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「宿題代行サービス」はどうしてダメなのか? - 冷泉彰彦 プリンストン発 日本/アメリカ 新時代

ニューズウィーク日本版 2015年7月30日 16時15分

 小学校が夏休みのシーズンに入るとともに、今年も「宿題代行サービス」の是非論争が始まっています。日本の小学校の「定番」である自由研究や作文の宿題を有料で請け負うというものです。価格の相場としては、

・(自由研究・工作など)1件で5000~1万円
・(作文・読書感想文など)400字詰め原稿用紙1枚3000~5000円
・(国語・算数のドリルなど)1冊5000~1万円

 といったところです。400字の作文が5000円などというのは、プロのライターの相場としても悪くない水準ですが、「子供らしく書く手間」があるのでこんな値段になるようです。一方で、ドリルの値段がそんなに高くないのは、何らかの方法で模範解答を入手して対応しているからでしょう。

 こうした代行サービスに関して、古典的な教育論からの反対、つまり「宿題は自分で取り組むこと自体に教育的な意義がある」という意見に対して、一部には「代行サービスを頼むのは、中学受験の準備で塾通いなどに忙しいから」という擁護論もあるようです。

 私はやはり、こうした風潮には問題があると思います。3つ理由を述べたいと思います。

 まず、これは親と子供が業者と共謀して「教師をだます」行為だということです。「だます」というと言葉として甘いかもしれません。要するに学習上の不正行為です。全世界の大学や高校では、「宿題を人に頼む」というのは、「ネットの公開情報をコピーして提出する」のと同等の不正行為として認識されています。基本的にそのペナルティは退学もしくは停学という厳しいものです。そのような不正行為を10歳や11歳で経験させるというのは、大変に問題です。

 一方で「不正行為だからダメ」という説明では、力で押さえ込むような印象を与えるかもしれませんので、もう少し角度を変えて考えてみることにします。この「代行に頼む」という行為は、宿題は「自分でやるべき」という「タテマエ」と、塾で入試対策に取り組まないと有名中学に合格できないから宿題は「お金で処理する」という「ホンネ」の二重構造を、10歳とか11歳の子どもたちに経験させることだとも言えます。

 現代の10歳、11歳は、そのような二重構造を実際に理解してしまうと思うのですが、果たして「小学生の段階で、ホンネとタテマエの乖離」を体験し、理解させることが「そのような二重構造を含む複雑な現代社会」において、問題点を指摘して解決していく能力を養うことになるのか、大変に疑問だと思います。

 むしろ、前思春期の段階では、単純な原理原則を教えておいて、複雑な現代社会の実相に関しては、思春期の「世界観獲得」のプロセスで批判的な観点を出発点として理解させるようにした方が、最終的に抽象的な原則と、複雑な事実の間を自由に行ったり来たりするスキルを体得させるにはベターだと思います。妙に「すれた」子供を大量生産しても、結果的に「粉飾決算に加担するのがサバイバル」的な、能吏という名の「その他大勢」を生み出すだけなのではないでしょうか?

 もう1つの理由は、教師の権威を破壊するということです。「代行業者にやってもらった」宿題をそのまま受け取って、お人好しにも丸をつけたりコメントをつけたりして返すというのも問題ですが、教師として「怪しい」と気がついても親のクレームを考えて「事なかれ主義」で流すしかないかもしれません。ただでさえ、雑務とクレーム処理に追われる教育現場では、この「代行」問題に正面から立ち向かう余力はないとも言えます。こうしたビジネスを社会的に「認めない」ことで、教育現場への援護射撃を送るべきだと思います。

 一方で、夏休みの宿題自体が形骸化しているという面はあると思います。例えば、読書感想文の宿題がそうです。日本の学校教育における読書感想文というのは、「題材を批判してはいけない」というルール、そして「子供らしい語彙と表現を逸脱してはいけない」というルールがあって、その中で洗練度を競うゲームになっています。

 これでは、真に知的な思考の萌芽を抱えた子供は、バカバカしくて取り組む気にもならないでしょう。読書へのレスポンスというのは批評であり、大人の書評エッセイを原型に、知的批判精神を鍛えるようなフォーマットにあらためるべきだと思います。

 自由研究や工作についても、総合学習のカリキュラムとのリンクで、必要なスキルを入れた上で、客観的な達成度を要求するようには「なっていません」。そうした工夫はされないまま、昔からの惰性で宿題として出しているだけという場合も多いと思います。一律にドリルを渡して「1冊やりなさい」などというのも、形骸化としか言いようがありません。

 宿題代行サービスの流行は、中学受験という制度の問題、学校現場における教師と生徒の関係の難しさ、そして学校教育における「夏休みの宿題」の制度疲労といった問題を二重三重に映し出しています。社会として、このような風潮を認めてはいけないと思います。

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