*連載第5回「日本経済の真の課題」前半はこちら→
日本経済の問題はデフレではない。物価の下落ではない。そしてまた、需要不足でもない。
デフレという言葉を物価の下落という本来の意味から、不景気、需要不足を示すように誤用が広がり定着してしまっているが、この需要不足も、日本経済の問題ではない。そして、景気は良い。現在、景気が良すぎるのが問題なのだ。
景気が良くなると、経済は悪くなる。
これは誤植ではない。そして、経済学の教科書にも書いてある。景気が良くなりすぎると、ロスが大きくなり、経済の長期的な成長を阻害することになるのだ。
潜在成長率という言葉がある。これは、内閣府と日本銀行で推計の仕方が異なるようにいつくかの定義があるが、要は、日本経済が実力を発揮した場合の長期的に持続可能な経済成長率のことだ。実力とは、経済に存在する資本と労働が100%活用された場合の経済である。
この潜在成長率は、GDPの増加率で測る。一般にはGDPの増加率を経済成長率と呼んでいる。現在の日本経済のGDP増加率はプラス、一時期は2%を超えていた。一方、潜在成長率は0%台と日銀は試算している。つまり、足元の経済成長率は潜在成長率を上回っているのだ。
そんなことがあり得るのか。実力を上回る成長率が実現できるのか。そういう疑問が沸くだろう。それは正しい。現在は実力以上の消費をしていることを示しており、これは持続可能でない。
働き過ぎは経済にマイナス
つまり、労働と資本が100%以上に使われている。これは経済を壊す。景気がいいのだからいいのではないか?そういう疑問が沸くだろう。しかし、冒頭に書いたように、良すぎる景気は経済を悪くするのだ。
まず、働き過ぎは良くない。ワークライフバランスが崩れて不幸になることはここでは別にすると、労働を目先の仕事に投入しすぎると、経済が成長しなくなるのである。つまり、働く時間はすべて目先の儲けのために使われる。今売れている商品をとことん売るために使われる。そうなると、次の商品開発への研究の時間がなくなる。今の商品のブームが終わったら、子供だましの土産物を買い漁る外国人観光客がいなくなったら、あるいは彼らがそれを十分に買ってしまえば、次ぎに売るモノがない。経済は一気に落ち込む。
資本も同じだ。今の需要を掴むために、増産設備に投資する。しかし、このブームが終わってしまえば、その設備は無駄になる。足元の売上げで投資がペイすれば損はしないのだが、次の製品への設備投資、製品開発投資が手薄になって、ライバルの後塵を拝することになる。例えば、半導体は、今売れる半導体を作りすぎれば、その設備投資には莫大な費用がかかるため、次世代への投資ができなくなり、次はライバルのサムソンに負けてしまう。半導体以外でも、すべての製品、サービスにこのことは言える。
つまり、経済は生産と投資で成り立っており、生産しすぎれば、将来への投資がおろそかになり、両方を無限に同時に拡大することはできないのだ。カネには限りがある。
人にはもっと限りがあり、しかも、日本は人手不足であり、これは構造的に続く。その希少な労働力、特に若年労働力を目先の営業にこき使えば、彼らが将来への勉強となる仕事の経験が積めず、今は企業が儲かり、ボーナスが出るかもしれないが、将来の雇用の持続性が危うくなる。あるいは付加価値の高い仕事ができなくなり、給料が上がらなくなる。最悪の場合は、ブラック企業が働かせすぎて、肉体的にも精神的も壊れてしまい、一生、労働力としても使えなくなるどころか、人間として不幸になる。
したがって、景気はちょうど良い景気が重要なのであり、景気循環だから良くもなり悪くも成る。その循環の振幅が大きすぎると経済が不安定になり、前述のような投資も落ち着いてできなくなるから、なだらかにした方がいい。これが景気対策である。金融政策というのは、このように景気が過熱したときに、過熱しすぎて投資できなくなったり、物価が上がりすぎたりして、経済が買えって非効率になるのを防ぐために、引き締めを行うのである。近年のように、常に景気を拡大するのは、景気対策ではない。
「デフレ脱却」は呪いの呪文
では、なぜ、近年、景気対策が行われ続けたのだろうか。それは、潜在成長率という実力が落ちてきたにもかかわらず、それを認識せず、あるいは認識しても、それを受け入れられず、目先のGDPの増加を求めてきたからである。政治家もエコノミストもGDPの増大は是であり、その増加率が落ちてきたことに対して、それを引き上げることが経済の最優先課題であると思い込んで(株式市場関係者など一部の人々は確信犯的に)、経済の将来性を失う過度な景気対策を行ってきたのである。
