8月半ば、既婚者向け出会い系サイト「アシュレイ・マディソン」から大量の会員情報を盗んだハッカーたちは、通常のブラウザではアクセスできない「ダークネット」にその情報を公開した。
ダークネットとは何か。まさにデジタル裏社会ともいえるそこには、荒らしからポルノ製作者、麻薬の売人、政治的過激派、コンピュータ科学者まで、さまざまな"住人"が存在する。一般の人が関わりを持つことは普段はないかもしれないが、アシュレイ・マディソンの一件でわかるように、実はきわめて身近な世界でもある。
英シンクタンクDemosの研究員であるジェイミー・バートレットは、その驚くべき世界の奥深くまで入り込み、取材して『闇(ダーク)ネットの住人たち デジタル裏世界の内幕』(ジェイミー・バートレット著、星水裕訳、鈴木謙介解説、CCCメディアハウス)にまとめ上げた。
先週末に刊行されたばかりの本書から、ネット文化に詳しい社会学者の鈴木謙介氏(関西学院大学社会学部准教授)による解説「やわらかな日本のインターネット」を抜粋・転載する。
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『闇(ダーク)ネットの住人たち――デジタル裏社会の内幕』
ジェイミー・バートレット 著
星水 裕 訳
鈴木謙介 解説
CCCメディアハウス
◇ ◇ ◇
2003年のダークネット
いま私の手元には、とある出版社が発行していた「2ちゃんねる」に関するムックがある。発行されたのは2003年というから、ちょうどインターネットがADSLの普及によって「常時接続」の時代に入り、また携帯電話(スマホではない)がインターネット接続端末として利用されるようになっていた頃だ。
アダルト系雑誌も扱っていた出版社のムックということもあって、体裁はいわゆる「素人投稿写真もの」のようなアングラっぽさが漂う。グラビアページには「歌舞伎町24時」、「廃墟を歩く」といった、2ちゃんねるはおろかネットにすら関係のない記事も並んでいるが、要するにこの時代、2ちゃんねるは歌舞伎町と同じくらい「あやしい」存在だったわけだ。
実際、中を読んでみるとそこには「業界裏情報」、「ハッキング」、「少年による犯罪予告」などのアンダーグラウンドを想起させる記事があり、ライターや社会学者らが解説を寄せている。あるいは「オフ会で異性を落とす方法」だとか「マスコミが語らない真実がネットにある」といった記事も。「ネットを見れば、そこには私たちの知らないカオスな世界が広がっているのだ」という、いま振り返ると相当に素朴な世界観が、そこには体現されている。
最初にこうした昔話をしたのは、本書が、そのような「アングラレポートもの」とは趣旨の異なる、したがって「怖い世界があるのだなあ」という素朴な感想では済まされない意義を持っていることを強調するためだ。確かに本書は「ダークネット」にアクセスする人々の生の声を、ネット上だけでなく実際に面談して聞き取り調査している点にもっとも大きな特色があるが、少なくとも日本の状況との違いを知るためには、いくつかの背景情報を押さえておく必要があろう。
地下経済と「強い思想」
本書では、ダークネットにおける支払いの手段としてビットコインがしばしば登場する。ビットコインについては、日本でも2014年に、大手取引所のマウント・ゴックスが取引停止に陥ったことで知られるようになったが、現実の通貨を裏付けにもつ電子マネーとはまったく異なり、ネット上で生み出される「電子コイン」だ。その詳細は本書の第3章で述べられているが、重要なのは、ビットコインでの取引がいわゆる「地下経済取引」を可能にしただけでなく、政府による通貨発行の独占も課税もない、文字通りの「自由経済」をも生み出すということだ。むろんそれは、自由であるが故に誰にも守ってもらえない、映画『マッドマックス』さながらの世界でもあるのだが。
あるいは、本書で「サイファーパンク」として紹介されている一連の人々。彼らはビットコインによる取引も含め、ありとあらゆる管理から逃れ、権威による支配を拒否する。序章に登場するサイファーパンク、ジム・ベルはその典型だ。「暗殺政治」に関する彼のアイデアは、完全に匿名化された懸賞首サイトが政治家の権威を無にするという未来を描き出すものだが、実はこの極端に思える発想は、既に別の形で実現している。
