アメリカ南部の黒人差別の実態を描いたハーパー・リーの『To Kill a Mockingbird 』(邦訳:『アラバマ物語』暮らしの手帖社刊)は、アメリカの大部分の学校が課題図書にしているモダンクラシックだ。本を読んだことがない人でも、グレゴリー・ペックが正義感ある弁護士のAtticusを演じた映画と言われれば思い当たるだろう。
『To Kill a Mockingbird』はアメリカだけでなく全世界でベストセラーになったが、ハーパー・リーはその後二度と小説を刊行しなかった。メディアのインタビューにも応じず、公の場を避けるリーには「隠遁者」のイメージがつきまとってきた。
今年初め、リーが55年の沈黙を破って新作を刊行するという噂が流れ始めた。だが、新作ではなく、『To Kill a Mockingbird』の元になった作品だという。これまでリーの弁護士役を務めてきた姉のアリスが健康上の問題で引退し、引き継いだ弁護士が金庫の中に埋もれていた小説を発見したというのだ。リー本人の許可を得てそれをオリジナルのままで刊行することになった。
だが、この作品の発売前には関係者の口は固く、メディアはいくつもの疑問を投げかけていた。これまでリーを守ってきた姉がいなくなってから紛失していた原稿が突然見つかったのは不自然だ。また健康を損ね、視力と聴力が衰えているリーが本当に承諾したのかどうか疑わしい。作品の出来にかかわらず新刊がベストセラーになることは確実だから、それによって利益を得る人々(家族、出版社、エージェントなど)が強く推したのではないか......。さまざまな憶測が流れた。
リーの弁護士、エージェント、友人らがビデオ取材に答えて疑念はやや晴れたが、それでも『To Kill a Mockingbird』の愛読者のもやもや感は消えなかった。
アメリカで発売された新刊『Go Set a Watchman: A Novel』の時代背景は、公民権運動が盛んになっていた1950年代。全米ではトルーマン大統領が軍隊での人種隔離を禁ずるなど進展をみせていたが、南部ではそれに反発するように人種分離政策が進んでいた。『Mockingbird』の幼い少女Scoutは26歳になり、Jean Louiseと呼ばれてニューヨークで暮らしている。ニューヨークから故郷アラバマに帰省し、崇拝する父のAtticusが白人至上主義団体「Citizens' Councils」の会議に出席していることを知って衝撃を受け、衝突するという物語だ。
『To Kill a Mockingbird』そのものが自伝的小説だと言われているが、その元になった新作はさらに自伝的なものを感じさせる。そして、想像以上に小説としての完成度が低い。文章は固く、洗練されていない表現が目立つ。筋書きやテーマに貢献せず「いったい何のためにこの部分を書いたのか?」と首をかしげたくなるような部分も多い。
そういった面では、じつに「初心者の初稿」らしい原稿だ。原稿を読んだ編集者のテイ・ホホフがこの小説をそのまま出版しなかった理由がとてもよくわかる。ホホフが「これよりも、Scoutの子供時代を描いたらどうか?」と提案し、何度も書きなおさせた結果が名作の『To Kill a Mockingbird』なのである。
リーの処女作の問題は、小説として未完成なだけではない。本書の主人公とリーの立場は非常に似通っている。アラバマ出身でニューヨークに住む著者はリベラルな友人たちから故郷の人々を批判され、心を傷めていたに違いない。故郷の白人たちを「外の州の人には見えないだろうが、彼らにもこういう言い分があるのだ。残酷な人種差別者ばかりだと決め付けないでほしい」と擁護したかった気持ちがにじみ出ている。Atticusや亡くなった兄の友人Henryを魅力的に描いた後で、彼らに人種分離政策に賛成する白人の立場を語らせているのはそのためだろう。それに対するJean Louiseの強い非難はニューヨークのリベラルの立場を代表するものであり、問題提起としては興味深い。しかし、小説の終わり方からは白人至上主義者擁護のイメージが抜けず、1950年代後半に書かれたことを考慮すると、やはり出版するべき作品ではなかったと言える。
興味深いのは、リーがAtticusに語らせた南部の白人のセンチメント(心情)が現在とまったく同じだということだ。こんなに時間が経ってもアメリカの人種差別はまだ解決していない。そういう意味でAtticusとHenryの見解は間違っていたことになる。それにもかかわらずこの小説を今になって刊行しようとしたリーの決断には首を傾げずにはいられない。リーに次作を書かせようと支えてきたホホフは、一度として『Watchman』を蘇らせようとはしなかった。1974年に亡くなった彼女が生きていたら、きっと止めたことだろう。
この小説により、『To Kill a Mockingbird』が与えた強いメッセージが濁る気がするし、Atticusのイメージが変わってファンはがっかりするかもしれない。
