Infoseek 楽天

文革に翻弄された私の少年時代

ニューズウィーク日本版 2015年9月3日 17時15分

 1966年、中国で文化大革命が始まった。一般庶民をも巻き込み、中国全土に広がった政治闘争だったが、その中で少年時代を過ごし、後に日本で政治家をめざした人物がいる。在日27年、「歌舞伎町案内人」こと李小牧である。

 李小牧氏は、今年2月に日本国籍を取得、そのわずか2カ月後の4月に新宿区議選に出馬した。来日以来ずっと新宿・歌舞伎町で活動してきた彼は、中国と日本、昼と夜という境界線を生き抜いてきた人物。その彼がなぜ、突然、日本で政治家をめざすことになったのか。

『元・中国人、日本で政治家をめざす』(CCCメディアハウス)は、李小牧氏が自らの波乱の半生と新たな挑戦をつづった一冊。リアリティに溢れた中国現代史の資料としての側面や、日本の選挙制度のいびつさを内側から指摘した告発書としての側面もある。

 ここでは本書の「第1章 文革に翻弄された少年時代」から、一部を抜粋・掲載する。あの当時、文革の嵐の中で、人々はどんな生活を送っていたのだろうか。

<*下の画像をクリックするとAmazonのサイトに繋がります>


『元・中国人、日本で政治家をめざす』
 李小牧(り・こまき) 著
 CCCメディアハウス


◇ ◇ ◇

 喧騒渦巻く不夜城、歌舞伎町を27年間サバイバルしてきた李小牧が、なぜ突然、政治家をめざすことに決めたのか。本音と本音のぶつかり合う世界、そして、どちらかと言えばアウトロー的な人生を送ってきた男が、形式的で建前ばかりが重要視される世界に舞台を移すことを決意したのは、どうしてか。

 その原点は、今から半世紀近く前の中国にある。

 1960年8月27日、私は中国の南部にある湖南省の省都・長沙(ちょうさ)市で生まれた。父・李正平(リーチョンピン)は、もともと共産党の軍隊である人民解放軍の軍人。国民党との内戦が終わった後は中学校で国語の教師をしていたが、のちに「政治家」に転身した人物だった。

「政治家」とカギかっこ付きで書いたのは、日本人が想像する、いわゆる普通の政治家とは少し違うからだ。

元軍人で「政治家」だった父

 1966年、ちょうど私が6歳の頃、中国全土で政治闘争の嵐が吹き荒れた。毛沢東(もうたくとう)が、国家副主席である劉少奇(りゅうしょうき)や、副首相の鄧小平(とうしょうへい)ら「走資派(そうし)」と呼ばれていた現実路線派の政治家から実権を取り戻すために始めた、文化大革命だ。いまだに死者数が確定できない"政治災害"だが、私の父はこのとき、毛沢東を支持する「造反派」として、走資派を打倒する活動に没頭していた。

 当時、長沙市ではさまざまな造反派が活動していたのだが、私の父は湖南省最大の組織「湘江風雷」という派閥に所属。そのナンバー3に当たる政治部主任として、1万人の大衆を前に演説をぶつこともあった。中国全土がまだまだ貧しくて、車もほとんど走っていなかった頃、父はボディガード役の部下を引き連れて、ジープに乗って颯爽と長沙の街を駆け回っていた。父がどれくらい大きな存在の「政治家」だったか、当時6歳の私の記憶にしっかりと刻まれている。

 闘争の連続だった文化大革命という時代を象徴するように、私の家にはピストルが置いてあった。元軍人とはいえ、本来なら父にとって何の用のない代物だ。おそらく、身の危険を感じることがあったのだろう。そして、その予感はのちに現実になる。

 母の肖敏蓉(シャオミンロン)は父より5歳年上だった。長沙の紡績工場を経営する資本家の娘として生まれたが、実は正妻の子ではなく、私の祖父にあたる資本家がお手伝いさんに産ませた子供だった。それでも、母は大事に育てられた。まだ中国が貧しく混乱した国民党の時代に、女性でありながら内陸の中心都市、重慶(じゅうけい)市の師範学校に2年間通ったというのだから、そのお嬢さまぶりがわかるというものだ。私が小さい頃、家には立派な家具がたくさんあったが、それらはどれも母が実家から持ってきたものだった。

