『日本の中でイスラム教を信じる』(佐藤兼永著、文芸春秋)は、きのうからきょうへと続く日常のなかで忘れてしまいがちなことを目の前に突きつけてくれる。国籍がどうであろうと、性別がどうであろうと、考え方がどうであろうと、大半の人間は「わりと普通」だということだ。
著者は14年近くにわたり、日本に暮らすイスラム教徒(ムスリム)の取材を行ってきたというフォトジャーナリスト。そこまで長い時間を費やしたことにまずは驚かされるが、「日本人と宗教」という問題を漠然と意識するようになったのは、2001年のことだったそうだ。その年の5月に富山県内のモスク(イスラム教の礼拝所)から持ち出されたコーランが破り捨てられ、さらにその4ヶ月後には9・11が起きたからである。
そのとき、毎日のようにテロの映像がテレビで流れるなか、それまでほとんどメディアに登場することがなかった在日外国人イスラム教徒たちが判で押したように「イスラム教は平和な宗教です」と訴える姿にむなしさをおぼえ、同時に「私は彼らのことを何も知らない」とも気づかされたのだという。
その気持ちは理解できる。たとえば今年1月のシャルリ・エブド襲撃事件は、イスラム教に対する私たちの無理解を露呈させもしたし、イスラム教の教義に反するはずである「イスラム国」の存在は、「イスラム教=凶悪」という大きな誤解を生むことにもなったのだから。
しかし、それは仕方のないことでもあるだろう。報道では極端な部分ばかりがクローズアップされるし、また実際のところ、イスラム教徒でない限り理解できない問題も多いのだから。たとえば後者についてのいい例は、「最後の審判」だろう。死後に最後の審判が開かれ、人が裁けないもの(「良心」に従ってイスラム教の教えを実践したかどうかなど)も含めた、人間の罪悪が裁かれるという考え方。本書にも、そのことについての日本人イスラム教信者のことばが紹介されている。
「最後の審判のような『概念』について話をすると、ムスリムがどれだけ生き生きと生活しているかが見えないんですよ。概念についての関心だけが先行するから、イスラム教が『異常な洗脳宗教』みたいに思われちゃう」(199ページより)
事実、イスラム教を「異常な洗脳宗教」、もしくはそれに近い存在として捉えていた人は少なくないだろう。かくいう私だって、偉そうなことをいえた義理ではない。偏見はきっとあったし、だから「どう接したらいいのか」で悩んだこともある。
しかし個人的には本書について、だからこそ読む価値があったと感じている。なぜならここに描かれている在日イスラム教徒(日本人も含む)の価値観やライフスタイルは、これまで彼らに対して抱いていたイメージとはだいぶ違うからだ。
たとえば、ともすれば私たちはイスラム教徒のことを「厳しい戒律に縛られた人たち」であるように思いがちだが、実際には信仰の度合いも礼拝の仕方も、食べものや酒についての考え方も人それぞれ。もっといってしまえば、「思っていた以上にアバウト」だったりもする。
特に印象的だったのは、イスラム教徒の子どもたちの意見だ。なかでも福岡県の高校と中学校にそれぞれ通う、優平くんというお兄ちゃん、そして怜和ちゃんという妹の話には、ずいぶん納得させられた。
「たまに先生が、ちょっと間違ったことを言ったりする。『イスラム教は厳しい』とか。そういうときは『厳しいと思うか、そうでないかは、人それぞれだよねー。場所にもよるし』とか思う」(117ページより)
これに続くふたりのやりとりは、ちょっと痛快ですらある。
怜和ちゃんの話を受けて、優平くんがお祈りの所要時間について指摘した。「一日五回のお祈りも、それぞれたった五分じゃないですか。合計しても一日三〇分もかからない」
怜和ちゃんも同感だ。「二四時間ある中での、たった五分。そう考えたら、『それくらい神様に時間やってもいいんじゃねえのー』っていう感じですね」(117~118ページより)
ちなみに優平くんはインドネシア生まれなのに、イランや中東付近のことを質問されることがあるという。私たちはそんなエピソードからも、自身の内部にある誤解や偏見を認めるべきだろう。だが、その一方には、「ボーン・ムスリム(イスラム教徒として育てられた信者)」の問題もある。外国人のボーン・ムスリムのなかには、イスラム教の正確な知識を持たない人も多いのだそうだ。
だとすればなおさら、イスラム教徒と非イスラム教徒が、誤解のない状態を共有することは不可能に近い。でも、果たしてそこまで理解しなければならないのだろうか? 本書を読んでそう感じた。
日本人のなかにだってイスラム教徒も、仏教徒も、キリスト教徒もいる。そもそも大半は無宗教だ。そして冒頭で触れたとおり、異端に見えるイスラム教徒も、意外に普通だったりする。日本人同士だって相容れない相手はいるし、イスラム教徒だってそれは同じ。
ニュースには現れないイスラム教徒も存在する(中略)。私たちと同じように、「普通に」日本で生活している彼らの声は、私たちの耳にはほとんど届かない。(34ページより)
つまり、当たり前だが、お互いに普通の人間なのだ。だから、理解できたりできなかったりするのだ。そんな当たり前すぎることを、本書は再確認させてくれるのである。
