この4月中旬、プリンストン大学でほぼ一週間がかりの大きなイベントがあり、東日本大震災からの復興プロジェクトの一環として制作された「東北記録映画三部作(トウホク・トリロジー)」が上映されました。併せて、共同で三作を監督した酒井耕、濱口竜介両監督を交えたトーク・イベント、そして三部作の「完結編」である『うたうひと』に出演している児童文学者の小野和子氏の講演も行われています。
この3部作ですが、大きな特徴が2つあります。1つは、その撮り方です。3つの作品『なみのおと』、『なみのこえ』、『うたうひと』(制作はサイレント・ヴォイス)は東北の震災を描いた映画ですが、そこには津波の映像も、被災地の瓦礫の山も全く出てきません。そうではなくて、被災した人々が登場して「ひたすらに語る」のです。それも一部を除いては「インタビュー」ではなく、「地元の人同士の語り」が主となっています。それは夫婦であったり、姉妹であったり、あるいは漁の再開ができない中で苦悩する漁師父子であったりするのです。
その「語り」というのは、最初はぎこちなくスタートします。カメラ慣れしていない人々ですから仕方がないわけですが、それが徐々にトークの調子が出てくることで、最後には「対談の映像」では「なくなって来る」のです。そこで奇蹟が生まれます。まるでカメラ(を通じた観客)が聞き手としてトークに参加しているような経験が生まれるのです。これは、この3部作の最大の特徴であると同時に謎であり、プリンストン大学でのディスカッションも、この点に集中していきました。
もう1つの特徴は、3部作の構成です。1作目、2作目は主として津波の被災者の体験談や復興への思いが、ひたすら語られていくという作品です。その意味では、確かに「震災に関する映画」になっています。ところが、3作目の『うたうひと』には、震災の話題は一切出てきません。その代わりに、口承で先祖代々民話を継承してきた3人の語り部たちが登場し、小野和子氏の絶妙なトークによって3人の「語り」が引き出されていくプロセスが記録されているのです。
どうして1作目と2作目という被災の話に続いて、3作目には民話の語りを記録した作品が置かれているのか、その構成にはどんな意味があるのか、これも本作の持っている特徴であり謎であるわけです。
この2つの謎のうち、最初の「地元の人同士のトークを撮っているのに、どうしてカメラが聞き手になるという奇蹟が生まれるのか?」という問題は、説明してしまうと「ネタバレ」になってしまうので、この場では差し控えます。ここでは、2番目の謎、つまり3部作の最後にどうして「民話の語り」が配置されているのかという点については、おふたりの監督自身も様々な場で語られていることもあり、また多くの問題を考えさせられる点でもあるので、この場で私見を述べておきたいと思います。
ではどうして「震災の映画」なのに「民話」なのでしょうか?
