先日出張先の韓国ソウルで、日本に留学経験のある現地の友人と日本政治をどう見るのかについて、意見を交換することがあった。周知の通り、日韓関係は国交回復後最悪の状態が続いている。韓国政府では日本通の官僚達が政策立案の現場から遠ざけられているという話もよく耳にする。日本国内でも、韓国はどうして中国にすり寄るのかが話題になることがあるが、逆にどうして日本から遠ざかるかも疑問である。しかしだからといって日本に関心がなくなっているわけではなく、日本に留学経験のある研究者に日本政治をどう理解したらよいのか質問があるのだという。
商売繁盛で結構かと思いきや、このことは彼にとって悩みの種でもあるようだ。というのも、彼が留学時代に直接見、学んだ日本政治はバブル景気で繁栄していた時代のそれである。その後日本政治は大きく変わっている。もはや五十五年体制は存在しないし、族議員政治もなければ中央―地方関係も変質している。しかし、そうした新しい日本政治を見通すものが、ないというのである。どうしても昔の見方に頼って見てしまうし、それで分析し人々に伝えることになる。しかしそれが本当に正しいのか。確たる自信がない。
彼のいうことはかなりの程度、正しいと思われる。韓国人留学生は現在でも日本に一定数来ているが、かつてのように日本政治に関心を持って研究するというタイプの学生は明らかに減ってきている。それゆえ、韓国で日本政治解説の主流となっている研究者といえば、先ほど挙げた、バブル時代に留学した人々なのである。
ただし、彼のいうことは正しいとはいえ、その責任は彼の、あるいは韓国における日本政治研究の遅れによるものとは言い難い面がある。実は私たち日本人もまた、現代日本政治を見通す視角を持っているのかというと、そうとは言い難いからである。一九八〇年代に成立した概念を使ってマスメディアで政治解説をする人はよく見るし、それに代わるものを明確には提示できてはいないようである。
おそらく、そうした古い認識枠組みのうち、現実政治に意味を持ってしまったものの一つが、官僚支配であった。二〇〇九年から二〇一二年までの民主党政権時代、とりわけ鳩山総理の時代、政権と与党民主党は、日本政治の問題点を官僚支配であると理解し、意思決定過程から極力官僚を排除するように様々な改革を行なった。民主党が政権を去った後も、官僚が既得権を守るために国益を阻害しているという議論は絶えることがない。
日本が戦後民主主義国家として生まれ変わった以上、主権者はあくまで国民である。直接民主主義が困難な現代において、国民は代理人として国会議員などの政治家を選出する。そして政治家達によって政府が形成され、実際の政策実施は政府に雇われている官僚達が実施する。官僚達が既得権を持つのは、こうした主権委任の連鎖に反するというのである。
しかし、官僚を支配者、あるいは既得権層としてみる見方は、現在政治を見通す上で正しい視角なのであろうか。あるいは、官僚を単なる代理人と見る見方は、規範的にも現実的にも妥当なのであろうか。そういった疑問を抱かせる研究が、ここ十年ほどアメリカで相次いで出されている。ここで取り上げるダニエル・カーペンター『評判と権力――アメリカ食品医薬品局(FDA)における組織イメージと薬品規制』はその代表的な例である。
ダニエル・カーペンター
『評判と権力──アメリカ食品医薬品局(FDA)における組織イメージと薬品規制』
Reputation and Power: Organizational Image and Pharmaceutical Regulation at the FDA
by Daniel Carpenter (Princeton University Press, 2010)
官僚制をどのように捉えるかは、元来多様である。日本の現実政治においてはエリート政治の一角を担う非民主的な組織という捉え方がよくなされるが、学界においてむしろ主流なのは、官僚制を主権者たる国民によって選出された政治家の代理人として捉える、本人─代理人モデルである(注1)。このモデルは民主主義政治において規範的に正当化されるが、現実政治を分析する上でも有効性を発揮している。とりわけ、アメリカで生まれたこともあり、近年アメリカの官僚制分析に活用されてきた。