たとえばリサ・ガンスキーが「メッシュ」と呼ぶ、ソーシャルメディア時代の新しい評価経済のことを考えてみよう(『メッシュ│すべてのビジネスは〈シェア〉になる』徳間書店、2011年)。そこでは顧客が実際に購入して体験した話が、大企業の広告やPRよりもリアルなものとして消費者に受け止められる。「過激な透明性の時代」という言葉で表現されているこの仕組みと、ベルが主張する懸賞首への匿名の評価は、ポジティブなものかネガティブなものか、危害を加えると脅すのか否かという違いはあれ、原理は同じだ。ネットでオープンに評価することで、権威の力を抑制しようというわけだ。
ビットコインにせよサイファーパンクにせよ、なぜこうも彼らはインターネットに「反権威」であることを求める、あるいはそういう領域を確保しようとするのだろうか。その背景にあるのは、インターネットがまさにアメリカにおいて誕生し、アメリカ社会が理想とする自由な社会のあり方が体現されるような技術として進化してきたという歴史だ。アメリカ社会においては、その建国からして政府による課税に反対し、自分の力だけで土地を切り開き、守るべきものは自分の力で守るべきだという考え方が根付いている。こうした思想はアメリカでは「保守主義」と呼ばれるが、その中でも特に政府などの権威を否定するのが、本書でもしばしば名前のあがる「リバタリアン」という人々だ。
リバタリアンは税金も社会保障も警察もいらない、と主張する非常に極端な思想の持ち主だが、ではどうやって生きていくつもりなのだろうか。ここで注意しなければいけないのは、近年のネットでよく使われる「ソーシャル」という言葉だ。もともとソーシャルというと、アメリカ社会では「社会主義者」のことを指していた。だから「お前はソーシャルだ」というとき、そこには政府による管理や社会保障を肯定することへの批判や侮蔑の意味が込められていた。だが「ソーシャルメディア」などというときのソーシャルという言葉には、もはやそのような意味はない。そこにはせいぜい「人々が平等な立場で助け合う」といった牧歌的なイメージがあるくらいだ。
政府も社会保障もいらない、という極端な反権威主義と、平等な個人が自発的に助け合うという共同体主義。両者の結合はインターネットの「根本思想」として、いまも私たちの利用するネットのあちらこちらに散見される。バーブルックとキャメロンという二人のメディア学者は、この二つの理念の相乗りを「カリフォルニアン・イデオロギー」と呼び、インターネットという技術が、実はアメリカ社会の理想を体現するものであることを明らかにしたのである。
自由はどこまで守られるべきか
そのような背景を踏まえてあらためて本書を読み返すと、そこで描き出されている人々が、単に経済的利益だとか自身の快楽だけを目的に「ダークネット」を彷徨っているのではないことが見て取れるのではないか。前に挙げたベルや第3章に登場するアミールなど、ダークネットの世界には、そこでこそ実現される自由を至上のものとして考える人々が無数に存在し、日々活動している。本書の意義は、そうした人々が「何をしているのか」だけでなく「何を考えているのか」をありありと浮かび上がらせた点にある。
だからこそ私たちは本書を、単なる「アングラレポート」として読んではいけないのだが、もちろん日本の問題を考える際に参考になるところもある。たとえば第2章に登場するポールをはじめとするレイシストやナショナリストたち。日本ではこうした人々は「ネット右翼」と呼ばれ、街頭での醜悪なヘイトスピーチの影響もあって、一般にも問題視されるようになっている。だが、実際にそこで起きているのは、複数の研究やレポートが明らかにするように、ネットでつながった人々の輪の中で「使命と役割」を与えられたことで、その場を抜けられなくなっていくという現象だ。本書ではEDLの創設メンバーであるトミーがまさにそれに当てはまるだろう。
あるいは、第7章に登場するアミーリアのような「プロアナ」たち。日本のネットではこうした人々は「メンヘラ(メンタルヘルスに問題を抱えた人々)」と呼ばれ、たとえば自殺サイトや自傷サイトに集い、ときに集団自殺に至ることもある(逆に、こうしたサイトのおかげで一線を踏み越えずに済んでいる人々もいる)。ネットで同じような立場や考えの人だけで集まって交流しているうちに、考え方や行動が極端なものになっていく現象は「集団分極化」と呼ばれるが、そうした傾向は、日本だけでなく海外でも顕著であるようだ。