唯一良かったのは、この未熟な小説をあの名作へと高めた名編集者ホホフの指導力を実感できることだ。
渡辺由佳里(アメリカ在住コラムニスト、翻訳家)
『To Kill a Mockingbird』はアメリカだけでなく全世界でベストセラーになったが、ハーパー・リーはその後二度と小説を刊行しなかった。メディアのインタビューにも応じず、公の場を避けるリーには「隠遁者」のイメージがつきまとってきた。
今年初め、リーが55年の沈黙を破って新作を刊行するという噂が流れ始めた。だが、新作ではなく、『To Kill a Mockingbird』の元になった作品だという。これまでリーの弁護士役を務めてきた姉のアリスが健康上の問題で引退し、引き継いだ弁護士が金庫の中に埋もれていた小説を発見したというのだ。リー本人の許可を得てそれをオリジナルのままで刊行することになった。
だが、この作品の発売前には関係者の口は固く、メディアはいくつもの疑問を投げかけていた。これまでリーを守ってきた姉がいなくなってから紛失していた原稿が突然見つかったのは不自然だ。また健康を損ね、視力と聴力が衰えているリーが本当に承諾したのかどうか疑わしい。作品の出来にかかわらず新刊がベストセラーになることは確実だから、それによって利益を得る人々(家族、出版社、エージェントなど)が強く推したのではないか......。さまざまな憶測が流れた。
リーの弁護士、エージェント、友人らがビデオ取材に答えて疑念はやや晴れたが、それでも『To Kill a Mockingbird』の愛読者のもやもや感は消えなかった。
アメリカで発売された新刊『Go Set a Watchman: A Novel』の時代背景は、公民権運動が盛んになっていた1950年代。全米ではトルーマン大統領が軍隊での人種隔離を禁ずるなど進展をみせていたが、南部ではそれに反発するように人種分離政策が進んでいた。『Mockingbird』の幼い少女Scoutは26歳になり、Jean Louiseと呼ばれてニューヨークで暮らしている。ニューヨークから故郷アラバマに帰省し、崇拝する父のAtticusが白人至上主義団体「Citizens' Councils」の会議に出席していることを知って衝撃を受け、衝突するという物語だ。
『To Kill a Mockingbird』そのものが自伝的小説だと言われているが、その元になった新作はさらに自伝的なものを感じさせる。そして、想像以上に小説としての完成度が低い。文章は固く、洗練されていない表現が目立つ。筋書きやテーマに貢献せず「いったい何のためにこの部分を書いたのか?」と首をかしげたくなるような部分も多い。
そういった面では、じつに「初心者の初稿」らしい原稿だ。原稿を読んだ編集者のテイ・ホホフがこの小説をそのまま出版しなかった理由がとてもよくわかる。ホホフが「これよりも、Scoutの子供時代を描いたらどうか?」と提案し、何度も書きなおさせた結果が名作の『To Kill a Mockingbird』なのである。
リーの処女作の問題は、小説として未完成なだけではない。本書の主人公とリーの立場は非常に似通っている。アラバマ出身でニューヨークに住む著者はリベラルな友人たちから故郷の人々を批判され、心を傷めていたに違いない。故郷の白人たちを「外の州の人には見えないだろうが、彼らにもこういう言い分があるのだ。残酷な人種差別者ばかりだと決め付けないでほしい」と擁護したかった気持ちがにじみ出ている。Atticusや亡くなった兄の友人Henryを魅力的に描いた後で、彼らに人種分離政策に賛成する白人の立場を語らせているのはそのためだろう。それに対するJean Louiseの強い非難はニューヨークのリベラルの立場を代表するものであり、問題提起としては興味深い。しかし、小説の終わり方からは白人至上主義者擁護のイメージが抜けず、1950年代後半に書かれたことを考慮すると、やはり出版するべき作品ではなかったと言える。
興味深いのは、リーがAtticusに語らせた南部の白人のセンチメント(心情)が現在とまったく同じだということだ。こんなに時間が経ってもアメリカの人種差別はまだ解決していない。そういう意味でAtticusとHenryの見解は間違っていたことになる。それにもかかわらずこの小説を今になって刊行しようとしたリーの決断には首を傾げずにはいられない。リーに次作を書かせようと支えてきたホホフは、一度として『Watchman』を蘇らせようとはしなかった。1974年に亡くなった彼女が生きていたら、きっと止めたことだろう。
この小説により、『To Kill a Mockingbird』が与えた強いメッセージが濁る気がするし、Atticusのイメージが変わってファンはがっかりするかもしれない。
唯一良かったのは、この未熟な小説をあの名作へと高めた名編集者ホホフの指導力を実感できることだ。
渡辺由佳里(アメリカ在住コラムニスト、翻訳家)