世界の耳目を集めた北京での対日戦勝記念式典が終わった。日本と中国の関係は、国レベルで見るかぎり、決してよいとは言えない。だが、個人レベルではどうだろうか。
この数年で撤退した日本企業も少なくないとはいえ、中国には今も13万人近い日本人が住んでいる。仕事で訪れる人もいる。一方の日本はといえば、今や中国人の人気の旅行先だ。それだけでなく、約70万人ともいわれる中国人が、日本で学び、働き、暮らしている。国交正常化から43年を経た両国の紛れもない現実だ。
しかし、約70万人もいるはずの在日中国人たちのことを、多くの日本人はよく知らない。私たちのすぐ隣で、彼らはどう生き、何を思うのか。北京出身で、来日30年になるジャーナリストの趙海成氏は、そんな在日中国人たちを数年がかりでインタビューして回り、『在日中国人33人の それでも私たちが日本を好きな理由』(小林さゆり訳、CCCメディアハウス)にまとめた。
十人十色のライフストーリーが収められた本書から、日本で4つの保育施設を経営する女性の物語を抜粋し、3回に分けて掲載する。株式会社愛嬰の代表取締役、応暁雍(イン・シャオヨン)さんは、1970年に中国浙江省の寧波で生まれ、97年、研修生名義で騙されて来日した。日本への思い、故国への思い、狭間に生きる葛藤――。彼女のライフストーリーから、見えてくる世界がある。
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『在日中国人33人の それでも私たちが日本を好きな理由』
趙海成(チャオ・ハイチェン) 著
小林さゆり 訳
CCCメディアハウス
◇ ◇ ◇
1997年、寧波出身の20代の女性が研修生名義で来日し、騙されてホステスとして働いた。やがてそこを逃げ出し、日本人と結婚して子どもに恵まれる。だが主婦になったものの、育児ストレスや夫との不和で極度のうつ病に。睡眠薬を飲んで子どもと無理心中をはかろうとまで思いつめてしまう。
それから18年たったいま、彼女は日本で正規の保育園を4園経営する実業家になっている。その紆余曲折の経験談を聞けば、誰しもが胸を打たれることだろう。この女性―─応暁雍のストーリーには、取材した私自身もたいへん感動させられた。
以下は、彼女のインタビューをまとめたものである。
騙されてホステスになり、逃げ出した!
私は1970年生まれ。幼少のころからの教育で日本に偏見を持っていたので、日本へ行こうとは考えたこともありませんでした。ある日、同じ工場で働く女性の先輩がふいにいいました。「外国で技術研修を受けるつもりだ」と。電子関係の業種で、当時はそのチャンスがあったのです。そこで彼女につきそって出国労務説明会に参加。自分も試しにと、先輩と一緒に日本の招聘機関の面接試験を受けました。その結果、彼女は落とされ、私は合格してしまったのです。
日本へ行くことに家族はみな反対し、とくに祖母の反対は猛烈でした。というのも祖母は、日本の中国侵略で悲惨な体験をしていたからです。若いころ日本軍に家を爆撃され、一家は逃げまどいました。それから日本人が町に攻めてきたので、防空壕に隠れたそうです。そのことになると、祖母の話は止まりません。でも私は家族の忠告に耳をかさず、頑として出国の意志をまげなかった。なぜなら私は200人以上から選ばれた、3人のうちの1人だったからです。選ばれたからには、もしやご縁があるのかもしれない。まずは行ってみよう、ダメなら戻ればいい。そんな考えで日本にやってきました。
ところが日本に着いてから、騙されていたことに気づきました。どこが電子工場の研修生でしょう。仕事は風俗業のホステスにすぎなかったのです。空港を出ると、迎えにきた車でそのまま田舎のアパートに連れて行かれました。アパートを管理していたのは台湾人です。私たち3人の寧波出身の女の子はそこに落ち着くやいなや、夜にはホステスの仕事に就かされました。
こんなことを家族に知られたら大変です。これからどうしよう。逃げて帰国しよう。日本語が全くわからなくて、どうやって逃げようか。しかもパスポートは取り上げられてしまったし......。やむを得ない状態で、2カ月ほど過ごしました。ある日、バーで初めて中国人客に出会い、ワラをもつかむ思いで、脱出を助けてくれるか尋ねました。その男性はなかなかいい人で「君を連れて出ることはできないが、電車のルートなら教えられる。必要な交通費もあげよう」といってくれました。また、東京にいる友人を紹介してくれ、「困ったことがあれば彼を頼っていいよ」と。こうして私はついに1人で逃げ出したのです。
