この有識者懇談会ですが、結論がそのまま「談話」になるわけではなく、「談話」の内容はあくまで安倍首相が決めるというのですが、いずれにしても2月25日に初会合が開かれ、冒頭に安倍首相は次の5つの「論点」を示したそうです。同席した菅官房長官の談話、ならびに官邸がホームページで公開している総理談話によれば、その「論点」とは次の5点です。
(1)20世紀の世界と日本の歩みをどう考えるか。私たちが20世紀の経験からくむべき教訓は何か。
(2)日本は戦後70年間、20世紀の教訓をふまえて、どのような道を歩んできたのか。特に、戦後日本の平和主義、経済発展、国際貢献をどのように評価するか。
(3)日本は戦後70年、米国、豪州、欧州の国々と、また、特に中国、韓国をはじめとするアジアの国々等と、どのような和解の道を歩んできたか。
(4)20世紀の教訓をふまえて、21世紀のアジアと世界のビジョンをどう描くか。日本はどのような貢献をするべきか。
(5)戦後70周年に当たってわが国が取るべき具体的施策はどのようなものか。
今回は、この議論の(その1)として論点(3)、つまり「日本は戦後70年、米国、豪州、欧州の国々と、また、特に中国、韓国をはじめとするアジアの国々等と、どのような和解の道を歩んできたか。」という「論点」に関して考えてみたいと思います。
まず結論から言えば、十分な「和解」はできていないと思います。従って今後も日本は第二次世界大戦の結果に関して批判を受ける可能性を残していますし、結果として日本が国際社会において孤立する危険性を残していると思います。
各国別に見て行きましょう。
まずアメリカに関しては、新憲法を含む戦後改革とサンフランシスコ講和の精神を受け入れたのかどうか、日本側の態度は判然としません。憲法が押し付けであると主張して東京裁判は事後法だから無効だという保守も、憲法を護持すると言いながら米国の政策にことごとく反発してきた左派も、どちらも「米国との真の和解」には消極的です。戦没者の慰霊に関しても、日本の首脳が真珠湾献花をしておらず、米国の首脳が広島献花をしていないという「異常な状況」が解消されていません。
欧州に至っては、ドイツと旧連合国はノルマンディーにしても、ドレスデンにしても、アウシュビッツにしても敵味方を越えた共同追悼を行っているわけですが、日本はアジア地域で、そのマネができていないばかりか、欧州戦線における和解や共同追悼への参画を検討する声すらありません。
中国と韓国に関しては、国家間の和解はそれぞれ条約によって完了しています。ですが、両国の世論を十分に納得させるような「和解のレベル」には到達ができていません。そうした点があるために、その時々の政権が「戦前の日本への批判」と「現在の日本への批判」を「ごちゃ混ぜにして求心力に使う」という「禁じ手」を繰り返しています。
日本の保守派は、その相手側の「禁じ手」に対して「現代の日本人」として素直に反発してしまうわけで、そうなると「禁じ手」が「禁じ手」でなくなり、摩擦を求心力に使いたい相手方の為政者の思うつぼになってしまう、そうした危険なサイクルが続いているわけです。
簡単にまとめると、和解という問題で言えば、欧米との間でも、中国・韓国との間でも「国家間の条約による和解」は成立していますが、世論と世論の和解は完了していません。そのために必要なのは2つの姿勢です。
1つは、日本が、例えば今回の「70周年談話」などで戦前の日本と戦後の日本の「峻別」をするということです。文化や歴史、言語などのアイデンティティーとしては一貫しているが、国家ということでは、現在の日本人は戦前の日本を代表していない、従って戦前の行為への批判を行うことは日本人にとっては自己卑下にはならないし、海外からの批判も「現在の日本および日本人への批判とはならない」という「厳格なケジメ」を確認し、一歩も譲らないということが必要だと思います。
2つ目は、この欄でも何度もお話をしている、共同追悼という行動です。真珠湾で、広島で、そしてできれば9月2日に、「戦争終結70周年」を日本を中心にアメリカも中国も欧州も含めた関係国で厳粛な「共同追悼の儀式」として歴史に残るような形で実現出来ればと思うのです。
