今回の安倍晋三首相の演説ですが、上下両院の合同会議ということで毎年始めに大統領が行う年頭一般教書演説と同じスタイルで行われ、外交儀礼としては格式のあるものであったと思います。首相も相当に準備して臨んだということをうかがわせる演説でしたが、内容に関しては、全体的に「現状維持」という色彩が強く、新鮮味はありませんでした。
まず、第2次大戦メモリアルに献花をしたことを述べて戦没した若き米兵たちに追悼の意を表明したこと、硫黄島の戦いの当事者双方を代表する形で、スノーデン氏という米軍の元中隊長と、日本側の栗林忠道大将の孫である新藤義孝議員に握手をさせたというのは演出としては悪くなかったと思います。
ですが、この硫黄島での和解と友情のストーリーをもって、戦争和解の全体に拡大するのは無理があると思います。要するに「思い切り戦ったからこそ今の友情がある」というのですが、そこには「戦いに至った」ことへの反省は込められていないし、また非戦闘員の犠牲者を含めた、そしてアジア諸国の犠牲者の追悼には発展しないからです。
この戦後70年の年には、私はやはり首相は真珠湾献花を行うべきで、それがオバマ大統領の広島献花を実現し、さらには世界的な戦没者と民間人犠牲者への追悼の流れを作り、9月の戦争終結記念日における中露の一方的な「戦勝レガシーの横取り」を防ぐことにつながると思っています。その意味では、今回の「第2次大戦メモリアル献花+硫黄島の和解」という内容は十分ではないと思います。
また、歴代首相の歴史認識を継承するという部分は、国際社会との折り合いをつける「最低限」のラインで留まった印象であり、こちらも不足感が否めませんでした。前日のオバマ大統領との共同記者会見、また前々日のハーバード大での質疑応答では、慰安婦問題を「ヒューマン・トラフィッキング(人身売買)の犠牲者であり胸が痛む」という言い方で踏み込んだ表現をしていましたが、この点に関しては演説には盛り込まれませんでした。
歴史認識に関しては、過去から現在の安倍政権の「保守票に基盤を持つ」国内的な立ち位置、そして国際的に発信してきた「国際協調主義」の間にズレがある、つまり国内向けと国際社会向けに「メッセージを使い分けている」ではないのか、という疑念が持たれていたわけですが、今回の発言が現状維持にとどまる中で、それを払拭するには至っていないように思います。
英語での演説については、首相はかなり慣れているという印象を持っていましたが、今回のパフォーマンスは印象の薄いものに終わりました。無理にはめ込んだジョーク(私は「フィリバスター(審議妨害演説)」はしないとか、NY駐在時に上下関係のないカルチャーに「毒され」たという箇所など)が全く機能しなかったこともありますが、単語がブツ切りになったためにフレーズとして聞き取りにくい箇所が多かったのは特に残念でした。これは首相の読み方というより、そもそも原稿に問題があったのだと思います。
いずれにしても、今回の首相の上下両院合同会議での演説は、演説が行われたこと自体は有意義であったかもしれませんが、内容としては日米関係の政治的な位置としては限りなく「現状維持」を確認しただけに終わった、そう評価するしかありません。
今回の安倍政権が典型であるように、日本の「親米保守」という勢力は、当面の政策としては親米であっても、枢軸国の名誉回復願望をどうしても捨てられないことから、米国の主導する「戦後世界」の中では政治的な地位は不安定なままです。
一方で、今回の演説で「夏までには」と首相が期限を切って見せた安保法制に関して、そして海兵隊基地の辺野古移転の問題に関しては、日本へ戻れば反米リベラルの抵抗が待っているわけであり、軍事外交という面では、アメリカとしてはこの「親米保守」と手を組むしかないわけです。
さらに言えば、今回の演説で安倍首相の触れた「女性の活躍」、「農業の競争力確保」、「規制改革」といった社会経済面での改革を主導する勢力は日本の政治風土の中では少数であり、右のポピュリズムも、左のポピュリズムも、こうした改革には消極的という問題もあるわけです。
そうした中で、日米が真に価値観を共有して、アジアが政治経済の両面で成熟していくための改革を共に主導していく、そのような新しい日米関係へと脱皮する兆候は、今回の首相訪米では見えてはきませんでした。
アメリカではボルティモアにおける人種暴動という大きなニュースが続いており、前夜には外出禁止令が施行されて沈静化の方向は見えてきたものの、首相演説のあった29日には「大リーグ、オリオールズの無観客試合」という前代未聞の事態が起きる中で、全国ニュースはボルティモア関係のものが圧倒的でした。
