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人間に焦点を当てたサントリー"社史"に心をつかまれる

ニューズウィーク日本版 2015年8月7日 19時45分

『佐治敬三と開高健 最強のふたり』(北 康利著、講談社)について、著者は「あとがき」にこう記している。


 最初は「佐治敬三伝」を書くつもりだった。だが彼の繊細さや人間臭さを物語るエピソードを集めていくうち、合わせ鏡のような人物が浮かび上がってきた。それが開高健だった。(463ページより)



 たしかにそのとおりで、全体的な体裁は佐治敬三と、彼の人生のすべてであったサントリーについての「人間」に焦点を当てた社史だともいえる。少し前に話題になったNHKの連続テレビ小説『マッサン』にも描かれていた竹鶴政孝についてのエピソードも含め、読者の好奇心を刺激して余りあるトピックスが充満している。

 だが、佐治を軸として同社の歴史を振り返るなら、どうしても無視できないのが開高の存在なのだ。佐治、開高、そして山口瞳ら「寿屋(サントリーの前身)宣伝部」の面々が真剣に、破天荒に仕事に取り組んでいたさまが、ここにはヴィヴィッドに描かれている。


 あの時代はみんな気が違ってた。(中略)一日一日が楽しかったねえ。朝から晩まで働いて、後は酒飲むだけだったから。
 みんなが「狂」の時代でした。何かに取り憑かれるように仕事していた。だが、誰かに怒られるから仕事しようというのでなく、さりとてやらねばならないと目を吊り上げたわけでもない。周りの「狂」の気分に同化してしまっていつの間にか働いていたんだ。(451ページより)



 佐治は上記の発言のあと「開高も山口も先に死にやがって、ほんまに。やっぱり涙ですよ」と続けているが、それは偽らざる本心であったはずだ。その証拠に、開高の告別式で佐治は「語り合える畏友であった」と亡き友について語り、感情を抑え切れずに号泣している。佐治と開高の信頼関係が形成されていく過程は第三章「寿屋宣伝部とトリスバーの時代」から脈々と綴られているので、読者はこのページにたどりついたとき、ぐっと心をつかまれるだろう。

 だが個人的には、もうひとつ強く心に残った部分がある。開高を作家へと導いた谷沢永一を介して知り合った、牧羊子についての記述だ。


 頭の回転の速い女性だった。難解な言葉を多用して形而上の理路を並べるのは天才的だ。"つまり"を連発しながら議論を展開し、熱するとしばしば机を叩きはじめる。そんな姿に同人たちは圧倒され、うやうやしく"カルメン"というあだ名を奉った。(246ページより)



 当時、寿屋の研究課に勤務していた牧は、ご存じのとおり開高の伴侶となる女性だ。開高ファンの間ではあまり評判がよくなく、本書の第五章「悠々として急げ」においても、その悪妻ぶりはクローズアップされている。

 なにしろ、食道がんであることを知らされないまま入院中だった開高に対し、自分がつくってきた高麗人参スープを飲もうとしなかったことから感情を爆発させ、「あんた病院にだまされてるんや。これ飲まな、がん治りゃせんで!」といい放ってしまったり(それは鬱を抱えた開高にとって、大きなダメージとなった)、佐治に対しても「サントリーのおかげで食道がんになったようなもんや!」といってのけた人だ。

 しかし牧はそれ以前、つまり開高が職にあぶれていたころ、学生にして父親になってしまった夫をなんとかしようと尽力してもいる。


 開高が生活難で苦しんでいるころ、(中略)寿屋に戻っていた牧が愁訴してきた。
「ミルク代が足りまへんねん。何とかなりまへんやろか」
 夫の開高に、何かバイト仕事はないかというのである。(252ページより)




 敬三は以前、牧が一冊の同人誌をもってきて、
「この雑誌の編集後記を書いている男と、私結婚しましてん」
とうれしそうに報告してきたことを思い出した。
「ほんならあんたの旦那に宣伝文を書いてもらおか。場合によっては、あんたとトレードしようやないか」
 敬三はそんな冗談口を叩きながら、ためしにラジオCMの原稿を依頼することにした。(253ページより)



 いうまでもなく、「寿屋の開高健」の誕生前夜である。つまりこの描写を見ても、牧が「縁の下の力持ち」であったことは否定できないのだ。たしかに「私が開高を養ってきた」という自我は大きすぎ、それが作家を苦しめることになったのも事実だ。それどころか、開高の死後には娘の道子が自殺し、牧本人も謎の死を遂げるのだから結末は悲しすぎる。

 しかし、だからといって「牧=悪妻」と決めつけられない些細な理由が私のなかにはある。

 1972年の夏、ちょうどいまくらいの時期に我が家を訪れる客があった。母が玄関を開けると、そこに立っていたのは大きなシャクヤクの花束を抱えた牧羊子だった。

 小学4年生だった私は、その年の春に交通事故に遭って「3週間意識不明」というどん詰まりの状態からマンガのように回復し、数ヶ月ぶりに退院したばかりだった。亡父は開高とも交流を持つ編集者だったので、牧は快気祝いに訪れてくれたのだった。

 もちろん、子どもだった私にとっては「ただの知らないおばさん」だったから、曖昧な笑みを浮かべていることしかできなかったが、笑顔で「よろしゅおましたな」と声をかけていただいたことはおぼえている。そんな経験があるからこそ、本書に描かれた「知らないおばさん」の悪妻ぶりは私を混乱させもしたのだ。どこか意外で、どこか納得できるような気もして......。

 しかも本書を読むと、この「72年の夏」が、開高と牧との関係を考えるうえで無視できない時期だったことがわかる。


 結局、開高は「新潮社クラブ」に出たり入ったりを何度か繰り返し、ようやく『夏の闇』を書き上げた。昭和四十六年(一九七一)十月、『新潮』に発表され、翌年三月に単行本として発刊される。(中略)開高文学の中の最高峰との呼び声が高い。そして『輝ける闇』以上に内面に寄りかかって書いた作品だった。(317ページより)



「内面に寄りかかって書いた」部分のひとつが、そこに描写された"実在の女"との関係だ。それを知った牧が激昂したことは、本書にもはっきりと記されている。しかし、牧が我が家を訪れたのは、まさにその渦中にあった時期だということになるのだ。この出来事には、トラブルの渦中にいながらも周囲に対する気遣いを忘れなかった牧の一面が表れているとはいえないだろうか?

 個人的にそんな体験をしていることもあり、「『悪妻だった』と片づけてしまえるほど簡単な問題でもなかったのではないだろうか?」という思いもまた否めないのである。


『佐治敬三と開高健 最強のふたり』
 北 康利 著
 講談社



印南敦史(書評家、ライター)

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