東京に着くと、その友人が当座の住まいを探してくれましたが、生活するにはお金がいります。日本語もわからないのに、どうして仕事が見つかるでしょう。唯一の仕事は、やはりバーのホステスでした。いっそのこと帰国しよう。でも身分を証明するものさえなくて、どうやって帰国しよう。どうにか帰国しても家族になんて説明するのか、などと思い悩み、結局、日本に残ってから考えようと決めたのです。
脱出してから、例の会社の人間がすぐに私の家族に連絡し、私が逃げたことを伝えました。しかも私が数々の悪事を働いたといい、私に連絡をとってただちに戻ってこさせろ、でないと暴力団や警察が捜し出すぞ、とおどしたのです。恐ろしかった。本当に、日本全国の暴力団と警察が私を捜すのだと思いました。
東京で、ついに私を引き取ってくれるバーを見つけ出しました。台湾人のママが開いたところです。彼女はとてもいい人で、住まいと食事をあてがってくれました。そのバーは家庭的な小さな店で、5、6人も入ればいっぱいのスペースです。ふだんはトイレ掃除や接客などを手伝いました。そこで半年ほど働いて、最初の夫と知り合いました。そのころ彼はバーの顧客で、しょっちゅう来店していたのです。本当にいい人だと思いました。かなり年上でしたが、当時の私にはよりどころが必要だった。それで彼とつきあい始め、結婚、出産に至りました。
わが子を入れた保育園への不満
そのころ私は、日本には保育園や幼稚園が少ないと感じていました。区立の保育園に入れたくても、順番待ちをしなければならない。公立のほうが、費用が安いからでした。やっとのことで子どもを保育園に入れたのですが、言葉が通じないのはやっぱりつらかった。しかもそこでの保育の仕方は、私にはわからないことが多かったのです。
たとえば子どもがおもらしをすると、先生は部屋の外で子どもを椅子に座らせて、母親が来るのを待たせます。私には理解できなかった。先生がなぜ衣類をとりかえてくれないのか、しかも部屋の外に座らせるのか。私は区役所に苦情をいいに行きましたが、彼らも私の話が聞き取れない。ただ、私が怒っているのがわかるだけでした。あまりに多くの苦労がありました。また子守りに関して、夫ともめることもよくありました。
保育園は子どもの入園前に、親を教育します。まず子守りや子育て、子どもの教育がいずれも親の仕事であり、保育園は手助けするだけだと教えます。たとえば園内で子どもが体調をくずします。ふつう1日に2回、子どもの体温をはかりますが、体温が37・5度を超えると保育園は電話で「すぐ迎えにくるように」と親を呼び出します。しかし子どもはいつ病気にかかるかわからない。子どもの急病ですぐ休むような母親を雇いたいという経営者は多くありません。
私はそのころ、息子を2歳で保育園に入れました。入園させたら、アルバイトをするつもりでした。でも全く働けなかった。しかも先ほど述べた、おもらしのあとの保育園の対処法に、私はとまどいを覚えていました。
保育はまず、子どものことを考えなければなりません。親なら当然子どものことを考えるでしょう。実際、親と先生の目標は一致していて、全て子どものため、であるはずです。ですが、私の1人目の子が入園した保育園では、先生は子どもを見るより、自分を守ることのほうが多いように思えました。保育園で何か事故があってはならないからです。
たとえば不要なクレームを避けるため、事前にいっさいの責任が親にあることを押しつけられます。入園前に、子どもがトイレでひとりで用を足せるよう教えなければなりません。自分でできることは自分でやる。もしできなければ、その子は家庭できちんとした教育を受けていないと思われます。
おもらししたまま、ママの迎えを待っているなんてかわいそうなことですが、それも母親への教育なのでしょう。でもママとしては、先生は何をしているのか、どうしてうちの子をずっと座らせていたのか、と疑問に思う。保育園の先生はそれには触れず、子どもに基本的なことを教えていないと母親を責め、自宅でもっとトイレ・トレーニングをするようにといいます。要するに、責任を親に押しつけているのです。
私はその時も感情的になって区役所へ行き、不満をぶちまけましたが、いまではよくわかります。先生としては、どの子も命です。子どもは生タマゴのようなもので、ちょっと当てるとすぐに壊れる。どんなことでも起こり得ます。このような不要なもめごとを避けるため、まずは親を教育し、親自身に至らなかったことを理解させる。このようにすれば保育者への責任追及が難しくなるのです。
