戦後70周年の今年、ヨーロッパではアウシュビッツの解放70周年から、ドレスデンの空襲70周年、ベルリン陥落による欧州戦線終結の70周年まで、様々な追悼行事が行われました。
その一方で、日本では「70周年談話」をどうするのかといった議論はあっても、東京大空襲の70周年が小規模な追悼行事に終わるなど、70年を追悼の節目にしようという機運は今ひとつ盛り上がっていません。
ですが、今年の8月6日の広島、そして8月9日の長崎に関しては、単に「戦争終結70周年」の1つの記念日、1つの行事にはとどまらない、重たい意味があるように思います。
(1)まず被爆から70年、遺族を支え、原爆症に苦しむ人々を支え、そして非核のメッセージを世界に発信してきた街の歴史を改めて誇るべきです。苦しい戦後復興の中、また冷戦の政治に巻き込まれながらも、ヒロシマとナガサキが共に世界の人々に警鐘を鳴らし、また希望を与えてきた歴史は貴重だと思います。70周年にあたって、この2都市はあらためて胸を張るべきと思いますし、70年間の運動を回顧し、再評価するような仕掛けが必要と思います。
(2)次にあらためて膨大な犠牲への追悼が誠実に、厳粛に行われるべきと思います。核の犠牲者だけを神聖視するのはおかしいという議論もありますが、瞬時に10万を越える人々の生命を奪い、残酷な後遺症で膨大な人々を苦しませ死なせた原爆の被害は、この街において特別であり、人類にとっても特別なのです。何らかの工夫によって、この70周年の追悼行事を全人類的なものにする、広島と長崎の街から、そんな大きなアイディアを発信できないものかと思います。
(3)一方で、改めてヒロシマとナガサキのメッセージを問い直すことが必要です。現在は、核拡散防止条約に従って、臨界核実験は禁止されています。ですが、イスラエル、インド、パキスタンに続いて北朝鮮とイランという形で、新たな核保有国、潜在核保有国の出現が相次いでいるのです。このような状況の中で、5カ国の専有体制を当面は固定しつつ、なんとか新規の核拡散を防止するというのが国連と国際社会の姿勢です。ですが、5カ国専有体制を認めてしまっては、核廃絶への道のりは見えてきません。改めて、短期的には拡散を防止し、中長期では5大国の保有も放棄していくという2段階方式での人類的な合意を目指して活動がされるべきと思います。
(4)70周年を契機として、ヒロシマへの核攻撃がどうして行われたのかという問題が問い直されるべきと思います。枢軸国日本が制空権を奪われ、主要都市の空襲で大きな被害を出し、レイテ、沖縄と大きな戦闘に完敗した。それでも権力中枢の一人一人が自己保身のために、ポツダム宣言の受諾を遅らせたことが核攻撃の口実を許した、それは事実でしょう。特に、冷戦という新しい文脈が生まれつつある国際政治を理解することなく、ソ連の仲介による講和を模索したというような愚策は、結果的に核攻撃を許すスキを与えたように思います。この辺りの「大戦末期の歴史」を問い直すことも必要です。
(5)だからといって、核攻撃は仕方がなかったということにはできません。広島と長崎を合わせて30万人の非戦闘員の殺戮という事実が「あれで良かった」ということにはならないでしょう。攻撃の当事者であるアメリカ合衆国の現職大統領が、いつの日か「謝罪(apologize)」か、そうでなくても「遺憾(regret)」という言葉を広島ならびに長崎に対して口にする、いつの日か、仮に少し先の未来であってもその日が来ることが必要です。今年は不可能でも、オバマ大統領の任期の最後の年となる2016年には「相互献花外交」を是非実現して欲しいと思います。
(6)核拡散防止条約の「再検討会議」で、日本が世界の指導者に広島・長崎への訪問を呼びかけたところ中国が猛反発、韓国も消極姿勢を見せるなど、ヒロシマ・ナガサキのメッセージに誤解が生じています。核兵器の使用でようやく終結したという事実をもって、第二次大戦の歴史は「二度と世界大戦を起こしてはならない」という人類共通の理解を生みました。世界大戦がこの「第二次」で最後であれば、日本は最後の枢軸国という負の歴史を背負うこともまた宿命付けられています。そのことと、30万人以上という膨大な核攻撃の犠牲ということを人類共通の惨禍として記憶することは、問題なく両立するのです。ヒロシマの被害を訴えることは被害者の正義を振り回すことではありません。それと、大戦に参戦したことの誤りを反省することは全く矛盾しないのであり、少なくとも広島と長崎の街ではその点に一点の混乱もないことを改めて訴えて主張すべきです。
この6点は相互に関連していますが、特に(5)の日米相互献花外交への道筋をつけることが、(6)の中国や韓国の「ヒロシマ・ナガサキのメッセージへの誤解」を解いていく、重要な鍵だ思います。