 当時、長沙は日本と戦争をしていた国民党が支配しており、適齢期を迎えた母は、支配者だった国民党員の小学校校長と結婚した。金持ちの娘と支配層エリートという当時の理想のカップルだが、この結婚がのちに母の人生、そして、われわれ一家に重くのしかかる。

 国民党との内戦に勝利した後、1949年頃に共産党が中国全土で支配を確立すると、当然、長沙にも新しい"主人"である共産党がやってきた。私の父も、そのひとりだった。

 共産党の登場は、母に不幸をもたらす。前夫は何も罪を犯していなかったにもかかわらず、共産党の秘密党員だった副校長に告発され、刑務所に送られてしまった。母は、やむなく離婚。長沙から南に150キロほど離れた衡陽(こうよう)市の親戚の家に移り住んだ。

 その後、母は知人の紹介で私の父と知り合う。父は約3年間、人民解放軍に所属して兵士として戦った後、長沙にやって来て師範大学で勉強していた。軍人ながら達筆で、小説も書く文人気質の父を、軍が特別に選んで大学に送り込んでいたようだ。本来なら、2年の学習期間が終わると別の地方の部隊に異動しなければならなかったが、母と出会い、なんとか理由を作って長沙に居座ったらしい。

 父は、共産党の政権下では「経歴がいい」人物である。きっと、若い女性にかなりモテたはずだ。それが5歳も年上、しかも、前夫との間に2人の子供がいた母を好きになり、結婚した。息子の私が言うのも何だが、母はそれほど魅力的だった。彼女の写真を今も時折見返すが、私とそっくりのくっきりとした目鼻立ちで、笑うと実にチャーミングな人物だった。

 見た目だけではない。母は国語教師として、当時、中国で深刻な問題だった文盲(文字の読み書きができない人のこと)をなくすことに力を尽くす人でもあった。今になって思えば、父の文人としての才能は作家としての私に、そして、母の社会に貢献する意思は、政治家としての私に引き継がれているように思える。

 結婚した後、両親の間には私を含む2男1女が生まれた。母が前夫との間にもうけた1男1女とともに家族7人、まずまず幸せに暮らしていたわが家に突然襲いかかったのが、文革の嵐だった。

 父は、造反派ナンバー3として活躍していた最初の数年間、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いだった。当時、政治闘争でたくさんの大人が監獄に入れられ、あるいは下放政策によって農村に送られたため、街は通常の機能を失っていた。中国人映画監督のチアン・ウェンが文革をテーマに撮った『陽光燦爛的日子(邦題:太陽の少年)』という映画をご存じだろうか。子供たちが街を支配する、まさにあの世界だ。学校はすべて授業を行えず、私たち一家はしばらく校舎に住んでいたこともあった。校庭で好きなだけ、日が暮れるまで友達と遊んだ。

 ある晩、学校に水道水を盗みに来る人たちが、順番争いで喧嘩になったことがある。見かねた父は例のピストルを取り出し、騒ぎのほうの空に向かって2回発砲した。秩序を取り戻すため立ち上がった父を見て、6歳の私は単純に「すごい!」と感心したものだ。

英雄だった父が「反革命分子」に

 あるとき、どこからかやってきた「歌舞団(バレエ団)」が、私の通っていた小学校を宿舎にして練習していた。文革当時、毛沢東の妻で悪名高い江青(こうせい)が熱心に「革命バレエ」を普及しようとしていて、各地で歌舞団が毛沢東や共産党を讃美する踊りを熱心に練習していた。

 私がこのとき見た歌舞団も、そのひとつだった。彼らの様子を教室のドアの隙間からこっそり見て、その音楽とダンスがいっぺんに好きになった。歌や振り付けを真似して、衣装の帽子がなければ代わりにタオルを頭に巻いて、すっかり彼らの演じる「革命戦士」になりきった。私はのちにバレエダンサーとして湖南省の歌舞団に所属することになるのだが、そのきっかけは明らかに、このときの「のぞき」体験にあった。