安倍首相による「どのような和解の道を歩んできたのか?」という問いかけへの答えは、「極めて不十分であり、この70周年の年に意識的に和解の作業をしなくてはならない。具体的には日本として戦前と戦後の峻別を行うこと、そして関係国が一同に会しての共同での追悼行事が必要」ということになると思います。
(1)20世紀の世界と日本の歩みをどう考えるか。私たちが20世紀の経験からくむべき教訓は何か。
(2)日本は戦後70年間、20世紀の教訓をふまえて、どのような道を歩んできたのか。特に、戦後日本の平和主義、経済発展、国際貢献をどのように評価するか。
(3)日本は戦後70年、米国、豪州、欧州の国々と、また、特に中国、韓国をはじめとするアジアの国々等と、どのような和解の道を歩んできたか。
(4)20世紀の教訓をふまえて、21世紀のアジアと世界のビジョンをどう描くか。日本はどのような貢献をするべきか。
(5)戦後70周年に当たってわが国が取るべき具体的施策はどのようなものか。
今回は、この議論の(その1)として論点(3)、つまり「日本は戦後70年、米国、豪州、欧州の国々と、また、特に中国、韓国をはじめとするアジアの国々等と、どのような和解の道を歩んできたか。」という「論点」に関して考えてみたいと思います。
まず結論から言えば、十分な「和解」はできていないと思います。従って今後も日本は第二次世界大戦の結果に関して批判を受ける可能性を残していますし、結果として日本が国際社会において孤立する危険性を残していると思います。
各国別に見て行きましょう。
まずアメリカに関しては、新憲法を含む戦後改革とサンフランシスコ講和の精神を受け入れたのかどうか、日本側の態度は判然としません。憲法が押し付けであると主張して東京裁判は事後法だから無効だという保守も、憲法を護持すると言いながら米国の政策にことごとく反発してきた左派も、どちらも「米国との真の和解」には消極的です。戦没者の慰霊に関しても、日本の首脳が真珠湾献花をしておらず、米国の首脳が広島献花をしていないという「異常な状況」が解消されていません。
欧州に至っては、ドイツと旧連合国はノルマンディーにしても、ドレスデンにしても、アウシュビッツにしても敵味方を越えた共同追悼を行っているわけですが、日本はアジア地域で、そのマネができていないばかりか、欧州戦線における和解や共同追悼への参画を検討する声すらありません。
中国と韓国に関しては、国家間の和解はそれぞれ条約によって完了しています。ですが、両国の世論を十分に納得させるような「和解のレベル」には到達ができていません。そうした点があるために、その時々の政権が「戦前の日本への批判」と「現在の日本への批判」を「ごちゃ混ぜにして求心力に使う」という「禁じ手」を繰り返しています。
日本の保守派は、その相手側の「禁じ手」に対して「現代の日本人」として素直に反発してしまうわけで、そうなると「禁じ手」が「禁じ手」でなくなり、摩擦を求心力に使いたい相手方の為政者の思うつぼになってしまう、そうした危険なサイクルが続いているわけです。
簡単にまとめると、和解という問題で言えば、欧米との間でも、中国・韓国との間でも「国家間の条約による和解」は成立していますが、世論と世論の和解は完了していません。そのために必要なのは2つの姿勢です。
1つは、日本が、例えば今回の「70周年談話」などで戦前の日本と戦後の日本の「峻別」をするということです。文化や歴史、言語などのアイデンティティーとしては一貫しているが、国家ということでは、現在の日本人は戦前の日本を代表していない、従って戦前の行為への批判を行うことは日本人にとっては自己卑下にはならないし、海外からの批判も「現在の日本および日本人への批判とはならない」という「厳格なケジメ」を確認し、一歩も譲らないということが必要だと思います。
2つ目は、この欄でも何度もお話をしている、共同追悼という行動です。真珠湾で、広島で、そしてできれば9月2日に、「戦争終結70周年」を日本を中心にアメリカも中国も欧州も含めた関係国で厳粛な「共同追悼の儀式」として歴史に残るような形で実現出来ればと思うのです。
安倍首相による「どのような和解の道を歩んできたのか?」という問いかけへの答えは、「極めて不十分であり、この70周年の年に意識的に和解の作業をしなくてはならない。具体的には日本として戦前と戦後の峻別を行うこと、そして関係国が一同に会しての共同での追悼行事が必要」ということになると思います。