「戦後70周年」の今年、8月6日と9日は特別な意味合いを持たなければなりません。その意味合いを強くアピールすることを、両都市は国際社会から期待されていると思います。
その一方で、日本では「70周年談話」をどうするのかといった議論はあっても、東京大空襲の70周年が小規模な追悼行事に終わるなど、70年を追悼の節目にしようという機運は今ひとつ盛り上がっていません。
ですが、今年の8月6日の広島、そして8月9日の長崎に関しては、単に「戦争終結70周年」の1つの記念日、1つの行事にはとどまらない、重たい意味があるように思います。
(1)まず被爆から70年、遺族を支え、原爆症に苦しむ人々を支え、そして非核のメッセージを世界に発信してきた街の歴史を改めて誇るべきです。苦しい戦後復興の中、また冷戦の政治に巻き込まれながらも、ヒロシマとナガサキが共に世界の人々に警鐘を鳴らし、また希望を与えてきた歴史は貴重だと思います。70周年にあたって、この2都市はあらためて胸を張るべきと思いますし、70年間の運動を回顧し、再評価するような仕掛けが必要と思います。
(2)次にあらためて膨大な犠牲への追悼が誠実に、厳粛に行われるべきと思います。核の犠牲者だけを神聖視するのはおかしいという議論もありますが、瞬時に10万を越える人々の生命を奪い、残酷な後遺症で膨大な人々を苦しませ死なせた原爆の被害は、この街において特別であり、人類にとっても特別なのです。何らかの工夫によって、この70周年の追悼行事を全人類的なものにする、広島と長崎の街から、そんな大きなアイディアを発信できないものかと思います。
(3)一方で、改めてヒロシマとナガサキのメッセージを問い直すことが必要です。現在は、核拡散防止条約に従って、臨界核実験は禁止されています。ですが、イスラエル、インド、パキスタンに続いて北朝鮮とイランという形で、新たな核保有国、潜在核保有国の出現が相次いでいるのです。このような状況の中で、5カ国の専有体制を当面は固定しつつ、なんとか新規の核拡散を防止するというのが国連と国際社会の姿勢です。ですが、5カ国専有体制を認めてしまっては、核廃絶への道のりは見えてきません。改めて、短期的には拡散を防止し、中長期では5大国の保有も放棄していくという2段階方式での人類的な合意を目指して活動がされるべきと思います。
(4)70周年を契機として、ヒロシマへの核攻撃がどうして行われたのかという問題が問い直されるべきと思います。枢軸国日本が制空権を奪われ、主要都市の空襲で大きな被害を出し、レイテ、沖縄と大きな戦闘に完敗した。それでも権力中枢の一人一人が自己保身のために、ポツダム宣言の受諾を遅らせたことが核攻撃の口実を許した、それは事実でしょう。特に、冷戦という新しい文脈が生まれつつある国際政治を理解することなく、ソ連の仲介による講和を模索したというような愚策は、結果的に核攻撃を許すスキを与えたように思います。この辺りの「大戦末期の歴史」を問い直すことも必要です。
(5)だからといって、核攻撃は仕方がなかったということにはできません。広島と長崎を合わせて30万人の非戦闘員の殺戮という事実が「あれで良かった」ということにはならないでしょう。攻撃の当事者であるアメリカ合衆国の現職大統領が、いつの日か「謝罪(apologize)」か、そうでなくても「遺憾(regret)」という言葉を広島ならびに長崎に対して口にする、いつの日か、仮に少し先の未来であってもその日が来ることが必要です。今年は不可能でも、オバマ大統領の任期の最後の年となる2016年には「相互献花外交」を是非実現して欲しいと思います。
(6)核拡散防止条約の「再検討会議」で、日本が世界の指導者に広島・長崎への訪問を呼びかけたところ中国が猛反発、韓国も消極姿勢を見せるなど、ヒロシマ・ナガサキのメッセージに誤解が生じています。核兵器の使用でようやく終結したという事実をもって、第二次大戦の歴史は「二度と世界大戦を起こしてはならない」という人類共通の理解を生みました。世界大戦がこの「第二次」で最後であれば、日本は最後の枢軸国という負の歴史を背負うこともまた宿命付けられています。そのことと、30万人以上という膨大な核攻撃の犠牲ということを人類共通の惨禍として記憶することは、問題なく両立するのです。ヒロシマの被害を訴えることは被害者の正義を振り回すことではありません。それと、大戦に参戦したことの誤りを反省することは全く矛盾しないのであり、少なくとも広島と長崎の街ではその点に一点の混乱もないことを改めて訴えて主張すべきです。
この6点は相互に関連していますが、特に(5)の日米相互献花外交への道筋をつけることが、(6)の中国や韓国の「ヒロシマ・ナガサキのメッセージへの誤解」を解いていく、重要な鍵だ思います。
「戦後70周年」の今年、8月6日と9日は特別な意味合いを持たなければなりません。その意味合いを強くアピールすることを、両都市は国際社会から期待されていると思います。