ともあれ、全体として見れば、やはり英米を中心とした海外の事例を見ると、そこには「強い思想」が背景に存在していることを感じずにはいられない。当然のことながら、それはネットに対する「規制」をどう考えるのかという点においても、大きな違いとなって現れてくる。
典型的なのは、過去の失敗などネット上に拡散された不都合なデータをどのように扱うべきかという問題だろう。この問題については、2014年にEUで「忘れられる権利」を認める判断が下され、実際に不都合な情報について削除依頼があれば検索結果に表示されないようにするという取り組みが進んでいる一方で、アメリカにおいては「忘れられる権利を認めることは、知る権利の侵害につながる」という見方が強い。ここにもインターネットの「強い思想」の影響が見て取れるが、では私たちはこの問題についてどのように考えるだろうか。
人によって見解は分かれるかもしれないが、少なくとも私たちはそこで、どのような立場の人々、どのような権利を守り、どのような自由を制限するのかを選ぶ必要がある。個人がネット上で炎上した記録を削除して欲しいと願うのと、政治家が過去の汚職の記録を検索されないようにしたいと望むのは、まったく別のレベルの話だ。しかしながらこうした出来事について法律などで規制しようとすれば、「自由はどこまで守られるべきなのか」について、明確な意志を社会で共有することになる。そのとき私たちの社会に、本書に登場するような「強い思想」の持ち主はどのくらいいるだろうか。ややもすると「いやがる人がいるなら、規制もやむを得ないのではないか」といった「やわらかな」考え方でもって、際限のない規制や監視を認めてしまうのではないか。
インターネットは犯罪の温床であってはならないし、まして地下経済化することによって社会の治安に問題が起きることを肯定するための道具でもない。その点で、本書に登場する「ダークネット」の住人たちの振る舞いのすべてを受け入れるわけにいかないのは明らかだ。だがその背景に存在する「強い思想」にまで思いを巡らせるならば、果たして日本のインターネットは「やわらかい」ままでいいのかということもまた、考えられなければならないのではないか。
ダークネットとは何か。まさにデジタル裏社会ともいえるそこには、荒らしからポルノ製作者、麻薬の売人、政治的過激派、コンピュータ科学者まで、さまざまな"住人"が存在する。一般の人が関わりを持つことは普段はないかもしれないが、アシュレイ・マディソンの一件でわかるように、実はきわめて身近な世界でもある。
英シンクタンクDemosの研究員であるジェイミー・バートレットは、その驚くべき世界の奥深くまで入り込み、取材して『闇(ダーク)ネットの住人たち デジタル裏世界の内幕』(ジェイミー・バートレット著、星水裕訳、鈴木謙介解説、CCCメディアハウス)にまとめ上げた。
先週末に刊行されたばかりの本書から、ネット文化に詳しい社会学者の鈴木謙介氏(関西学院大学社会学部准教授)による解説「やわらかな日本のインターネット」を抜粋・転載する。
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『闇(ダーク)ネットの住人たち――デジタル裏社会の内幕』
ジェイミー・バートレット 著
星水 裕 訳
鈴木謙介 解説
CCCメディアハウス
◇ ◇ ◇
2003年のダークネット
いま私の手元には、とある出版社が発行していた「2ちゃんねる」に関するムックがある。発行されたのは2003年というから、ちょうどインターネットがADSLの普及によって「常時接続」の時代に入り、また携帯電話(スマホではない)がインターネット接続端末として利用されるようになっていた頃だ。
アダルト系雑誌も扱っていた出版社のムックということもあって、体裁はいわゆる「素人投稿写真もの」のようなアングラっぽさが漂う。グラビアページには「歌舞伎町24時」、「廃墟を歩く」といった、2ちゃんねるはおろかネットにすら関係のない記事も並んでいるが、要するにこの時代、2ちゃんねるは歌舞伎町と同じくらい「あやしい」存在だったわけだ。
