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「維新」の「小さな政府論」はどうして行き詰まったのか? - 冷泉彰彦 プリンストン発 日本/アメリカ 新時代

ニューズウィーク日本版 2015年5月19日 11時10分

 大阪市に関する「市の解体と5区の設置」を問う住民投票は否決に終わりました。橋下徹市長は政界引退を表明し、同時に江田憲司・維新の党共同代表も辞任するという声明を出しています。これは、大阪の府市合併論が行き詰まっただけでなく、「維新」という政治勢力の行き詰まりでもあります。

 私は「維新」、特に「大阪維新」に関しては、大阪以外の地方の活性化に応用できる点が少ないことや、大阪の実体経済成長への計画が具体的でないことから、積極的な支持はして来ませんでした。ですから、今回の「行き詰まり」に関して大きな感慨はありません。

 ですが、1つだけ気になることがあります。それは「維新」とは「小さな政府論」だったということです。

 日本には「右も左も大きな政府」という政治風土があります。まずリベラルな立場には福祉の充実や再分配による格差の是正など「大きな政府論」が根本にありますが、これは世界各国ほぼ共通の現象だと思います。一方、日本では保守の立場も「公共工事で景気浮揚」とか「お札をどんどん印刷してデフレ脱却」という発想法が根本にあり、こちらも「大きな政府論」になっています。

 その中でこの「維新」という政治勢力は、日本では珍しい「小さな政府論」を掲げた勢力でした。今回は、その「小さな政府論」が行き詰まったということです。何故なのでしょうか?

 今回の住民投票結果を受けての多くの論評にも見られましたが、行政サービスや福祉による給付など、市や府から「受け取るほうが多い」層に比べて、納税によって市や府にカネを払っている層が限られるという問題は確かにあると思います。

 大阪市内に関して言えば、南部は「反対」で、北部は「賛成」ということですし、年齢的にも60代以下は基本的に賛成が多かったというコントラストが、その「プラス・マイナス」という要素を物語っています。

 これに加えて、維新勢力が「小さな政府論」を推進するイデオロギーとして、右派的なものだけに頼っていたということがあると思います。犯罪加害者への人権上の配慮に反対するとか、歴史認識で修正主義の立場に接近するというのは、確かに「大きな政府論」の中核にある「官公労的な既得権」イコール「左派イデオロギー」とのケンカを通じた求心力にはなったかもしれません。

 ですが、実は「維新」が見落としていたものがあります。それは、日本の政治風土においては、財政規律の重視というのは、右か左かといえば、どちらかと言えば「左」の思想、つまり土着の保守主義ではなく、ハイカラな理想主義の中に「僅かな存立基盤」を持っているという点です。

 戦前の民政党が金解禁と緊縮財政にこだわったのも、民主党の野田政権が税と社会保障の一体改革に突進したのも、そのメカニズムでした。非常にイヤな言い方をすれば、相当な知識の量があり、当座の利害から超越して「国家百年の大計」を考える余裕のある人間だけが「財政規律」などというものに関心を向けるということであり、明治以降の日本という国の底の浅さでもあります。

 ですが、そこには確実に「小さな政府論」への支持はあったはずです。「維新」はその点を最初から切り捨てていたわけで、それは1つの見落としだったように思います。

 実は、日本の政治風土の中で「小さな政府論」が成立しない理由にはもっと構造的な問題があります。それは、税負担と行政サービスによる見返りという「プラス・マイナス」の議論が極めて「見えにくい」構造があるということです。

 その「見えにくさ」というのは、2つの軸について言えます。空間軸と時間軸です。

 まず空間軸ですが、現在、東京都を除くすべての道府県は自分の税収だけでは財政が成立しません。つまり国の予算から「地方交付税」という補助を受けて成立しているのです。この交付税があるために、空間上の独立採算というのが見えにくくなっているのです。

 非常に問題を単純化して言えば、大阪でカネが足りなくなれば、国が足りない分を埋めてくれるわけです。反対に、大阪で大変な思いをしてリストラをしたり増税をしたりしても、財政上の余裕ができた分だけ丸々大阪にメリットが来るわけではないのです。

 時間軸ということでは、これは主として国の問題ですが、国家債務が余りに巨大なために、多少財政を好転させても中長期の「破綻への恐怖」は簡単には消えません。また、反対に多少財政が悪化しても、過去に蓄積された国家債務と比較すると「大したことはない」と思ってしまうということもあります。

 そんな中で、激しい政争をしたり、国民を巻き込んで大議論をしたりして一年一年、単年度の財政規律を確保しようなどという雰囲気はないわけです。そもそも、その年に収めた税金の多くは過去の国債の利払いに消える一方で、その年に使うカネは将来から借りてくるわけですから、カネの帳尻の時間感覚がマヒしているわけです。

 財政規律という面から考えてみると、日本の「国のかたち」というものは、時間も空間も歪んでしまっています。その中で「小さな政府論」を掲げることが、例えばその人個人にとって、あるいは全体にどんなメリットがあるのか、今回の「維新」という7年半の試行錯誤は、そのことを訴えることの難しさを証明したようにも思います。

 しかし日本という国は、これからますます財政規律確保という問題と向かい合っていかなくてはなりません。破綻するには大きすぎる日本を、国際社会は破綻させてはくれませんし、同時に人口減と向かい合っていかなくてはならないからです。その意味で、これからは「維新」とは全く別のイデオロギーと戦略を持って、改めて「小さな政府論」を練り直す勢力が出てこなければならないと思います。

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