2つあるように思います。1つは、民話の持っている庶民の生命力ということです。東北の民話というのは、過酷な自然と社会環境の中で人々が生き抜くための知恵が込められている、小野和子氏はそう語っていました。小野氏は「多くの研究者は語り部にアポを取って、一定の時間語らせることが民話の採集だと思っている」一方で、「自分は一切アポなしで山や海の村に入っていって、人間関係を築いて民話だけでなく生活の思いを含めた彼等の人生を聞き出してきた」のだそうです。
その小野氏を慕って集まった伝承者たちの語りは、実に活き活きとこの地方の人々の生命力を伝えていました。そのパワーにこそ、復興への原動力が感じられ、正に3部作の完結編にふさわしいというわけです。
もう1つは、親しい者同士の濃密な語りの空間です。最初の2篇で被災者同士の語りがどんどん濃密なものとなっていく奇蹟を経験した観客は、この3作目で民話の語りの世界に触れることで、この地域の文化が持っている濃密な語りのカルチャーの原点を見出すことになります。その意味では、3作目の存在が、1作目、2作目を見ることで観客が抱く「どうして、こんなに濃密な語りが生まれるのか?」という問いかけへの謎解きを担っているというわけです。
私は、この1週間、この3部作とその製作者の人々と関わりあうことで、震災の問題だけでなく、今後の地方の活性化の問題にも答えを得たように思いました。
日本という国は、国土の狭さとは裏腹に、極めて多様性を持った国であると思います。それぞれの地方が、独自の言語と独自のカルチャーを持っているのです。
その地方の言語やカルチャーは、まさにこの3部作が具現化しているように「濃密な語りの空間」つまり「人間と人間の関わりあう場」を持っているわけです。言い換えれば「関わり方のスタイル」がイコール「地方のカルチャー」であるとも言えます。その「関わり方のスタイル」に、コミュニティ再生の原動力があるのだと思います。
もちろん地方のカルチャーがユニークであることは、同時に排他性にもなるし、また排他性を乗り越えて「よそ者」が土足で踏み込むことが地方のアイデンティティを破壊する危険性もあるわけです。ですが、地方という「人と人が関わる場」が機能していれば、「よそ者」も入っていけるし、そこで何かを生み出すことも可能になるのだと思います。
小野和子氏は講演の中で、自分は東北にとっては「よそ者」であるが(出身は岐阜県)、民俗学というのは「ハートは対象に寄り添い」ながらも「視点は他者の冷静さ」を維持することで見えてくるものがある、それを自分のスタイルとしていると言っていました。これは、地方のコミュニティにおける「他者との出会い」すべてに一般化できるものだと思います。
さらに言えば、一見すると巨大な人口を集めて繁栄しているように見える東京も、潜在的には「独居高齢者」の人口爆発という「時限爆弾」を抱えているわけで、この問題は単に福祉のコスト高というだけでなく、「人が孤立することで、語りや出会いの場が喪われる」というコミュニティの危機でもあるのです。
そう考えると、この「東北三部作」の提起する問題は、単に東日本大震災からの復興や、東北という一地方の問題であるだけでなく、日本というコミュニティをどう再生していくかという大きな問題提起になっているわけです。今後も日本各地で、また世界で上映が続くと思います。是非、ご覧になることをお薦めします。
この3部作ですが、大きな特徴が2つあります。1つは、その撮り方です。3つの作品『なみのおと』、『なみのこえ』、『うたうひと』(制作はサイレント・ヴォイス)は東北の震災を描いた映画ですが、そこには津波の映像も、被災地の瓦礫の山も全く出てきません。そうではなくて、被災した人々が登場して「ひたすらに語る」のです。それも一部を除いては「インタビュー」ではなく、「地元の人同士の語り」が主となっています。それは夫婦であったり、姉妹であったり、あるいは漁の再開ができない中で苦悩する漁師父子であったりするのです。
その「語り」というのは、最初はぎこちなくスタートします。カメラ慣れしていない人々ですから仕方がないわけですが、それが徐々にトークの調子が出てくることで、最後には「対談の映像」では「なくなって来る」のです。そこで奇蹟が生まれます。まるでカメラ(を通じた観客)が聞き手としてトークに参加しているような経験が生まれるのです。これは、この3部作の最大の特徴であると同時に謎であり、プリンストン大学でのディスカッションも、この点に集中していきました。
もう1つの特徴は、3部作の構成です。1作目、2作目は主として津波の被災者の体験談や復興への思いが、ひたすら語られていくという作品です。その意味では、確かに「震災に関する映画」になっています。ところが、3作目の『うたうひと』には、震災の話題は一切出てきません。その代わりに、口承で先祖代々民話を継承してきた3人の語り部たちが登場し、小野和子氏の絶妙なトークによって3人の「語り」が引き出されていくプロセスが記録されているのです。
どうして1作目と2作目という被災の話に続いて、3作目には民話の語りを記録した作品が置かれているのか、その構成にはどんな意味があるのか、これも本作の持っている特徴であり謎であるわけです。
この2つの謎のうち、最初の「地元の人同士のトークを撮っているのに、どうしてカメラが聞き手になるという奇蹟が生まれるのか?」という問題は、説明してしまうと「ネタバレ」になってしまうので、この場では差し控えます。ここでは、2番目の謎、つまり3部作の最後にどうして「民話の語り」が配置されているのかという点については、おふたりの監督自身も様々な場で語られていることもあり、また多くの問題を考えさせられる点でもあるので、この場で私見を述べておきたいと思います。
ではどうして「震災の映画」なのに「民話」なのでしょうか?
