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戦時下「外国人抑留所」日記

ニューズウィーク日本版 2015年8月10日 12時10分

 日本人にとって戦争中の民間人抑留といえば、第二次大戦中のアメリカで起きた日本人移民・日系アメリカ人に対する強制の立ち退きとキャンプ収容だろう。12万人がそれまで築いた財産を事実上奪われ、全米各地に設置された11の強制収容所に追い立てられたのは、アメリカにとって拭い難い負の歴史だ。

 しかし戦争が起きた後、国内に住むそれまで隣人だった民間外国人を敵国人として収容したのはアメリカだけではない。日本でも1941年12月8日の太平洋戦争開戦と同時に、国内に住んでいた連合国側の民間外国人342人が、国内に設けられた34カ所の抑留施設に強制収容された。

 アメリカで抑留された当時の日系人は単純労働者が多かったが、開戦直前に日本に住んでいた外国人の多くは貿易、金融、教育、キリスト教の布教活動などに携わる知識人がほとんどだった。終戦までの3年8カ月余り。自由を束縛され、物資が不足する劣悪な環境で、彼らは刻々と悪化する戦況に耳をそば立てながら、自らを抑圧する日本人への怒りと、空襲によって死の淵に追いやられる日本人への同情という矛盾した感情を抱き続けた。

 その1人だったのが、イギリス国籍の医学生だったシディンハム・デュアだ。1919年に宝石輸入商だったイギリス人の父と日本人の母との間に生まれた彼は、横浜に住み、医師を目指して東京慈恵医科大学に通う22歳の学生だった。しかし日米開戦の日に父とともに警察に抑留され、横浜市内にあった抑留所に収容された。

シディンハム・デュア(第二次大戦後)=出羽康子氏所蔵

 その後、抑留所は防諜上の理由から43年6月に静岡県境に近い足柄山の山麓に移転。二度の日米交換船や病気による抑留解除で最初は93人いた抑留所のメンバーが43年秋には49人にまで減り、語り合うべき友がいなくなったデュアは44年10月から終戦まで、揺れる自分の心情と抑留所の暮らし、自由を奪われた外国人たちの様子を日記につづった。

シディンハム・デュアの抑留日記(全4冊)=出羽康子氏所蔵

1945年7月16日、17日の記述。日本語と英語で1日おきに書かれている(絵は友人が描いた)=出羽康子氏所蔵

 日記は1日おきに日本語と英語で書かれている。当時の横浜の外国人社会に暮らす外国人は日本語が不十分な人が多かったが、デュアは日本人の母親の方針で徹底して日本語を鍛えられたため、日本語の読み書きにまったく不自由しなかった。戦時中の外国人抑留の研究を続け、日記を遺族とともに編集した小宮まゆみ氏によれば、「抑留生活の中で英語と日本語の能力を維持するための工夫」だと考えられる。

 日記の最大の特徴は、日本人とイギリス人のどちらの心情も理解できるデュアの目を通して、知られざる戦時下の抑留生活が冷静に書きとめられている点にある。そこで描かれているのは、日本人と抑留された外国人の「文明の衝突」。そして日本人であるか、外国人であるかを問わない人間性の本質だ。



「すばらしい秋晴れ、ちょっと肌寒い」

 1944年10月22日、日記の第一日はこんな一文から始まっている。デュアが日記を書き続けた10カ月間は日本にとって戦局が悪化し、本土の主要都市への空襲が続いた時期だった。足柄山のふもとの抑留所でも物資・食糧不足が深刻化し、十分な医療を受けられず抑留者5人が死亡した。

 物資や食糧の不足がもたらすストレスは、抑留所を管理する警察官や同じく収容されている外国人メンバーへの不満となって噴き出す。

「薪不足でもう一週間も風呂がない。それなのに警察のやつらはいつでも好きな時に入っている。バカバカしいではないか、僕らは毎日、一日中ただ働きさせられ埃まみれだと言うのに風呂もない」(10月24日、英文)

「日曜日には大概警備員が附いていないから中にはなまけて嫌な仕事をしないで楽な事ばかりしている奴がいる。ジョン・ゴメスやビル・ブレイミ等若いのはよく働くが三十以上になると饒舌で口ばかりうまくてずるい」(10月29日、日本語)

 本来は味方同士である外国人抑留者も、長期化する抑留のストレスから険悪になる。デュアは仲間への不満、そして将来への不安と焦りを素直に日記に書く。

「ああ憂鬱だ。......将来への望みも野心もなくなった。好きな科学の書物も一寸も読まない。これでは科学の焔も消えてしまうかもしれない。結局学校に帰れないのではなかろうか。もう三カ月で満二十六歳だ」(10月31日、日本語)

 強制された不自由な生活の中での唯一の楽しみは食事だが、戦局悪化で外国人たちは飢えに直面する日々が続いた。わずかな配給の食糧を補う赤十字の支援もあったが、警察官やコックの横領が日常化していて、彼らの手に渡るのはごくわずかだったようだ。

