今年も「あの日」がやってきました。4周年という歳月を経てもなお、復興公営住宅の建設は進まず、仮設住宅の撤去率は1%程度に止まっているというニュースを聞くと、胸がつぶれる思いがします。
要するに「仮設から常設の住居に移ることができた」被災者が極めてわずかだということだからです。「あの頃」には仮設の建設が遅れたということで、当時の与野党間では大論争になったことを思うと、現在はそうした熱気も薄れているわけで、更に暗澹たる気分にさせられます。
その一方で、4年という月日がある種の「癒し」を実現したのも事実です。
例えば、今年の「3月11日」にNHKではJR東日本に取材した「震災秘話」を伝えるドキュメンタリーを放送していました。震災直後から同社の方々から色々なお話を聞いてきた私としては、そうした番組が実現したことに深い感慨を覚えました。
というのは、JR東日本は、「震災に関して、わずかでも自慢話になるような内容は一切語らない」ということを強い方針にしてきたからです。JR東日本は、午後3時少し前という、新幹線も在来線も多くの本数が営業している時間帯に、未曾有の大震災に被災しながら死傷者を一切出していません。
その事実は、日本のみならず世界の鉄道界、あるいは交通業界にあって貴重な事例であるのは疑いないのですが、具体的なエピソードを自ら語ることは禁じてきたのです。
理由は簡単で、被災地の全域の鉄道輸送を担っているJR東日本としては、何よりも鉄道サービスの復旧を急ぐことと、膨大な数の被災者に寄り添うことが優先されたからです。
さらに具体的な理由としては、乗車中の被災乗客はゼロであっても、降車後の避難が間に合わずに津波被災した乗客は必ずしもゼロとは言えないという事実を、重く受け止めていたということも聞いています。
そうした経緯を知る身としては、今回NHKの番組が実現したことは救いでした。JRとして、この種の報道に協力できるようになったというのは、つまり服喪期間から少し先へ進んだという意味合いがあるわけで、特に新幹線の耐震対策のことなどが、広く知られるようになるのは、とても良いことだと思うからです。
具体的には、自前で配置した地震計による初期微動を感知すると電源を瞬断するシステム、その際に非常ブレーキで車輪が空走しないようにセラミックの粉末を車輪と線路の間に噴射するシステム、さらには、高架柱の損傷を防ぐために鉄筋コンクリの柱を鋼鉄の板で覆う補強構造、この3つが合わさって最高で時速300キロ運転(被災当時、現在は最高320キロ)からの全営業列車の安全な停止を実現しています。
この新幹線の耐震システムについては、あらためて色々な形で評価や検証がされていくと思いますが、もう1つ、JRに関わる震災時のエピソードをお話しておきたいと思います。
それは、2011年3月11日の「その晩」にJRが何を最優先事項にしていたかということです。
東北新幹線、東北本線、常磐線という大動脈が大きく損壊し、当面の復旧のメドが立たない中、社内では「日本海回りの貨物列車は通せるか?」という一点に絞って検討がされたというのです。
被災直後から、歴史的な「東北大停電」が発生し、直後からガソリン不足の問題が持ち上がる中、この年の東北はまだ雪の舞う寒波に見舞われていました。そこで燃料輸送の問題は人命に関わるという判断です。
通信網も寸断されるなか、各方面に確認を取り、上越線、羽越本線を使って磐越西線から郡山方面、米坂線山形経由で仙台地方へという「日本海回り」で、首都圏から被災地に燃料輸送が「できる」とわかった時には、社内には「ほんの少し明かりが見えた」感じがあったそうです。そして、その晩は社の最優先事項として、この輸送作戦の実行に取り組んだのだそうです。
もちろん、実際の貨物列車の運行はJR貨物ですし、実際に「燃料輸送の重要性」ということでは、政府や被災県とのコミュニケーションも機能したのだと思います。その意味では、JR東日本の功績だけではないのですが、少なくとも、未曾有の危機に際して:
――「何をしなくてはならないのか?」
――「何ができるのか?」
という問いについて、答えを持って行動ができたということは事実のようです。
もちろんこのエピソードにしても、今後のために更なる検証は必要と思います。ですが、仮に「被災当日の行動」として少なくとも「最善手」が打てたというのが事実であるのならば、そのことからは様々な教訓が導けるように思います。
例えば、民営化について言えば、イデオロギー的な是非論ではなく、平常時は経済合理性を原則としながら、非常時には公益を優先する組織は「どのように設計すれば可能になるのか?」というような切り口で見て行くことはできると思います。
後は、現場と意思決定機能の間に、適切なコミュニケーションと、適切な統制が取れるようなカルチャーをどう作って行くかということもあるでしょう。いずれにしても、様々な意味で参考になるエピソードだと思います。