 混乱しながらも、それなりに平和だった私の人生は、文革が始まってから5年後の1971年に大きく変わる。

 抗日戦争(日中戦争)当時の共産党軍の有名な将軍で、毛沢東の後継者だった林彪(りんぴょう)がクーデター未遂事件を起こして逃亡、乗っていた飛行機がモンゴルで墜落した。この影響で父は突然逮捕され、大勢が参加した大批判集会「万人大会」で土下座させられることになったのだ。造反派ナンバー3として肩で風を切っていた男にとって、これ以上ない屈辱だ。

 父は「再教育」と称して監獄に送られ、当時会社勤めをしていた母も「学習班」の名目で一時拘束された。家の門には「打倒 現行反革命分子 李正平」と書かれた壁新聞がでかでかと貼られ、しかも、父の名前の上には大きなバツ印が書かれていた。家の前に置いてあった水汲み用の甕には、通りかかったいじめっ子たちがツバを吐いていき、私も、文房具を盗まれるなどの嫌がらせを受けた。

 文革当時、中国は隣国ソ連と深刻な対立に陥り、われわれ庶民はいつ戦争になってもおかしくないという危機感をもっていた。各家庭にもソ連の侵攻に備えて「乾糧(保存食)」が配布されたが、反革命分子のわが家の分は当然なかった。外に出るのがいやで、太陽を避けるように暮らしていたものだ。

 何より、父と母が同時にいなくなり、残された子供たちだけで暮らしていかなければならなかった。

 当時、一番上の兄は20歳になっていて、すでに就職して遠く離れた会社に通っていた。姉は農村に下放され、家に残ったのは4つ上の兄と、当時小学校4年生(10歳)の私、そして1歳下の妹。一番上の兄が夕方、郊外にある会社から必死に自転車をこいで帰ってくるが、昼間は幼い3人だけで過ごさなければならない。

 間もなく母は釈放されたが、"犯罪人"の一家に支払われる給料はない。家にお金はほとんどなく、コメがないときはイモを食べた。今も鮮明に覚えているのは、せっかく炊き上げたご飯を、すべて土間にぶちまけてしまったこと。土で真っ黒になったご飯を泣きながら洗って食べたのは、文字どおり苦い思い出だ。

 とにかく、家にお金がないことがつらかった。新しい服など買ってもらえず、いつも兄や姉のお下がりばかりを着ていた。

 そんなつらい暮らしのなかで、私が歌ったり踊ったりする様子は、父が連行されて泣いてばかりだった母にとって、これ以上ない癒しになっていたようだ。喜ぶ母の様子を見たことも、私がのちに歌舞団でダンサーをめざす動機になった。

 幸いなことに、父は1年半後に「平反(名誉回復)」されて、家に帰ってきた。すると、近所の人たちはそれこそ手のひらを返したように喜び、爆竹を鳴らして父の帰還を迎えた。不払いになっていた給料も1年半分がドンとまとめて手渡され、親戚の中にはそのカネをせびりに来る人たちもいた。

 私に言わせれば、中国の文革も、日本の現在の政局も、本質的には派閥争い、あるいは足の引っ張り合いにすぎない。もちろん、政治的な主義や主張の違いは、表面的にはある。だが、その根底にあるのは、政治家同士の好き嫌いや嫉妬心だ。立場が変われば、今まで冷淡だった人がもみ手しながら近づいてきたり、反対に、都合が悪くなると急に冷たくなったりするのは、中国も日本も同じだ。

 政治家を志す人間がこんな話をして、夢も希望もないと思うかもしれない。日本でも中国でも、政治家は往々にして建前しか語らない(本音を語るのは、もっぱらメディアとのオフレコ懇談だ)。そして有権者は、政治家を「政策に詳しく有能で弁が立って清廉潔白な聖人君子」と思いたがる。当たり前だが、彼らもただの人間だ。「聖人君子」も一皮剝けば、煩悩や嫉妬のかたまりというわけだ。

 もちろん、政治には夢も希望もある。ただ、それを実現するためには綺麗事だけではダメだ。政治の本質である人間同士のドロドロした部分を理解して、時にそういった感情とうまく付き合いながら、夢や理想の実現をめざす。

 文化大革命を肌で体験したことで、私は子供ながらに政治の本質を理解することができた。それは、日本の政治でもおそらく変わらない。

この記事の関連ニュース