初出誌の『文學界』2月号がプリンストン大学の図書館に来ていましたので、早速読んでみました。キャラクターはよく描かれていますし、ストーリー展開も上手で、何よりも会話については、元来がプロである著者の技量が最大限に発揮されていて大変なクオリティだと思いました。
さて、この『火花』が受賞した「芥川龍之介賞」というのは「純文学作品」に与えられるものです。では、「純文学とはなにか?」ということになりますと、「複数の解釈を許す抽象度の高い作品」、「政治思想や世界観を扱う前衛性または同時代性」、「文章表現における卓越性」といった要素が濃厚な作品ということになると思います。
この『火花』は、「抽象性」と「思想性・同時代性」の要素も入っていますし、「文章表現」に関しては高水準にあることから、大衆小説であるとかエンターテインメント小説というカテゴリには収まり切らないと思います。ですから「芥川賞」で良いと思いました。
では、どこにこの作品の価値、とりわけ文章表現としての価値があるのでしょうか?
まず、この作品は「お笑い芸人」という作者自身の職人仕事に関して、緻密な描写を重ねることで、職業のイメージを活き活きと描写することに成功しています。
これに加えて、あらゆる創造的な表現の仕事が直面する「難しい問題」に向き合って、それを果敢に扱っているばかりか、この「問題」について、ある正解に辿り着いているという評価ができます。
それは、表現において「何が大切なのか?」という問いです。
例えば、主人公の「師匠」である神谷というキャラクターのセリフには次のようなものがあります。ネタバレになってしまいますが、全編の途中の部分ですし、ストーリーには直接関係しないので、あえてご紹介することにしましょう。それは、
平凡かどうかだけで判断すると、非凡アピール大会になり下がってしまわへんか?ほんで、反対に新しいものを端から否定すると、技術アピール大会になり下がってしまわへんか?ほんで両方を上手く混ぜてるものだけをよしとするとバランス大会になり下がってしまわへんか?
というものです。表現者の態度として何が正しいのか、芸術とは何か、そして芸術家の価値は前衛なのか、啓蒙者なのか、技量に長けたプロなのかといった、おそらくは「一番大切な問いかけ」がここではされています。
そして、実はこのモチーフ、つまり「新しさか? 技か? バランスか?」という問いかけは、この『火花』という小説の全体を貫いているばかりか、文章表現においても、この点が常に意識されています。
その結果として、作者の又吉氏は、この「問いには答えはない」というおそらく正解にたどり着きつつも、「答えがないと言い切ることもまた間違いである」という理解、あるいは境地に主人公の視点を通じて、読者が到達するように書き切っているのです。
この「表現というもの」に関する境地に加えて、社会的な視点もちゃんと入っています。これはネタバレになるので申し上げられないのですが、結末にある種の「オチ」が仕掛けてあります。その「オチ」に関して、主人公が「差別」の問題になるのではないかという懸念を、実に丁寧に誠実に議論するという部分があります。
その丁寧な処理の仕方というのは、本作のクオリティを高めているだけでなく、社会的な影響度にふさわしい「ディセンシー(品格)」ということを、この作品はしっかりと意識しているし、同時に自分たち「お笑いの世界」にいるプロたちはしっかりやっているんだという自負を宣言しているようで、小気味いいほどでした。
いずれにしても、これは大変な達成であると思います。どうしてそのような達成が実現したのかというと、それは、この又吉氏という作者が「お笑い芸人」という職人仕事に徹底したプライドを持っていると同時に、観客に対する無限のリスペクトを持ち合わせているからです。
観客へのリスペクトは、本作の場合には読者へのリスペクトであり、読者に対して、いかに誠実に面白く、分かりやすく伝えるかという、物書きに取っては、最も大切な姿勢を、しっかりと貫いているのだと思います。
一つだけ苦言を呈するならば、最初に出てくる「熱海の花火のシーン」の文章にちょっと硬さがあって、言葉のリズムが自然に流れていかない傾向があるように思います。文章が「上手でない」などという批判が出ているのはこの部分のためだと思われます。ただ、そうした「地の文」が余り活き活きしてしまうと、この種の一人称のモノローグの場合は全部が「嘘くさく」なってしまうので、こうした処理にしたのかもしれません。
しかしそれ以降、徐々にダイヤローグが絡んでいくと、全ては自然に流れていくようになりますから、問題視する必要はないと思います。
ところで、この作品ですが、読了直後は、自分の職業である「お笑い」の本質を描いてしまったら、次には何を題材にしたらいいか困るのでは、そんな心配をしたのも事実です。ただ、おそらくそれも杞憂に終わるのではないかと思います。
というのは、本作は確かに「お笑い」という自分自身の職業の世界を描いていますが、作者に取っては「お笑い=話し言葉の芸」から「小説=書き言葉の芸」へのトランジション(移行過程)にある作品なのだと思うからです。いずれ、まったく「お笑い」とは関係のない題材で、この人は書くのだろうし、その時がさらなる飛躍のチャンスになると思います。楽しみな才能だと思います。
さて、この『火花』が受賞した「芥川龍之介賞」というのは「純文学作品」に与えられるものです。では、「純文学とはなにか?」ということになりますと、「複数の解釈を許す抽象度の高い作品」、「政治思想や世界観を扱う前衛性または同時代性」、「文章表現における卓越性」といった要素が濃厚な作品ということになると思います。
この『火花』は、「抽象性」と「思想性・同時代性」の要素も入っていますし、「文章表現」に関しては高水準にあることから、大衆小説であるとかエンターテインメント小説というカテゴリには収まり切らないと思います。ですから「芥川賞」で良いと思いました。
では、どこにこの作品の価値、とりわけ文章表現としての価値があるのでしょうか?
