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チェ・ゲバラから「ピッチ」の秘訣を学ぶ

ニューズウィーク日本版 2015年8月26日 18時30分

 このところビジネスの現場では、「ピッチ(pitch)」という言葉がよく聞かれる。一体どういう意味だろうか。

『シリコンバレーの英語』(ロッシェル・カップ、スティーブン・ガンツ共著、IBCパブリッシング)によれば、ピッチとは「人、アイディア、ビジネス、あるいはプロジェクトなどについて、興味、熱意、あるいはプロダクトへの資金投資を引き出すことを目的とした、あらゆるタイプの説得力のあるプレゼンテーションのこと」だ。

 その「ピッチ」が人生をも左右するのだと、英国デザイン界の第一人者スティーブン・ベイリーと、作家でありビジネスエキスパートでもあるロジャー・マビティは言う。彼らの共著『たった2%の"ピッチ"が人生の98%を変える』(黒澤修司訳、CCCメディアハウス)には、自分を売り込み、相手をその気にさせるテクニックと考え方が詰まっている。

 本書によれば、「ピッチとは相手を説得することであり、相手に好ましい印象を与えて取引に成功し、議論に打ち勝つこと」だ。しかもビジネスだけに留まらず、「性的な、あるいは社交的な意味で、相手との繋がりをつくることでもある」という。

 さまざまなエピソードが盛り込まれた本書から、「27 他者と違う自分になる勇気」と「28 ビジネス人生では感情が大事」を抜粋し、前後半に分けて掲載する。まずはカリスマ性に関する考察から、「ピッチ」に不可欠な特質を見ていこう。

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『たった2%の"ピッチ"が人生の98%を変える』
 スティーブン・ベイリー、ロジャー・マビティ 共著
 黒澤修司 訳
 CCCメディアハウス


◇ ◇ ◇

27 他者と違う自分になる勇気

 自説を述べたり自己表現したりしている人々を見ていると、その中に戦う前からすでに勝者だと思えるような人物がいる。カリスマ性という、とらえどころのない資質を持った人間だ。カリスマ性は、他者の目には一目瞭然でも、身につけるのは恐ろしく難しい特別な才能のように思える。とはいえ、カリスマ性の真の魔力は、他者とはやや違ったものになる勇気をもつことの中にあるのだ。

 いったいカリスマの真の意味は何なのか? それは、本人の言動とは無関係な、人々を興奮させ、惹きつけてやまない独特の要素を備えた人間のあり様のことである。カリスマ性を持った人間は、何もせずそこにいるだけで人が集まってくる。言葉にせずともわかるほど強力な、天然の威光と魅力を備えている。

 カリスマ的人間は、常にとてつもない自信をもっている。運命として自らに降りかかってくる何もかもを処理できるかのように振る舞う。その一方で、こうした人物は、他者を深く信頼する姿勢を示し、この信頼が人々を奮い立たせる。マーガレット・サッチャー首相の側近ティム・ベルは、彼女について私にこう語った。

「彼女はとても特別な人でした。彼女は、『あなたを雇ったのは専門家だからです。だから私は、あなたが言ったとおりのことをするつもりです。仕事の指示を私に仰いだりしないでください。そのために雇ったんですから』というわけです。彼女は専門分野では全権を委ねてくれましたが、自分の仕事には口出しさせませんでした。口出ししようものなら痛い目にあわされます。『減税すべきでは』などと進言しようものなら、『誰があなたを選んだの?』と返されたでしょう」

 カリスマ性には、感じられるが目には見えないという不思議な性質がある。見えなくても、ありありとあるのだ。カリスマ性を定義するには、それを持つ人物を特定するしかないように思える。近年のもっとも有名なカリスマ的人物の一人は、チェ・ゲバラだろう。キューバを訪れれば、彼の顔が金属に彫られていたり、ハバナのメイン・スクエアの数階建てのビルの外壁いっぱいに描かれていて唖然とする。千種類を超えるTシャツを生み出し、キューバのみならず世界中の人々に抑圧からの開放のメッセージをもたらしたのが、あの顔だった。

 ゲバラはカリスマの要素をすべて備えていた。理想に燃え、自由のために戦い、勝利し、そのうえハンサムだった。さらに、若くして死んだせいで、よりいっそう伝説的地位を確実なものにした。ジェームズ・ディーンとマリリン・モンローも、悲劇的だったとはいえその好例である。

 カリスマとは、そういうことなのか? ハンサムで早死にすればカリスマになれるのか。ゲバラだけなら、そう思えるかもしれない。だが、ゲバラの革命仲間のフィデル・カストロはどうだろう? もちろん彼も偉大なカリスマだが、ゲバラほど外貌に恵まれていないからといって、みんなとやかく言ったりしないだろう。

 もう一人の偉大な政治指導者として、カストロと同じく容姿に恵まれなかったウィンストン・チャーチルがいる。言うまでもなく、彼の戦争指導者としての偉業は素晴らしかったが、チャーチルにはそれ以前から確固たるカリスマ性が備わっていた。彼が戦時に見事なリーダーシップを発揮したのは、そのカリスマ性ゆえである。第二次大戦後、チャーチルの跡を継いだクレメント・アトリー首相は、おそらく近代政治史上もっとも冴えず、もっともカリスマ性に欠けた人物だと言われている。だが、二〇世紀の平時の政治においてもっとも重要な功績といえる福祉国家の建設は、ほとんどアトリーが独力で行なったものだ。カリスマ性がどういうものであれ、チャーチルにはあり、アトリーにはなかった。つまり、カリスマ性は功績とは無関係であり、人間のあり様と関係しているものなのだ。