実際、中を読んでみるとそこには「業界裏情報」、「ハッキング」、「少年による犯罪予告」などのアンダーグラウンドを想起させる記事があり、ライターや社会学者らが解説を寄せている。あるいは「オフ会で異性を落とす方法」だとか「マスコミが語らない真実がネットにある」といった記事も。「ネットを見れば、そこには私たちの知らないカオスな世界が広がっているのだ」という、いま振り返ると相当に素朴な世界観が、そこには体現されている。
最初にこうした昔話をしたのは、本書が、そのような「アングラレポートもの」とは趣旨の異なる、したがって「怖い世界があるのだなあ」という素朴な感想では済まされない意義を持っていることを強調するためだ。確かに本書は「ダークネット」にアクセスする人々の生の声を、ネット上だけでなく実際に面談して聞き取り調査している点にもっとも大きな特色があるが、少なくとも日本の状況との違いを知るためには、いくつかの背景情報を押さえておく必要があろう。
地下経済と「強い思想」
本書では、ダークネットにおける支払いの手段としてビットコインがしばしば登場する。ビットコインについては、日本でも2014年に、大手取引所のマウント・ゴックスが取引停止に陥ったことで知られるようになったが、現実の通貨を裏付けにもつ電子マネーとはまったく異なり、ネット上で生み出される「電子コイン」だ。その詳細は本書の第3章で述べられているが、重要なのは、ビットコインでの取引がいわゆる「地下経済取引」を可能にしただけでなく、政府による通貨発行の独占も課税もない、文字通りの「自由経済」をも生み出すということだ。むろんそれは、自由であるが故に誰にも守ってもらえない、映画『マッドマックス』さながらの世界でもあるのだが。
あるいは、本書で「サイファーパンク」として紹介されている一連の人々。彼らはビットコインによる取引も含め、ありとあらゆる管理から逃れ、権威による支配を拒否する。序章に登場するサイファーパンク、ジム・ベルはその典型だ。「暗殺政治」に関する彼のアイデアは、完全に匿名化された懸賞首サイトが政治家の権威を無にするという未来を描き出すものだが、実はこの極端に思える発想は、既に別の形で実現している。
たとえばリサ・ガンスキーが「メッシュ」と呼ぶ、ソーシャルメディア時代の新しい評価経済のことを考えてみよう(『メッシュ│すべてのビジネスは〈シェア〉になる』徳間書店、2011年)。そこでは顧客が実際に購入して体験した話が、大企業の広告やPRよりもリアルなものとして消費者に受け止められる。「過激な透明性の時代」という言葉で表現されているこの仕組みと、ベルが主張する懸賞首への匿名の評価は、ポジティブなものかネガティブなものか、危害を加えると脅すのか否かという違いはあれ、原理は同じだ。ネットでオープンに評価することで、権威の力を抑制しようというわけだ。
ビットコインにせよサイファーパンクにせよ、なぜこうも彼らはインターネットに「反権威」であることを求める、あるいはそういう領域を確保しようとするのだろうか。その背景にあるのは、インターネットがまさにアメリカにおいて誕生し、アメリカ社会が理想とする自由な社会のあり方が体現されるような技術として進化してきたという歴史だ。アメリカ社会においては、その建国からして政府による課税に反対し、自分の力だけで土地を切り開き、守るべきものは自分の力で守るべきだという考え方が根付いている。こうした思想はアメリカでは「保守主義」と呼ばれるが、その中でも特に政府などの権威を否定するのが、本書でもしばしば名前のあがる「リバタリアン」という人々だ。
リバタリアンは税金も社会保障も警察もいらない、と主張する非常に極端な思想の持ち主だが、ではどうやって生きていくつもりなのだろうか。ここで注意しなければいけないのは、近年のネットでよく使われる「ソーシャル」という言葉だ。もともとソーシャルというと、アメリカ社会では「社会主義者」のことを指していた。だから「お前はソーシャルだ」というとき、そこには政府による管理や社会保障を肯定することへの批判や侮蔑の意味が込められていた。だが「ソーシャルメディア」などというときのソーシャルという言葉には、もはやそのような意味はない。そこにはせいぜい「人々が平等な立場で助け合う」といった牧歌的なイメージがあるくらいだ。