まず、この作品は「お笑い芸人」という作者自身の職人仕事に関して、緻密な描写を重ねることで、職業のイメージを活き活きと描写することに成功しています。
これに加えて、あらゆる創造的な表現の仕事が直面する「難しい問題」に向き合って、それを果敢に扱っているばかりか、この「問題」について、ある正解に辿り着いているという評価ができます。
それは、表現において「何が大切なのか?」という問いです。
例えば、主人公の「師匠」である神谷というキャラクターのセリフには次のようなものがあります。ネタバレになってしまいますが、全編の途中の部分ですし、ストーリーには直接関係しないので、あえてご紹介することにしましょう。それは、
平凡かどうかだけで判断すると、非凡アピール大会になり下がってしまわへんか?ほんで、反対に新しいものを端から否定すると、技術アピール大会になり下がってしまわへんか?ほんで両方を上手く混ぜてるものだけをよしとするとバランス大会になり下がってしまわへんか?
というものです。表現者の態度として何が正しいのか、芸術とは何か、そして芸術家の価値は前衛なのか、啓蒙者なのか、技量に長けたプロなのかといった、おそらくは「一番大切な問いかけ」がここではされています。
そして、実はこのモチーフ、つまり「新しさか? 技か? バランスか?」という問いかけは、この『火花』という小説の全体を貫いているばかりか、文章表現においても、この点が常に意識されています。
その結果として、作者の又吉氏は、この「問いには答えはない」というおそらく正解にたどり着きつつも、「答えがないと言い切ることもまた間違いである」という理解、あるいは境地に主人公の視点を通じて、読者が到達するように書き切っているのです。
この「表現というもの」に関する境地に加えて、社会的な視点もちゃんと入っています。これはネタバレになるので申し上げられないのですが、結末にある種の「オチ」が仕掛けてあります。その「オチ」に関して、主人公が「差別」の問題になるのではないかという懸念を、実に丁寧に誠実に議論するという部分があります。
その丁寧な処理の仕方というのは、本作のクオリティを高めているだけでなく、社会的な影響度にふさわしい「ディセンシー(品格)」ということを、この作品はしっかりと意識しているし、同時に自分たち「お笑いの世界」にいるプロたちはしっかりやっているんだという自負を宣言しているようで、小気味いいほどでした。
いずれにしても、これは大変な達成であると思います。どうしてそのような達成が実現したのかというと、それは、この又吉氏という作者が「お笑い芸人」という職人仕事に徹底したプライドを持っていると同時に、観客に対する無限のリスペクトを持ち合わせているからです。
観客へのリスペクトは、本作の場合には読者へのリスペクトであり、読者に対して、いかに誠実に面白く、分かりやすく伝えるかという、物書きに取っては、最も大切な姿勢を、しっかりと貫いているのだと思います。
一つだけ苦言を呈するならば、最初に出てくる「熱海の花火のシーン」の文章にちょっと硬さがあって、言葉のリズムが自然に流れていかない傾向があるように思います。文章が「上手でない」などという批判が出ているのはこの部分のためだと思われます。ただ、そうした「地の文」が余り活き活きしてしまうと、この種の一人称のモノローグの場合は全部が「嘘くさく」なってしまうので、こうした処理にしたのかもしれません。
しかしそれ以降、徐々にダイヤローグが絡んでいくと、全ては自然に流れていくようになりますから、問題視する必要はないと思います。
ところで、この作品ですが、読了直後は、自分の職業である「お笑い」の本質を描いてしまったら、次には何を題材にしたらいいか困るのでは、そんな心配をしたのも事実です。ただ、おそらくそれも杞憂に終わるのではないかと思います。
というのは、本作は確かに「お笑い」という自分自身の職業の世界を描いていますが、作者に取っては「お笑い=話し言葉の芸」から「小説=書き言葉の芸」へのトランジション(移行過程)にある作品なのだと思うからです。いずれ、まったく「お笑い」とは関係のない題材で、この人は書くのだろうし、その時がさらなる飛躍のチャンスになると思います。楽しみな才能だと思います。