『日本の中でイスラム教を信じる』
佐藤兼永 著
文芸春秋
印南敦史
著者は14年近くにわたり、日本に暮らすイスラム教徒(ムスリム)の取材を行ってきたというフォトジャーナリスト。そこまで長い時間を費やしたことにまずは驚かされるが、「日本人と宗教」という問題を漠然と意識するようになったのは、2001年のことだったそうだ。その年の5月に富山県内のモスク(イスラム教の礼拝所)から持ち出されたコーランが破り捨てられ、さらにその4ヶ月後には9・11が起きたからである。
そのとき、毎日のようにテロの映像がテレビで流れるなか、それまでほとんどメディアに登場することがなかった在日外国人イスラム教徒たちが判で押したように「イスラム教は平和な宗教です」と訴える姿にむなしさをおぼえ、同時に「私は彼らのことを何も知らない」とも気づかされたのだという。
その気持ちは理解できる。たとえば今年1月のシャルリ・エブド襲撃事件は、イスラム教に対する私たちの無理解を露呈させもしたし、イスラム教の教義に反するはずである「イスラム国」の存在は、「イスラム教=凶悪」という大きな誤解を生むことにもなったのだから。
しかし、それは仕方のないことでもあるだろう。報道では極端な部分ばかりがクローズアップされるし、また実際のところ、イスラム教徒でない限り理解できない問題も多いのだから。たとえば後者についてのいい例は、「最後の審判」だろう。死後に最後の審判が開かれ、人が裁けないもの(「良心」に従ってイスラム教の教えを実践したかどうかなど)も含めた、人間の罪悪が裁かれるという考え方。本書にも、そのことについての日本人イスラム教信者のことばが紹介されている。
「最後の審判のような『概念』について話をすると、ムスリムがどれだけ生き生きと生活しているかが見えないんですよ。概念についての関心だけが先行するから、イスラム教が『異常な洗脳宗教』みたいに思われちゃう」(199ページより)
事実、イスラム教を「異常な洗脳宗教」、もしくはそれに近い存在として捉えていた人は少なくないだろう。かくいう私だって、偉そうなことをいえた義理ではない。偏見はきっとあったし、だから「どう接したらいいのか」で悩んだこともある。
しかし個人的には本書について、だからこそ読む価値があったと感じている。なぜならここに描かれている在日イスラム教徒(日本人も含む)の価値観やライフスタイルは、これまで彼らに対して抱いていたイメージとはだいぶ違うからだ。
たとえば、ともすれば私たちはイスラム教徒のことを「厳しい戒律に縛られた人たち」であるように思いがちだが、実際には信仰の度合いも礼拝の仕方も、食べものや酒についての考え方も人それぞれ。もっといってしまえば、「思っていた以上にアバウト」だったりもする。
特に印象的だったのは、イスラム教徒の子どもたちの意見だ。なかでも福岡県の高校と中学校にそれぞれ通う、優平くんというお兄ちゃん、そして怜和ちゃんという妹の話には、ずいぶん納得させられた。
「たまに先生が、ちょっと間違ったことを言ったりする。『イスラム教は厳しい』とか。そういうときは『厳しいと思うか、そうでないかは、人それぞれだよねー。場所にもよるし』とか思う」(117ページより)
これに続くふたりのやりとりは、ちょっと痛快ですらある。
怜和ちゃんの話を受けて、優平くんがお祈りの所要時間について指摘した。「一日五回のお祈りも、それぞれたった五分じゃないですか。合計しても一日三〇分もかからない」
怜和ちゃんも同感だ。「二四時間ある中での、たった五分。そう考えたら、『それくらい神様に時間やってもいいんじゃねえのー』っていう感じですね」(117~118ページより)
ちなみに優平くんはインドネシア生まれなのに、イランや中東付近のことを質問されることがあるという。私たちはそんなエピソードからも、自身の内部にある誤解や偏見を認めるべきだろう。だが、その一方には、「ボーン・ムスリム(イスラム教徒として育てられた信者)」の問題もある。外国人のボーン・ムスリムのなかには、イスラム教の正確な知識を持たない人も多いのだそうだ。
だとすればなおさら、イスラム教徒と非イスラム教徒が、誤解のない状態を共有することは不可能に近い。でも、果たしてそこまで理解しなければならないのだろうか? 本書を読んでそう感じた。
日本人のなかにだってイスラム教徒も、仏教徒も、キリスト教徒もいる。そもそも大半は無宗教だ。そして冒頭で触れたとおり、異端に見えるイスラム教徒も、意外に普通だったりする。日本人同士だって相容れない相手はいるし、イスラム教徒だってそれは同じ。
ニュースには現れないイスラム教徒も存在する(中略)。私たちと同じように、「普通に」日本で生活している彼らの声は、私たちの耳にはほとんど届かない。(34ページより)
つまり、当たり前だが、お互いに普通の人間なのだ。だから、理解できたりできなかったりするのだ。そんな当たり前すぎることを、本書は再確認させてくれるのである。
『日本の中でイスラム教を信じる』
佐藤兼永 著
文芸春秋
印南敦史