本人─代理人モデルによると、官僚制は、本人たる政治家が設定する政策目的を達成するべく政策を実施しなければならない。ただし、実際に実施を担当する官僚制とそうではない政治家との間には政策に関する情報ギャップが生じる。情報ギャップを利用すれば、官僚制は政治家の設定した目的とは異なる目的で資源を利用し、自己利益を実現してしまうかもしれない。それゆえ、官僚制は目的を達成する有能さを持たねばならない一方で、その有能さ故に監視の対象としなければならないのである。簡略にいえば、官僚制を、市民の代理人らしく如何に政治家のいうことを聞かせるかが重要視されていたということができる。
しかし、究極的には市民の代理人かもしれないが、直接的な本人─代理人の委任の連鎖から切り離されたからこそ、公益が守られることがありうる。カーペンターが取り上げたFDAの事例はそれである。FDAは、アメリカにおける薬品行政を担当する規制行政機関である。アメリカで治療のために使用してよい薬品とは何であるのかを認証する権限を有している。FDAの存在によって、国民は薬害の発生を第一次的に阻止できるようになっている。その意味で広く公益に貢献しているが、製薬業者やその意向を受けた政治家にとってはやっかいな存在である。多額の投資をして新薬を開発しても、FDAが承認しなければ新薬が使用されることはなく、彼らの利益に反する。委任の連鎖を考えれば、FDAの政策は政治家の下におかれねばならないが、実はそうではないからこそ、公益が守られているのである。
ところが、一九九〇年代に入ってFDAの権限を弱める改革が行なわれて以降、FDAが守ってきた公益には揺らぎが見られるようになる。この改革は、製薬業者の立場に近く、政府規制ではなく自由競争を重視する共和党によってなされた。FDAがより代理人的になったことは、果たしてよかったことなのであろうか。
カーペンターは明示的には述べていないが、本書は、官僚制の別の側面を描き出すことに成功している。それは、「信託者」としての側面である。先ほど述べた代理人としての官僚制は、本人たる政治家によって設定された目的を実現しなければならない。そのためにはいかなる政策を使って実現するか、というレベルの裁量はあるかもしれない。しかし、ここで示されている信託者としての官僚制は、目的設定自体も主体的に行なう。確かに、国民を薬害から守るという意味での大きな目標は国民から与えられたものであるが、その目標を達成するためのより具体的な目的設定については大幅に委託されている。そして、FDAは、委任の連鎖から切り離され、直接的に政治家の監督を受けないからこそ、究極の目標である公益実現に貢献できるのである。
しかし、連邦議会の定める法律によって設置され、連邦議会の意思次第では組織も目的も変更されうるFDAが高い自律性を保ち得たのは何であったのか。それをカーペンターは、組織に対する評判の高さであるという。患者と消費者の安全を守り、科学的な正確さと的確さに依拠して政策を形成、実施しているという、一般市民からの評判が、製薬業者や医療従事者への指導力、新薬への拒否権、さらには現代医学の基準やルールをも規定する権力を作り上げてきた。逆に言えば、評判の衰えがFDAへの信頼を揺るがせ、政治的自律性を損なうことにつながる。
本書が提示した信託者としての条件が、カーペンターがいう評判であるかどうかについては、議論の余地がある。カーペンター自身、前著では評判だけでなく課長級の中間管理職が持つ市民社会とのネットワークが重要であるとしている(注2)。他方ヒューバーは地方組織における裁量のあり方が重要であるとする(注3)。裁量を地方組織が持てば、政治家が地方に働きかけて、例えば労働者の労働条件の保護基準の統一など、政策本来の持つ性格をねじ曲げてしまうからである。フッドはそもそも官僚制が信託者なのか代理人なのかは、ヨーロッパ大陸諸国や日本と、英米・新興国とで根本的に異なるとしている(注4)。まだまだこれから研究がなされるべき領域であり、結論が出ているわけではない。
しかし、明らかなのは、本人─代理人モデルだけでは、官僚制分析は不十分であり、信託者としての官僚制の側面を見る必要があるということである。実証分析のみならず、規範的にも官僚制を代理人とのみ見ると、逆に公益実現に支障が発生しうる。実際に、本来信託者として制度設計すべきところを代理人的な設計にしたがための問題が、日本では近年選挙管理の分野で発生している(注5)。
