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チベット化する香港が漢民族支配を脱する日

ニューズウィーク日本版 2015年7月2日 17時28分

「競馬もダンスパーティーもそのまま続ければいい」と、赤い中国の第2世代の指導者・鄧小平が「鉄の女」サッチャー英首相に語ったのは82年9月のこと。ヘビースモーカーの鄧はイギリスのレディーに少しも遠慮せずに絶えず足元の壺に痰(たん)を吐き捨てながら、「もしも香港を中国に返還しなければ、武力行使もあり得る」と話した。

 困難な会談の中で、中国政府は香港とその宗主国に「港人治港」、すなわち「香港人による香港統治」と「資本主義体制は50年変わらない」とする構想を主張した。2年後の84年12月には「一国二制度」を明記した「中英共同声明」が結ばれ、20世紀が幕を閉じる前の97年7月1日にイギリスが植民地香港を中国に返すことが決定された。

 中国も国際社会との約束を守る時代になるか──。江沢民(チアン・ツォーミン)総書記が人民解放軍を香港に進駐させ、最後の香港総督クリス・パッテンがジェントルマンらしく船に乗って去っていったときに、チャイナウオッチャーたちはそう夢想していた。「港人治港」の政策が本当に50年間も変わらなければ、香港から自由と人権尊重の思想が北上して中国大陸に民主化をもたらす可能性もある──私も絶望と希望半々の気持ちでそう見ていた。

 絶望的に考える理由は、中国のモンゴル・チベット政策にあった。中国共産党は21年の結党直後から諸民族に「自決権」を付与すると声高に宣言していた。諸民族がもし中国から独立したければ、共産党はその独立運動を支援するし、独立の意思がなければ中華連邦を共に建立しよう、と訴えていた。

チベットやウイグルも注視した香港「高度の自治」

 甘いスローガンはその後、日中戦争終戦後にも掲げられた。蒋介石率いる国民党との内戦に勝つためには、引き続き諸民族を自陣営にとどめておく必要があったからだ。内戦が有利に進むにつれ、民族自決の標語も次第に降ろされ、漢民族による、漢民族のための中華人民共和国を樹立したときにはもう何ら実権のない「区域自治」しか与えなくなった。諸民族が共産党にだまされた歴史から、モンゴル人とチベット人、それにウイグル人は誰も北京が標榜する「香港の高度の自治」が本当に実現し維持できるとは信じていなかった。

 希望も少しはあった。仮に香港人の「高度の自治」が長期間にわたって持続できるならば、諸民族も同様の権利を求めようと内心考えていた。漢民族同士で高度の自治を享受しながら、ほかの諸民族には実権のない「区域自治」しか下賜しないのはあからさまな差別だからだ。チベット人の政教一致の最高指導者ダライ・ラマ14世法王も香港の「高度の自治」を注視し続けたし、モンゴル人やウイグル人の知識人たちもそうした希望を持っていた。

 結局、共産党は自民族の香港人をチベット人やモンゴル人以上に「優遇」しなかった。6月中旬、香港の立法会(議会)は中国政府が支持する特別行政区長官選挙の改革案を否決した。中国寄りの議員は多くが退席し、賛成票を投じたのはわずか8人。反対票を投じたのは民主派議員27人全員を含む28人。法案可決には定数70の議会の3分の2以上の賛成が必要なため、成立しなかった。

 法案は17年の行政長官選挙で香港市民に1人1票の直接選挙権を与える内容だったが、親中派しか立候補できない仕組みで、野党議員や民主派の活動家らは「偽の選挙だ」と反発してきた。昨年秋に起きた大規模な「雨傘革命」と称する抗議運動も「50年間変わらない高度の自治」はすべて形骸化してきた事実を示している。

 英国情緒が残る街を占拠した青年たちは今、「香港民族」という概念を打ち出している。大陸の漢民族とは文化も精神も異なるので、当然、自決権を獲得する権利があるとの思想だ。広東語と北京語はイタリア語とフランス語以上に違う、という言語学者の知見に即して考えるならば、香港民族の闘争は今後も続くだろう。

[2015.7. 7号掲載]
楊海英(本誌コラムニスト)

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