結果として現状維持に徹した安倍首相の演説は、現時点では米メディアでの扱いは極めて低調となっているのも仕方のないことだと言えます。
まず、第2次大戦メモリアルに献花をしたことを述べて戦没した若き米兵たちに追悼の意を表明したこと、硫黄島の戦いの当事者双方を代表する形で、スノーデン氏という米軍の元中隊長と、日本側の栗林忠道大将の孫である新藤義孝議員に握手をさせたというのは演出としては悪くなかったと思います。
ですが、この硫黄島での和解と友情のストーリーをもって、戦争和解の全体に拡大するのは無理があると思います。要するに「思い切り戦ったからこそ今の友情がある」というのですが、そこには「戦いに至った」ことへの反省は込められていないし、また非戦闘員の犠牲者を含めた、そしてアジア諸国の犠牲者の追悼には発展しないからです。
この戦後70年の年には、私はやはり首相は真珠湾献花を行うべきで、それがオバマ大統領の広島献花を実現し、さらには世界的な戦没者と民間人犠牲者への追悼の流れを作り、9月の戦争終結記念日における中露の一方的な「戦勝レガシーの横取り」を防ぐことにつながると思っています。その意味では、今回の「第2次大戦メモリアル献花+硫黄島の和解」という内容は十分ではないと思います。
また、歴代首相の歴史認識を継承するという部分は、国際社会との折り合いをつける「最低限」のラインで留まった印象であり、こちらも不足感が否めませんでした。前日のオバマ大統領との共同記者会見、また前々日のハーバード大での質疑応答では、慰安婦問題を「ヒューマン・トラフィッキング(人身売買)の犠牲者であり胸が痛む」という言い方で踏み込んだ表現をしていましたが、この点に関しては演説には盛り込まれませんでした。
歴史認識に関しては、過去から現在の安倍政権の「保守票に基盤を持つ」国内的な立ち位置、そして国際的に発信してきた「国際協調主義」の間にズレがある、つまり国内向けと国際社会向けに「メッセージを使い分けている」ではないのか、という疑念が持たれていたわけですが、今回の発言が現状維持にとどまる中で、それを払拭するには至っていないように思います。
英語での演説については、首相はかなり慣れているという印象を持っていましたが、今回のパフォーマンスは印象の薄いものに終わりました。無理にはめ込んだジョーク(私は「フィリバスター(審議妨害演説)」はしないとか、NY駐在時に上下関係のないカルチャーに「毒され」たという箇所など)が全く機能しなかったこともありますが、単語がブツ切りになったためにフレーズとして聞き取りにくい箇所が多かったのは特に残念でした。これは首相の読み方というより、そもそも原稿に問題があったのだと思います。
いずれにしても、今回の首相の上下両院合同会議での演説は、演説が行われたこと自体は有意義であったかもしれませんが、内容としては日米関係の政治的な位置としては限りなく「現状維持」を確認しただけに終わった、そう評価するしかありません。
今回の安倍政権が典型であるように、日本の「親米保守」という勢力は、当面の政策としては親米であっても、枢軸国の名誉回復願望をどうしても捨てられないことから、米国の主導する「戦後世界」の中では政治的な地位は不安定なままです。
一方で、今回の演説で「夏までには」と首相が期限を切って見せた安保法制に関して、そして海兵隊基地の辺野古移転の問題に関しては、日本へ戻れば反米リベラルの抵抗が待っているわけであり、軍事外交という面では、アメリカとしてはこの「親米保守」と手を組むしかないわけです。
さらに言えば、今回の演説で安倍首相の触れた「女性の活躍」、「農業の競争力確保」、「規制改革」といった社会経済面での改革を主導する勢力は日本の政治風土の中では少数であり、右のポピュリズムも、左のポピュリズムも、こうした改革には消極的という問題もあるわけです。
そうした中で、日米が真に価値観を共有して、アジアが政治経済の両面で成熟していくための改革を共に主導していく、そのような新しい日米関係へと脱皮する兆候は、今回の首相訪米では見えてはきませんでした。
アメリカではボルティモアにおける人種暴動という大きなニュースが続いており、前夜には外出禁止令が施行されて沈静化の方向は見えてきたものの、首相演説のあった29日には「大リーグ、オリオールズの無観客試合」という前代未聞の事態が起きる中で、全国ニュースはボルティモア関係のものが圧倒的でした。
結果として現状維持に徹した安倍首相の演説は、現時点では米メディアでの扱いは極めて低調となっているのも仕方のないことだと言えます。