 世界的な著名人でいえば、ビル・ゲイツにはカリスマ性があるはずだ。なにしろ自らの事業で人々の生活を変え、世界一の大富豪にのし上がった人物だ。それだけでカリスマ性十分なはずだが、それがそうではない。マイクロソフト社と何十億ドルの資産がありながら、彼にはカリスマ性がない。イギリスのチャールズ皇太子もそうだ。イギリスの王位継承者で、巨万の資産を保有し、目も眩むほど美しい妻をめとったうえに愛人まで抱えてもだ。

 作家の世界では、カリスマ性を持つものは滅多にいない。『キャッチ=22』が愛読されていても、作者のジョセフ・ヘラーの顔を思い出す人はどれほどいるだろうか。だが画家には、作家よりもカリスマ性を持つ人が多い。たとえばサルバドール・ダリは、金の亡者で性的欲求不満を抱えた老いぼれのろくでなしだったにもかかわらず、カリスマ性をにじませていた。だが同じシュールレアリスムの画家ルネ・マグリットは、ダリと並び立つ作品を描きながら、カリスマ性はなかった。生気を欠いた不安げなアンディ・ウォーホルはカリスマ性をもっていたが、彼と並ぶ才能の持ち主であるポップ・アーティスト、リヒテンシュタインとラウシェンバーグはそうではなかった。ピカソは絶大なカリスマ性の持ち主だったが、ピカソと共にキュビズムを生み出したジョルジュ・ブラックはというと、写真を見せられても誰だかわからないのではないだろうか。

 こうした魔術的才能を授かった特異な人物たちを眺めてみると、人さまざまだが、二つの共通した特徴があるようだ。第一に、人と違うことを恐れていないということ。第二に、これが重要なのだが、自分自身を楽しんでいるようにみえること。この二つの才能――私は才能だと思っている――をもう少し掘り下げてみよう。

 第一の、人と違うという点からいえば、ダリはワックスでヒゲを固め、滑稽なポーズを取り、擬似哲学的な芸術特有用語を並べ立て、できるだけ人と違ったように振る舞った。私たちが敢えてしないことをした。それが秘訣だった。

 ピカソとウォーホルも、周囲とかけ離れた別格の存在だった。ピカソは独創性に富んだ作品を数かぎりなく生み出しただけでなく、派手で気ままな生活を送り、次々と愛人を変えては新たな方向性の絵画への刺激剤にした。ウォーホルは作品をわざと大量生産することにより、一千年の芸術史を根本から覆した。自らのアトリエを「ファクトリー(工場)」などと呼んだりする芸術家が、他にいるだろうか。

 ウィンストン・チャーチルはもちろん、人と違うことを恐れなかった。大きな葉巻を常に口にくわえ、午前中はずっと眠り、夜通し働いて、バスタブに横になりながら重要な軍事機密文書を秘書に口述したばかりか、常人が一生かけて飲むほどのシャンパンを一週間で飲み干していた(これを戒めてベシー・ブラドック議員が「チャーチルさん、酔っていますね!」と言うと、彼が「いかにも、マダム。それにしてもあなたは不細工ですな。私の酔いは明日には覚めますがね」と答えたのは有名な話だ)。

 ゲバラとカストロはたった数人の仲間と組んで、世界最強の国家であるアメリカからキューバを解放した。これほどまでに人と違う個性的な人間はいないだろう。

 こうした非凡な人々はすべて、人と異なることを恐れない勇気の持ち主だ。社会が望むとおりではなく、自らが望むとおりに行動している。そこに彼らのカリスマ性がある。人は誰でも他から期待されることではなく、自ら望むことをしたいと思っているが、結局は突き進む勇気を持てずに順応する。それに引き換え、カリスマ性を持つ人は我が道をゆくのである。

 彼らは、その歩みを楽しんでいる。それがカリスマ性のもう一つの秘訣である。ダリの芝居じみた言動を楽しむ人がいようといまいと、彼自身がそこに大いなる歓びを見出していたのは間違いない。ウォーホルもまた、自ら生み出した周囲の注目の渦中にいることを好んでいた。チャーチルも戦況悪化の中で挑戦を楽しんでいたようだし、悪化すればするほど強靭になっていった。より最近の政治家の例では、ビル・クリントンは偉大なカリスマ性の持ち主だろう。クリントンは不利な局面に立たされたときでも、責任を負うことを楽しんでいた。それとは対照的に、ジョージ・ブッシュは親子いずれも、張り詰めた顔をしていて喜びが感じられない。

 もちろん、シャンパン一本と葉巻をひと箱買えばチャーチルになれるわけではないし、ヒゲをワックスで固めて狂おしいほどの自己愛をもったところでダリになれるわけでもない。だが、そうしたカリスマを真似できなくても、そこから教訓は学べるのだ。

 こうした非凡な人々が私たちに教えていることは、自信というものは素晴らしいものであり、社会の慣習ではなく自らの本能に従ったからこそ幸せになれた、ということなのである。

※抜粋後編「経営コンサルタントはすぐに解雇しなさい」はこちら


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