日本国憲法にも書かれているように、官僚は公僕である。しかし公僕のあり方は様々であり得る。政治家に官僚を従わせることだけが重要なのか、分野や官僚の能力によっては、むしろ官僚を政治家から切り離すことが必要なのではないか。政治主導の重要性が認知されただけに、逆に我々にとってより良い官僚組織のあり方について、政治権力との距離の取り方について考えてみる時期に来ているように思われる。
[注]
(1) 代表例として、曽我謙悟『行政学』有斐閣、二〇一三年。
(2) D. Carpenter, The Forging of Bureaucratic Autonomy: Reputations, Networks, and Policy Innovation in Executive Agencies, 1862-1928, Princeton University Press, 2001.
(3) G. Huber, The Craft of Bureaucratic Neutrality: Interests and Influence in Governmental Regulation of Occupational Safety, Cambridge University Press, 2007.
(4) C. Hood, "Control, Bargains, and Cheating: The Politics of Public-Service Reform," Journal of Public Administration Research and Theory, 12(3), 2002.
(5) 大西裕編『選挙管理の政治学』有斐閣、二〇一三年。
[執筆者]
大西 裕(神戸大学大学院法学研究科教授)
1965年生まれ。京都大学大学院法学研究科博士後期課程退学。博士(法学)。大阪市立大学法学部助教授、韓国高麗大学校客員教授などを経て現職。著書に『韓国経済の政治分析』(有斐閣)、『先進国・韓国の憂鬱』(中央公論新社、サントリー学芸賞)など。
※当記事は「アステイオン82」からの転載記事です
『アステイオン82』
特集「世界言語としての英語」
公益財団法人サントリー文化財団
アステイオン編集委員会 編
大西 裕(神戸大学大学院法学研究科教授)※アステイオン82より
商売繁盛で結構かと思いきや、このことは彼にとって悩みの種でもあるようだ。というのも、彼が留学時代に直接見、学んだ日本政治はバブル景気で繁栄していた時代のそれである。その後日本政治は大きく変わっている。もはや五十五年体制は存在しないし、族議員政治もなければ中央―地方関係も変質している。しかし、そうした新しい日本政治を見通すものが、ないというのである。どうしても昔の見方に頼って見てしまうし、それで分析し人々に伝えることになる。しかしそれが本当に正しいのか。確たる自信がない。
彼のいうことはかなりの程度、正しいと思われる。韓国人留学生は現在でも日本に一定数来ているが、かつてのように日本政治に関心を持って研究するというタイプの学生は明らかに減ってきている。それゆえ、韓国で日本政治解説の主流となっている研究者といえば、先ほど挙げた、バブル時代に留学した人々なのである。
ただし、彼のいうことは正しいとはいえ、その責任は彼の、あるいは韓国における日本政治研究の遅れによるものとは言い難い面がある。実は私たち日本人もまた、現代日本政治を見通す視角を持っているのかというと、そうとは言い難いからである。一九八〇年代に成立した概念を使ってマスメディアで政治解説をする人はよく見るし、それに代わるものを明確には提示できてはいないようである。
おそらく、そうした古い認識枠組みのうち、現実政治に意味を持ってしまったものの一つが、官僚支配であった。二〇〇九年から二〇一二年までの民主党政権時代、とりわけ鳩山総理の時代、政権と与党民主党は、日本政治の問題点を官僚支配であると理解し、意思決定過程から極力官僚を排除するように様々な改革を行なった。民主党が政権を去った後も、官僚が既得権を守るために国益を阻害しているという議論は絶えることがない。