政府も社会保障もいらない、という極端な反権威主義と、平等な個人が自発的に助け合うという共同体主義。両者の結合はインターネットの「根本思想」として、いまも私たちの利用するネットのあちらこちらに散見される。バーブルックとキャメロンという二人のメディア学者は、この二つの理念の相乗りを「カリフォルニアン・イデオロギー」と呼び、インターネットという技術が、実はアメリカ社会の理想を体現するものであることを明らかにしたのである。
自由はどこまで守られるべきか
そのような背景を踏まえてあらためて本書を読み返すと、そこで描き出されている人々が、単に経済的利益だとか自身の快楽だけを目的に「ダークネット」を彷徨っているのではないことが見て取れるのではないか。前に挙げたベルや第3章に登場するアミールなど、ダークネットの世界には、そこでこそ実現される自由を至上のものとして考える人々が無数に存在し、日々活動している。本書の意義は、そうした人々が「何をしているのか」だけでなく「何を考えているのか」をありありと浮かび上がらせた点にある。
だからこそ私たちは本書を、単なる「アングラレポート」として読んではいけないのだが、もちろん日本の問題を考える際に参考になるところもある。たとえば第2章に登場するポールをはじめとするレイシストやナショナリストたち。日本ではこうした人々は「ネット右翼」と呼ばれ、街頭での醜悪なヘイトスピーチの影響もあって、一般にも問題視されるようになっている。だが、実際にそこで起きているのは、複数の研究やレポートが明らかにするように、ネットでつながった人々の輪の中で「使命と役割」を与えられたことで、その場を抜けられなくなっていくという現象だ。本書ではEDLの創設メンバーであるトミーがまさにそれに当てはまるだろう。
あるいは、第7章に登場するアミーリアのような「プロアナ」たち。日本のネットではこうした人々は「メンヘラ(メンタルヘルスに問題を抱えた人々)」と呼ばれ、たとえば自殺サイトや自傷サイトに集い、ときに集団自殺に至ることもある(逆に、こうしたサイトのおかげで一線を踏み越えずに済んでいる人々もいる)。ネットで同じような立場や考えの人だけで集まって交流しているうちに、考え方や行動が極端なものになっていく現象は「集団分極化」と呼ばれるが、そうした傾向は、日本だけでなく海外でも顕著であるようだ。
ともあれ、全体として見れば、やはり英米を中心とした海外の事例を見ると、そこには「強い思想」が背景に存在していることを感じずにはいられない。当然のことながら、それはネットに対する「規制」をどう考えるのかという点においても、大きな違いとなって現れてくる。
典型的なのは、過去の失敗などネット上に拡散された不都合なデータをどのように扱うべきかという問題だろう。この問題については、2014年にEUで「忘れられる権利」を認める判断が下され、実際に不都合な情報について削除依頼があれば検索結果に表示されないようにするという取り組みが進んでいる一方で、アメリカにおいては「忘れられる権利を認めることは、知る権利の侵害につながる」という見方が強い。ここにもインターネットの「強い思想」の影響が見て取れるが、では私たちはこの問題についてどのように考えるだろうか。
人によって見解は分かれるかもしれないが、少なくとも私たちはそこで、どのような立場の人々、どのような権利を守り、どのような自由を制限するのかを選ぶ必要がある。個人がネット上で炎上した記録を削除して欲しいと願うのと、政治家が過去の汚職の記録を検索されないようにしたいと望むのは、まったく別のレベルの話だ。しかしながらこうした出来事について法律などで規制しようとすれば、「自由はどこまで守られるべきなのか」について、明確な意志を社会で共有することになる。そのとき私たちの社会に、本書に登場するような「強い思想」の持ち主はどのくらいいるだろうか。ややもすると「いやがる人がいるなら、規制もやむを得ないのではないか」といった「やわらかな」考え方でもって、際限のない規制や監視を認めてしまうのではないか。
インターネットは犯罪の温床であってはならないし、まして地下経済化することによって社会の治安に問題が起きることを肯定するための道具でもない。その点で、本書に登場する「ダークネット」の住人たちの振る舞いのすべてを受け入れるわけにいかないのは明らかだ。だがその背景に存在する「強い思想」にまで思いを巡らせるならば、果たして日本のインターネットは「やわらかい」ままでいいのかということもまた、考えられなければならないのではないか。