あるいは、もう少し同情的に言えば、潜在成長率が落ちているという事実を認めたくなくて、無理矢理足元のGDP増加率を上げることで、何か勢いで流れが変わるようなことを祈って、あるいは呪文を唱えてきたのかもしれない。
アベノミクスのデフレ脱却の呪文は、株式市場の悲観を打破するにはプラスの効果を発揮したが、潜在成長率の引き上げの為には、むしろ、負の呪文だった。呪いの言葉として、デフレ脱却を唱えれば唱えるほど、経済の将来性、潜在成長力は失われていったのである。
これはアベノミクス前の失われた10年あるいは20年と言われる現象ももたらしたが、アベノミクスにおいて、より呪文は強力になった。人々は潜在成長率の低下に目をつぶり、あるいは呪文により目をそらされ、せっせと目の前の需要、株価高騰による消費バブル需要、住宅投資前倒しによる一時的な需要、極端な円安による観光、お土産、海外投資家、消費者の需要を取り込むことに必至になり、熱狂し、それにより、ただでさえ、人口減少、労働力減少により、生産力が落ちてきており、それは将来的にさらに深刻になるにもかかわらず、将来への人への投資を怠り、そのエネルギーを目先の需要獲得に浪費してしまったのである。
皮肉なことに、潜在成長率が低下したことを補うための景気対策と目先の需要の獲得こそが、まさに潜在成長率をさらに下げることになっているのであり、デフレ脱却という呪文はまさに日本経済への呪いとして効果を発揮したのである。
我々がやるべきことは、財政出動も金融緩和も止め、将来の人への投資に多くのエネルギーと資源とカネを投入することである。それは、まず教育投資であり、生産、雇用においても、将来への投資が優先されるべきなのである。
さらに悪いことに、円安が進行したが、これは目先の観光、海外消費者の需要を生み出すだけで、日本のモノをドルベースでは40%の大安売りをして、バーゲンセールを行ったことにより生まれたモノであり、40%バーゲンは我々の不動産などの資産についても同時に起こっており、長期的には、海外の資源や企業や資産を買う力を40%削減したことになる。つまり、目先の爆買需要のために、我々の資産は40%失われたのである。したがって、日本には円高が必要なのである。
日本経済の問題はデフレではない。物価の下落ではない。そしてまた、需要不足でもない。
デフレという言葉を物価の下落という本来の意味から、不景気、需要不足を示すように誤用が広がり定着してしまっているが、この需要不足も、日本経済の問題ではない。そして、景気は良い。現在、景気が良すぎるのが問題なのだ。
景気が良くなると、経済は悪くなる。
これは誤植ではない。そして、経済学の教科書にも書いてある。景気が良くなりすぎると、ロスが大きくなり、経済の長期的な成長を阻害することになるのだ。
潜在成長率という言葉がある。これは、内閣府と日本銀行で推計の仕方が異なるようにいつくかの定義があるが、要は、日本経済が実力を発揮した場合の長期的に持続可能な経済成長率のことだ。実力とは、経済に存在する資本と労働が100%活用された場合の経済である。
この潜在成長率は、GDPの増加率で測る。一般にはGDPの増加率を経済成長率と呼んでいる。現在の日本経済のGDP増加率はプラス、一時期は2%を超えていた。一方、潜在成長率は0%台と日銀は試算している。つまり、足元の経済成長率は潜在成長率を上回っているのだ。
そんなことがあり得るのか。実力を上回る成長率が実現できるのか。そういう疑問が沸くだろう。それは正しい。現在は実力以上の消費をしていることを示しており、これは持続可能でない。
働き過ぎは経済にマイナス
つまり、労働と資本が100%以上に使われている。これは経済を壊す。景気がいいのだからいいのではないか?そういう疑問が沸くだろう。しかし、冒頭に書いたように、良すぎる景気は経済を悪くするのだ。
まず、働き過ぎは良くない。ワークライフバランスが崩れて不幸になることはここでは別にすると、労働を目先の仕事に投入しすぎると、経済が成長しなくなるのである。つまり、働く時間はすべて目先の儲けのために使われる。今売れている商品をとことん売るために使われる。そうなると、次の商品開発への研究の時間がなくなる。今の商品のブームが終わったら、子供だましの土産物を買い漁る外国人観光客がいなくなったら、あるいは彼らがそれを十分に買ってしまえば、次ぎに売るモノがない。経済は一気に落ち込む。