「昨夜、部長(編注)が友人を連れて来てお楽しみだった。我々にはパンもなく、小さなサツマイモの一かけしかなかったのに、部長たちは今朝猟に行くのに持っていくサンドイッチのため、我々のパンを使ってしまったらしい。彼は毎週のように友人を呼び、彼等の食事は我々の配給から出てくるのだ」(11月1日、英文)

 ただ赤十字の支援品なのか、戦時下の統制経済では不自由だったはずのコーヒーやピーナッツバター、そしてタバコが日記にはよく登場する。

「外事部長からのプレゼントとしてシャツ、下着、靴下が届いたが、後は月曜日に配られるそうだ。お土産は何時でも歓迎。ピーナツバターにも関わらず一日中腹ぺこ。タバコは今日は吸わず」(11月25日、英文)

 イギリス人であるデュアは日本にとっての戦局悪化、つまり連合軍による太平洋での反抗をいいニュースとして受け止める。しかし母親が日本人で日本で生まれ育った彼は、同時に空襲下で逃げまどう日本の庶民に同情もする。

「一時頃B29らしいのが我々の真上を、東京を目指して飛んで行った。紺碧の秋の空。箒で掃いたような巻雲の間を四つの細い白い尾を曳いて堂々と敵の都へ飛んで行く。壮観なるかなB29。大にやれ、B29。然し、然し、罪なき非戦闘員のみは赦し給え」(11月26日、日本語)

「凄いサイレンの音がする。周章狼狽してバケツを持って駆け回る哀れな人々の光景が目に浮かぶ。我々は温かい布団の中で鼾をかいている」(11月30日、日本語)

 飢えに加えて山での薪採取、食糧運搬、農家の手伝いといった作業で弱ったデュアは、足柄山の豊かな自然を眺め、わずかな慰めを覚える。年を越え、寒さとしもやけに悩みながら、強制収容されず横浜市内に住み続ける母と弟エドワードの訪問と差し入れを待つ日々。しかし戦局は坂を転げるように悪化し、ついに母と弟の住む横浜をB29の大編隊が襲う。

「続々とB29が上空を通った。空は曇っては居たが雲が割に高かったのとB29が割に低く飛んでたのでよく見えた。四〇〇機程京浜地方に来たらしい。我々の上を通った機も二三百あったろう。攻撃目標は横浜、川崎だったらしい。横浜方面に物凄い煙が乱雲のように濠々と沖しているのが見えた。あゝ、母とエディはあの下にいるのか。無事でいて呉れればいゝがなあ」(5月29日、日本語)

 横浜市中心部は爆撃で焼け野原になり、実家は焼け落ちたが、母と弟は幸いに命を失わずにすんだ。爆撃から約1週間後、ようやく弟のエドワードが抑留所の兄を訪問する。弟の口から出たのは、「敵」であるはずの外国人に対する被災者たちの親切だ。

「エディの言うには近所の人々が実に皆親切だそうだ。――我々は彼らの敵ではないか。そしてその飛行機の仕業ではないか。政府の押し付けた上塗りの敵愾心も真の心の温情が完全に溶かして了ったのだ」(6月6日、日本語)

 やがて夏が到来し、終戦へのカウントダウンが始まる。しかしその目前、栄養失調による衰弱で抑留者の1人が病死すると、デュアは怒りを爆発させる。

「濃霧。大分長い間病で患っていたジョウナが今朝床の中で死んでいるのが見つかった。......また、彼は治療を受けてなかった。犬死させられたのだ」(7月31日、英文)

 昭和天皇の玉音放送で3年8カ月に及んだデュアらの抑留生活は終わりを告げる。

「正午! 足柄山の静けさ、聞こえるのは蝉の音のみ。我々は各自の部屋に入っている。フェーゲンは我々の代理としてラヂオを聞きに行った。微かに御声が聞える。十二時二十分頃ジョージ・ビーティ(フェーゲンと一緒にいた)が上がって来て内容を話した(終わりだ)......窓から外を見る。平和な景色だ。季節毎に変わり行く足柄山麓の風景もこれでさよならだ」(8月15日、日本語)

 終戦と共にデュアら抑留者たちは自由を取り戻し、飢えからも解放された。

「晴天。待望の慰問品満載の飛行機が沢山やって来て、落とす、落とす。天から食料品が降って来、落下傘がついていないので大分破損したが山のように皆御馳走を貰った」(8月29日、日本語)



 抑留から解放されたデュアは東京慈恵医大に復学。医師となり、東京・十仁病院に形成外科医として勤務した。73年に日本国籍を取得。出羽誠司となり、90年に70歳で死去した。

 デュア日記の抄録は今年3月に出版された『横浜と外国人社会――激動の20世紀を生きた人々』(日本経済評論社)で紹介されている。



 シディンハム・デュアの抑留日記の実物が8月5日から30日まで、横浜市中区の横浜開港資料館で開かれている特別資料コーナー展示「戦後70年 戦時下、横浜の外国人」で公開されている。入館料は一般200円、高校生以下無料。


※当記事は2015年8月11/18日号
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長岡義博(本誌記者)

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