日本が戦後民主主義国家として生まれ変わった以上、主権者はあくまで国民である。直接民主主義が困難な現代において、国民は代理人として国会議員などの政治家を選出する。そして政治家達によって政府が形成され、実際の政策実施は政府に雇われている官僚達が実施する。官僚達が既得権を持つのは、こうした主権委任の連鎖に反するというのである。
しかし、官僚を支配者、あるいは既得権層としてみる見方は、現在政治を見通す上で正しい視角なのであろうか。あるいは、官僚を単なる代理人と見る見方は、規範的にも現実的にも妥当なのであろうか。そういった疑問を抱かせる研究が、ここ十年ほどアメリカで相次いで出されている。ここで取り上げるダニエル・カーペンター『評判と権力――アメリカ食品医薬品局(FDA)における組織イメージと薬品規制』はその代表的な例である。
ダニエル・カーペンター
『評判と権力──アメリカ食品医薬品局(FDA)における組織イメージと薬品規制』
Reputation and Power: Organizational Image and Pharmaceutical Regulation at the FDA
by Daniel Carpenter (Princeton University Press, 2010)
官僚制をどのように捉えるかは、元来多様である。日本の現実政治においてはエリート政治の一角を担う非民主的な組織という捉え方がよくなされるが、学界においてむしろ主流なのは、官僚制を主権者たる国民によって選出された政治家の代理人として捉える、本人─代理人モデルである(注1)。このモデルは民主主義政治において規範的に正当化されるが、現実政治を分析する上でも有効性を発揮している。とりわけ、アメリカで生まれたこともあり、近年アメリカの官僚制分析に活用されてきた。
本人─代理人モデルによると、官僚制は、本人たる政治家が設定する政策目的を達成するべく政策を実施しなければならない。ただし、実際に実施を担当する官僚制とそうではない政治家との間には政策に関する情報ギャップが生じる。情報ギャップを利用すれば、官僚制は政治家の設定した目的とは異なる目的で資源を利用し、自己利益を実現してしまうかもしれない。それゆえ、官僚制は目的を達成する有能さを持たねばならない一方で、その有能さ故に監視の対象としなければならないのである。簡略にいえば、官僚制を、市民の代理人らしく如何に政治家のいうことを聞かせるかが重要視されていたということができる。
しかし、究極的には市民の代理人かもしれないが、直接的な本人─代理人の委任の連鎖から切り離されたからこそ、公益が守られることがありうる。カーペンターが取り上げたFDAの事例はそれである。FDAは、アメリカにおける薬品行政を担当する規制行政機関である。アメリカで治療のために使用してよい薬品とは何であるのかを認証する権限を有している。FDAの存在によって、国民は薬害の発生を第一次的に阻止できるようになっている。その意味で広く公益に貢献しているが、製薬業者やその意向を受けた政治家にとってはやっかいな存在である。多額の投資をして新薬を開発しても、FDAが承認しなければ新薬が使用されることはなく、彼らの利益に反する。委任の連鎖を考えれば、FDAの政策は政治家の下におかれねばならないが、実はそうではないからこそ、公益が守られているのである。
ところが、一九九〇年代に入ってFDAの権限を弱める改革が行なわれて以降、FDAが守ってきた公益には揺らぎが見られるようになる。この改革は、製薬業者の立場に近く、政府規制ではなく自由競争を重視する共和党によってなされた。FDAがより代理人的になったことは、果たしてよかったことなのであろうか。
カーペンターは明示的には述べていないが、本書は、官僚制の別の側面を描き出すことに成功している。それは、「信託者」としての側面である。先ほど述べた代理人としての官僚制は、本人たる政治家によって設定された目的を実現しなければならない。そのためにはいかなる政策を使って実現するか、というレベルの裁量はあるかもしれない。しかし、ここで示されている信託者としての官僚制は、目的設定自体も主体的に行なう。確かに、国民を薬害から守るという意味での大きな目標は国民から与えられたものであるが、その目標を達成するためのより具体的な目的設定については大幅に委託されている。そして、FDAは、委任の連鎖から切り離され、直接的に政治家の監督を受けないからこそ、究極の目標である公益実現に貢献できるのである。
