができないのでしょう?
まるで正社員と、非正社員というのが身分制になっているかのようです。多くの非正規雇用者や第三者は、そのような「いわれなき差別」を感じていると思います。なぜ、そんな理不尽が許されているのでしょうか?
答えは簡単です。「正社員と非正規の仕事は違う」からです。5点指摘できると思います。
(1)4時間勤務と8時間勤務というのは単に「労働時間が倍」でありません。8時間勤務(7時間の場合もあり)というのはフルタイムであって原則正社員であり、その正社員には「突発事態や繁忙期」には8時間を超えて勤務することが前提となっています。悪いことに、その場合に賃金を払わない「サービス残業」の発生する可能性も、正社員の方が圧倒的に高いのが現実です。
(2)正社員の業務内容は、「日々の業務」だけではないのが普通です。例えば、全社的な「経営方針発表会」のようなものがあれば、新幹線や飛行機に乗って出張してその会議に出席し、またその後の懇親会などで本社や他事業所の「日々の業務では無関係」な同じ会社の社員と情報交換を行わなくてはなりません。また、全社横断的な「中堅社員研修」などに担ぎ出されたり、ある工場が異常事態になると「支援要員」として長期出張をさせられたりするのです。そうした本来業務と無関係な時間帯まで査定や評価の対象にされるのです。
(3)正社員はどうして余計な会議に出席しなければいけないのか、また実務研修とは違う「中堅社員研修」や「管理職選抜試験」などに参加しなくてはならないのかというと、正社員というのはイコール「管理職候補」だからです。会社はそのように正社員を見て人事異動をしたり、研修をしたりします。そのこと自体は正社員には負荷になりますが、将来の管理職という地位を「人質に取られている」正社員としては応じなくてはなりません。そうした会議や研修の多くは儀式ですが、儀式への真剣な参加は、共同体の団結を確認する重要なものと位置付けられています。
(4)正社員は管理職候補であるために、管理職になる前に複数の「現場」を経験することが期待され、その結果として「人事ローテーション」の対象とされます。ですから、辞令一枚で日本だけでなく海外にも転勤しなくてはならず、転勤を拒否すると管理職昇進が遅れるか不可能になるという「大きな負担」を背負っています。
(5)正社員は終身雇用ですから、その正社員だけによって構成された「共同体」に組み込まれています。そのために上司の公私混同をした要求、例えば「引越しの手伝いをしろとか、社長夫人の観光を案内せよといった要求」を拒否できないとか「税務調査とか労働基準監督署の調査といった場合に、内心の良心に従うのではなく、また法律に100%従うのではなく、企業への忠誠心から企業側の利害に基づいて行動しなくてはならない」といった難しい立場に立たされます。
以上のような点について、非正規労働者はそうした「重荷を背負う」必要はありません。ですから正社員から見れば「そんな気楽な存在の非正規労働者が同一労働・同一賃金などと主張するのはおかしい」ということになります。
では、この「正社員制度」は日本型経営の美徳だから「仕方がない」のでしょうか? とんでもありません。その会社の正社員という「タコツボ」に閉じこもる発想が、企業全体、日本経済全体のガラパゴス化を生むと同時に、その「正社員を育成して管理職にする」という制度が「膨大なコスト負担」になっているのです。
儀式を通じて忠誠心が生まれても、それで高度な業務スキルや管理能力が身につくわけではなく、「プロ管理職」が育つわけではありません。日本の事務仕事の生産性が低い理由の1つはこのためです。また、ワーク・ライフ・バランスを著しく損ねて、日本を少子化に追い込んでいるのもこのカルチャーです。専門職へのリスペクトと報酬が欠けているために、例えばITの競争力が崩壊しているのも同じ理由です。
その意味で、こうした「正社員制度」の弊害を見直す機会として「同一労働・同一賃金」の問題を提起するのは意味のあることだと思います。