Infoseek 楽天

「お遊びの時間はおしまいだ」 - 酒井啓子 中東徒然日記

ニューズウィーク日本版 2015年2月5日 11時2分

 後藤健二さんとともに「イスラーム国」の人質にされていたヨルダン人パイロットのムアーズ・カッサーシバが、殺された。生きながら焼き殺されるという、残酷極まりない手口で。

 ヨルダン国内はもちろん、アラブ諸国全体に激震が走っている。遺族はヨルダンのなかでも有力な部族で、激しい口調で報復を主張した。政府は国内に捕えられていたイラク人の死刑囚2人を、即刻処刑した。対「イスラーム国」包囲網に参加している湾岸の君主国政府はもちろん、イラク、パレスチナ、レバノンなど「イスラーム国」周辺国やエジプトは即座に、ヨルダンへの同情と追悼を表明した。

 なによりも、生きたまま焼き殺すというやり方が、尋常でない衝撃を与えている。とはいえ、そのようなやり口はこれが初めてではない。アラブの人々の記憶に最近の出来事として思い起こされるのは、昨年6月、パレスチナ人の少年がユダヤ人に石油を飲まされ生きながらに焼き殺された事件だろう。生きたままではないが、イラク戦争から1年後のファッルージャで、駐留米軍に物資調達をしていた米ブラックウォーター社の職員が、殺害され遺体を引きずり回され、焼き討ちにされたあげくに、ファッルージャの橋に吊るされたという事件も、想起させられる。アラブ社会に棘のように刺さり続ける、パレスチナ問題とイラク戦争という二大屈辱の記憶を呼び覚まし、究極の憎悪を表現するやり方だ。

-----

「イスラーム国」自身が手にかけたものとしては、すでにシリア軍兵士が数か月前に同じ手口で殺されている。中東報道の第一線のジャーナリスト、ロバート・フィスクは、「シリア軍はヨルダン国王に忠告してやることもできたのに」と皮肉まじりに述べた。というのも、ヨルダンなどの対「イスラーム国」前線国はいずれも、「イスラーム国」以上にシリアのアサド現政権と角突き合せているからだ。そういえば、今回の悲劇に対してシリア外務省は、珍しくヨルダンに弔意を示している。共闘への誘いだろうか。

 首を落とすだけでは、テロルの衝撃が薄れたと思ったのだろう。新たな方法で、「イスラーム国」は相手の怒りを煽ろうとしている。実際、怒りが頂点に達したヨルダンは、今にも単独でも「イスラーム国」に挑みかからんばかりの勢いだ。



 だがその一方で、脅しは他の有志連合に十分に効いている。ヨルダン人パイロットが拉致されて以降、有志連合の一員、UAEは、一切出撃をしていない。それまで「アメリカのお付き合い」で形だけ参加していた湾岸のアラブ産油国は、ヨルダン以上に軍事的に脆弱である。怯えて手を引いても不思議ではない。

 ヨルダンが最大の頼りとするアメリカも、今後の進退が微妙なところだ。ヨルダンを単独で突っ込ませるわけにいかない。とはいえ、ヨルダンに引きずられて「イスラーム国」相手の全面戦争を決断するにはリスクが大きすぎる。アメリカもまた、26歳の女性ボランティアを「イスラーム国」に拉致されている。

 昨年6月、イラク北部に「イスラーム国」が進軍し、イラクの領土の3分の1を制圧したとき、即座にその危機の大きさ、相手の残虐さを感じたのは、イラク政府だった。むろん、シリア政府はそれ以前から、十分実感している。ただ者ではない相手だと認識して、なりふり構わずの戦闘を展開した。「イスラーム国」に殲滅されたら行き場のない、国家を持たないクルド民族は、背水の陣でこれに対峙している。

-----

 だが、トルコ、ヨルダン、サウディアラビアなど、スンナ派の周辺国の出足は遅かった。内藤正典氏によれば、トルコで「イスラーム国」を脅威だと思うのは昨年秋の段階で6割を切っており、また事件直後のヨルダンですら7割程度でしかない。厳格なイスラーム統治を強要する「イスラーム国」であっても、同じスンナ派に対してはそんなひどいことはしないだろう、という安心感があったのだろう。裏返せば、シリアの現政権やイラクはシーア派なので、「イスラーム国」がいかにそれを異教徒視(タクフィール)しようが、気にしない、といったところだ。

 それが、ようやく「イスラーム国の脅威」がヨルダンまで伝わった。これまでのようなお気楽な気持ちでは、有志連合に関わってはいられない。王子、王女が見た目恰好よく軍服姿で戦闘機に乗り込む様子を宣伝してきた湾岸の君主国も、これからはそうはいかない。サウディアラビアでの新国王の登場、イエメンでの政変など、湾岸諸国のおひざ元も不安材料だらけだ。サスペンスものでいえば、犯人がナイフを閃かせて、「お遊びの時間はもうおしまいだ」といったところか。

 有志連合の足並みを乱す。バラバラになったところで、浮足立ち怒りに冷静さを欠いた国の勇み足を利用して、戦争に巻き込む。この巧妙な「イスラーム国」の挑発に、周辺国がどう対応するか、正念場を迎えている。

この記事の関連ニュース