2つあるように思います。1つは、民話の持っている庶民の生命力ということです。東北の民話というのは、過酷な自然と社会環境の中で人々が生き抜くための知恵が込められている、小野和子氏はそう語っていました。小野氏は「多くの研究者は語り部にアポを取って、一定の時間語らせることが民話の採集だと思っている」一方で、「自分は一切アポなしで山や海の村に入っていって、人間関係を築いて民話だけでなく生活の思いを含めた彼等の人生を聞き出してきた」のだそうです。
その小野氏を慕って集まった伝承者たちの語りは、実に活き活きとこの地方の人々の生命力を伝えていました。そのパワーにこそ、復興への原動力が感じられ、正に3部作の完結編にふさわしいというわけです。
もう1つは、親しい者同士の濃密な語りの空間です。最初の2篇で被災者同士の語りがどんどん濃密なものとなっていく奇蹟を経験した観客は、この3作目で民話の語りの世界に触れることで、この地域の文化が持っている濃密な語りのカルチャーの原点を見出すことになります。その意味では、3作目の存在が、1作目、2作目を見ることで観客が抱く「どうして、こんなに濃密な語りが生まれるのか?」という問いかけへの謎解きを担っているというわけです。
私は、この1週間、この3部作とその製作者の人々と関わりあうことで、震災の問題だけでなく、今後の地方の活性化の問題にも答えを得たように思いました。
日本という国は、国土の狭さとは裏腹に、極めて多様性を持った国であると思います。それぞれの地方が、独自の言語と独自のカルチャーを持っているのです。
その地方の言語やカルチャーは、まさにこの3部作が具現化しているように「濃密な語りの空間」つまり「人間と人間の関わりあう場」を持っているわけです。言い換えれば「関わり方のスタイル」がイコール「地方のカルチャー」であるとも言えます。その「関わり方のスタイル」に、コミュニティ再生の原動力があるのだと思います。
もちろん地方のカルチャーがユニークであることは、同時に排他性にもなるし、また排他性を乗り越えて「よそ者」が土足で踏み込むことが地方のアイデンティティを破壊する危険性もあるわけです。ですが、地方という「人と人が関わる場」が機能していれば、「よそ者」も入っていけるし、そこで何かを生み出すことも可能になるのだと思います。
小野和子氏は講演の中で、自分は東北にとっては「よそ者」であるが(出身は岐阜県)、民俗学というのは「ハートは対象に寄り添い」ながらも「視点は他者の冷静さ」を維持することで見えてくるものがある、それを自分のスタイルとしていると言っていました。これは、地方のコミュニティにおける「他者との出会い」すべてに一般化できるものだと思います。
さらに言えば、一見すると巨大な人口を集めて繁栄しているように見える東京も、潜在的には「独居高齢者」の人口爆発という「時限爆弾」を抱えているわけで、この問題は単に福祉のコスト高というだけでなく、「人が孤立することで、語りや出会いの場が喪われる」というコミュニティの危機でもあるのです。
そう考えると、この「東北三部作」の提起する問題は、単に東日本大震災からの復興や、東北という一地方の問題であるだけでなく、日本というコミュニティをどう再生していくかという大きな問題提起になっているわけです。今後も日本各地で、また世界で上映が続くと思います。是非、ご覧になることをお薦めします。