しかし、連邦議会の定める法律によって設置され、連邦議会の意思次第では組織も目的も変更されうるFDAが高い自律性を保ち得たのは何であったのか。それをカーペンターは、組織に対する評判の高さであるという。患者と消費者の安全を守り、科学的な正確さと的確さに依拠して政策を形成、実施しているという、一般市民からの評判が、製薬業者や医療従事者への指導力、新薬への拒否権、さらには現代医学の基準やルールをも規定する権力を作り上げてきた。逆に言えば、評判の衰えがFDAへの信頼を揺るがせ、政治的自律性を損なうことにつながる。
本書が提示した信託者としての条件が、カーペンターがいう評判であるかどうかについては、議論の余地がある。カーペンター自身、前著では評判だけでなく課長級の中間管理職が持つ市民社会とのネットワークが重要であるとしている(注2)。他方ヒューバーは地方組織における裁量のあり方が重要であるとする(注3)。裁量を地方組織が持てば、政治家が地方に働きかけて、例えば労働者の労働条件の保護基準の統一など、政策本来の持つ性格をねじ曲げてしまうからである。フッドはそもそも官僚制が信託者なのか代理人なのかは、ヨーロッパ大陸諸国や日本と、英米・新興国とで根本的に異なるとしている(注4)。まだまだこれから研究がなされるべき領域であり、結論が出ているわけではない。
しかし、明らかなのは、本人─代理人モデルだけでは、官僚制分析は不十分であり、信託者としての官僚制の側面を見る必要があるということである。実証分析のみならず、規範的にも官僚制を代理人とのみ見ると、逆に公益実現に支障が発生しうる。実際に、本来信託者として制度設計すべきところを代理人的な設計にしたがための問題が、日本では近年選挙管理の分野で発生している(注5)。
日本国憲法にも書かれているように、官僚は公僕である。しかし公僕のあり方は様々であり得る。政治家に官僚を従わせることだけが重要なのか、分野や官僚の能力によっては、むしろ官僚を政治家から切り離すことが必要なのではないか。政治主導の重要性が認知されただけに、逆に我々にとってより良い官僚組織のあり方について、政治権力との距離の取り方について考えてみる時期に来ているように思われる。
[注]
(1) 代表例として、曽我謙悟『行政学』有斐閣、二〇一三年。
(2) D. Carpenter, The Forging of Bureaucratic Autonomy: Reputations, Networks, and Policy Innovation in Executive Agencies, 1862-1928, Princeton University Press, 2001.
(3) G. Huber, The Craft of Bureaucratic Neutrality: Interests and Influence in Governmental Regulation of Occupational Safety, Cambridge University Press, 2007.
(4) C. Hood, "Control, Bargains, and Cheating: The Politics of Public-Service Reform," Journal of Public Administration Research and Theory, 12(3), 2002.
(5) 大西裕編『選挙管理の政治学』有斐閣、二〇一三年。
[執筆者]
大西 裕(神戸大学大学院法学研究科教授)
1965年生まれ。京都大学大学院法学研究科博士後期課程退学。博士(法学)。大阪市立大学法学部助教授、韓国高麗大学校客員教授などを経て現職。著書に『韓国経済の政治分析』(有斐閣)、『先進国・韓国の憂鬱』(中央公論新社、サントリー学芸賞)など。
※当記事は「アステイオン82」からの転載記事です
『アステイオン82』
特集「世界言語としての英語」
公益財団法人サントリー文化財団
アステイオン編集委員会 編
大西 裕(神戸大学大学院法学研究科教授)※アステイオン82より