資本も同じだ。今の需要を掴むために、増産設備に投資する。しかし、このブームが終わってしまえば、その設備は無駄になる。足元の売上げで投資がペイすれば損はしないのだが、次の製品への設備投資、製品開発投資が手薄になって、ライバルの後塵を拝することになる。例えば、半導体は、今売れる半導体を作りすぎれば、その設備投資には莫大な費用がかかるため、次世代への投資ができなくなり、次はライバルのサムソンに負けてしまう。半導体以外でも、すべての製品、サービスにこのことは言える。
つまり、経済は生産と投資で成り立っており、生産しすぎれば、将来への投資がおろそかになり、両方を無限に同時に拡大することはできないのだ。カネには限りがある。
人にはもっと限りがあり、しかも、日本は人手不足であり、これは構造的に続く。その希少な労働力、特に若年労働力を目先の営業にこき使えば、彼らが将来への勉強となる仕事の経験が積めず、今は企業が儲かり、ボーナスが出るかもしれないが、将来の雇用の持続性が危うくなる。あるいは付加価値の高い仕事ができなくなり、給料が上がらなくなる。最悪の場合は、ブラック企業が働かせすぎて、肉体的にも精神的も壊れてしまい、一生、労働力としても使えなくなるどころか、人間として不幸になる。
したがって、景気はちょうど良い景気が重要なのであり、景気循環だから良くもなり悪くも成る。その循環の振幅が大きすぎると経済が不安定になり、前述のような投資も落ち着いてできなくなるから、なだらかにした方がいい。これが景気対策である。金融政策というのは、このように景気が過熱したときに、過熱しすぎて投資できなくなったり、物価が上がりすぎたりして、経済が買えって非効率になるのを防ぐために、引き締めを行うのである。近年のように、常に景気を拡大するのは、景気対策ではない。
「デフレ脱却」は呪いの呪文
では、なぜ、近年、景気対策が行われ続けたのだろうか。それは、潜在成長率という実力が落ちてきたにもかかわらず、それを認識せず、あるいは認識しても、それを受け入れられず、目先のGDPの増加を求めてきたからである。政治家もエコノミストもGDPの増大は是であり、その増加率が落ちてきたことに対して、それを引き上げることが経済の最優先課題であると思い込んで(株式市場関係者など一部の人々は確信犯的に)、経済の将来性を失う過度な景気対策を行ってきたのである。
あるいは、もう少し同情的に言えば、潜在成長率が落ちているという事実を認めたくなくて、無理矢理足元のGDP増加率を上げることで、何か勢いで流れが変わるようなことを祈って、あるいは呪文を唱えてきたのかもしれない。
アベノミクスのデフレ脱却の呪文は、株式市場の悲観を打破するにはプラスの効果を発揮したが、潜在成長率の引き上げの為には、むしろ、負の呪文だった。呪いの言葉として、デフレ脱却を唱えれば唱えるほど、経済の将来性、潜在成長力は失われていったのである。
これはアベノミクス前の失われた10年あるいは20年と言われる現象ももたらしたが、アベノミクスにおいて、より呪文は強力になった。人々は潜在成長率の低下に目をつぶり、あるいは呪文により目をそらされ、せっせと目の前の需要、株価高騰による消費バブル需要、住宅投資前倒しによる一時的な需要、極端な円安による観光、お土産、海外投資家、消費者の需要を取り込むことに必至になり、熱狂し、それにより、ただでさえ、人口減少、労働力減少により、生産力が落ちてきており、それは将来的にさらに深刻になるにもかかわらず、将来への人への投資を怠り、そのエネルギーを目先の需要獲得に浪費してしまったのである。
皮肉なことに、潜在成長率が低下したことを補うための景気対策と目先の需要の獲得こそが、まさに潜在成長率をさらに下げることになっているのであり、デフレ脱却という呪文はまさに日本経済への呪いとして効果を発揮したのである。
我々がやるべきことは、財政出動も金融緩和も止め、将来の人への投資に多くのエネルギーと資源とカネを投入することである。それは、まず教育投資であり、生産、雇用においても、将来への投資が優先されるべきなのである。
さらに悪いことに、円安が進行したが、これは目先の観光、海外消費者の需要を生み出すだけで、日本のモノをドルベースでは40%の大安売りをして、バーゲンセールを行ったことにより生まれたモノであり、40%バーゲンは我々の不動産などの資産についても同時に起こっており、長期的には、海外の資源や企業や資産を買う力を40%削減したことになる。つまり、目先の爆買需要のために、我々の資産は40%失われたのである。したがって、日本には円高が必要なのである。