要するに「仮設から常設の住居に移ることができた」被災者が極めてわずかだということだからです。「あの頃」には仮設の建設が遅れたということで、当時の与野党間では大論争になったことを思うと、現在はそうした熱気も薄れているわけで、更に暗澹たる気分にさせられます。
その一方で、4年という月日がある種の「癒し」を実現したのも事実です。
例えば、今年の「3月11日」にNHKではJR東日本に取材した「震災秘話」を伝えるドキュメンタリーを放送していました。震災直後から同社の方々から色々なお話を聞いてきた私としては、そうした番組が実現したことに深い感慨を覚えました。
というのは、JR東日本は、「震災に関して、わずかでも自慢話になるような内容は一切語らない」ということを強い方針にしてきたからです。JR東日本は、午後3時少し前という、新幹線も在来線も多くの本数が営業している時間帯に、未曾有の大震災に被災しながら死傷者を一切出していません。
その事実は、日本のみならず世界の鉄道界、あるいは交通業界にあって貴重な事例であるのは疑いないのですが、具体的なエピソードを自ら語ることは禁じてきたのです。
理由は簡単で、被災地の全域の鉄道輸送を担っているJR東日本としては、何よりも鉄道サービスの復旧を急ぐことと、膨大な数の被災者に寄り添うことが優先されたからです。
さらに具体的な理由としては、乗車中の被災乗客はゼロであっても、降車後の避難が間に合わずに津波被災した乗客は必ずしもゼロとは言えないという事実を、重く受け止めていたということも聞いています。
そうした経緯を知る身としては、今回NHKの番組が実現したことは救いでした。JRとして、この種の報道に協力できるようになったというのは、つまり服喪期間から少し先へ進んだという意味合いがあるわけで、特に新幹線の耐震対策のことなどが、広く知られるようになるのは、とても良いことだと思うからです。
具体的には、自前で配置した地震計による初期微動を感知すると電源を瞬断するシステム、その際に非常ブレーキで車輪が空走しないようにセラミックの粉末を車輪と線路の間に噴射するシステム、さらには、高架柱の損傷を防ぐために鉄筋コンクリの柱を鋼鉄の板で覆う補強構造、この3つが合わさって最高で時速300キロ運転(被災当時、現在は最高320キロ)からの全営業列車の安全な停止を実現しています。
この新幹線の耐震システムについては、あらためて色々な形で評価や検証がされていくと思いますが、もう1つ、JRに関わる震災時のエピソードをお話しておきたいと思います。
それは、2011年3月11日の「その晩」にJRが何を最優先事項にしていたかということです。
東北新幹線、東北本線、常磐線という大動脈が大きく損壊し、当面の復旧のメドが立たない中、社内では「日本海回りの貨物列車は通せるか?」という一点に絞って検討がされたというのです。
被災直後から、歴史的な「東北大停電」が発生し、直後からガソリン不足の問題が持ち上がる中、この年の東北はまだ雪の舞う寒波に見舞われていました。そこで燃料輸送の問題は人命に関わるという判断です。
通信網も寸断されるなか、各方面に確認を取り、上越線、羽越本線を使って磐越西線から郡山方面、米坂線山形経由で仙台地方へという「日本海回り」で、首都圏から被災地に燃料輸送が「できる」とわかった時には、社内には「ほんの少し明かりが見えた」感じがあったそうです。そして、その晩は社の最優先事項として、この輸送作戦の実行に取り組んだのだそうです。
もちろん、実際の貨物列車の運行はJR貨物ですし、実際に「燃料輸送の重要性」ということでは、政府や被災県とのコミュニケーションも機能したのだと思います。その意味では、JR東日本の功績だけではないのですが、少なくとも、未曾有の危機に際して:
――「何をしなくてはならないのか?」
――「何ができるのか?」
という問いについて、答えを持って行動ができたということは事実のようです。
もちろんこのエピソードにしても、今後のために更なる検証は必要と思います。ですが、仮に「被災当日の行動」として少なくとも「最善手」が打てたというのが事実であるのならば、そのことからは様々な教訓が導けるように思います。
例えば、民営化について言えば、イデオロギー的な是非論ではなく、平常時は経済合理性を原則としながら、非常時には公益を優先する組織は「どのように設計すれば可能になるのか?」というような切り口で見て行くことはできると思います。
後は、現場と意思決定機能の間に、適切なコミュニケーションと、適切な統制が取れるようなカルチャーをどう作って行くかということもあるでしょう。いずれにしても、様々な意味で参考になるエピソードだと思います。