日本での子育ては、なんて大変なのかと思いました。手助けしてくれる肉親も友だちもいない私は、育児の悩みを夫にまき散らしました。初めは日本語が話せなかったので、夫もさほど理解できず、私のしかめっ面と興奮状態を目にするだけでした。家族を養うために日々働いて疲れているのに、帰宅してからも妻のにこやかな顔が見られない。彼もうんざりしていました。こうして私たち夫婦の間も、冷めていったのでした。
夫婦関係が悪くなると、自分の精神的なプレッシャーもより大きくなりました。出産してからの1年間で13キロもやせてしまい、髪の毛も3分の1が抜け落ちました。食事ものどを通りません。栄養失調になり、自分はがんなのかと疑いましたが、実際にはうつ病でした。
毎日、息子を連れて公園へ行き、ほかの子が楽しそうなのを目にすると、涙があふれ出しました。すると息子は自分が何か悪いことをしたかと思い、「いい子にするから、ママ泣かないで」などといいます。そのたびにますます心を痛めました。
しかも日本の育児環境は、中国と異なります。中国だったら、親切で世話好きの人が多く、子どもを抱いた若いママが泣いていると「何を気にしているの?」「できることはある?」などと誰かが声をかけてくれます。一方、日本では、気にとめる人は少ない。自分の子に「あっちへ行ってなさい」といい、私たち親子から離れていくようなママもいました。実際、私は公園で1カ月ほど泣いていましたが、1人も声をかけてくれなかったのです。
息子は公園で遊ばなくなり、私にくっついて離れなくなりました。ママを見失うのではと不安を覚えたのでしょう。でも子どもがピッタリくっつくほどに、私の気持ちはへこみました。負のスパイラルに陥っていたのです。
※ママたちの不安を知る、型破りな保育園経営者:第2回はこちら
この数年で撤退した日本企業も少なくないとはいえ、中国には今も13万人近い日本人が住んでいる。仕事で訪れる人もいる。一方の日本はといえば、今や中国人の人気の旅行先だ。それだけでなく、約70万人ともいわれる中国人が、日本で学び、働き、暮らしている。国交正常化から43年を経た両国の紛れもない現実だ。
しかし、約70万人もいるはずの在日中国人たちのことを、多くの日本人はよく知らない。私たちのすぐ隣で、彼らはどう生き、何を思うのか。北京出身で、来日30年になるジャーナリストの趙海成氏は、そんな在日中国人たちを数年がかりでインタビューして回り、『在日中国人33人の それでも私たちが日本を好きな理由』(小林さゆり訳、CCCメディアハウス)にまとめた。
十人十色のライフストーリーが収められた本書から、日本で4つの保育施設を経営する女性の物語を抜粋し、3回に分けて掲載する。株式会社愛嬰の代表取締役、応暁雍(イン・シャオヨン)さんは、1970年に中国浙江省の寧波で生まれ、97年、研修生名義で騙されて来日した。日本への思い、故国への思い、狭間に生きる葛藤――。彼女のライフストーリーから、見えてくる世界がある。
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『在日中国人33人の それでも私たちが日本を好きな理由』
趙海成(チャオ・ハイチェン) 著
小林さゆり 訳
CCCメディアハウス
◇ ◇ ◇
1997年、寧波出身の20代の女性が研修生名義で来日し、騙されてホステスとして働いた。やがてそこを逃げ出し、日本人と結婚して子どもに恵まれる。だが主婦になったものの、育児ストレスや夫との不和で極度のうつ病に。睡眠薬を飲んで子どもと無理心中をはかろうとまで思いつめてしまう。
それから18年たったいま、彼女は日本で正規の保育園を4園経営する実業家になっている。その紆余曲折の経験談を聞けば、誰しもが胸を打たれることだろう。この女性―─応暁雍のストーリーには、取材した私自身もたいへん感動させられた。
以下は、彼女のインタビューをまとめたものである。
騙されてホステスになり、逃げ出した!
私は1970年生まれ。幼少のころからの教育で日本に偏見を持っていたので、日本へ行こうとは考えたこともありませんでした。ある日、同じ工場で働く女性の先輩がふいにいいました。「外国で技術研修を受けるつもりだ」と。電子関係の業種で、当時はそのチャンスがあったのです。そこで彼女につきそって出国労務説明会に参加。自分も試しにと、先輩と一緒に日本の招聘機関の面接試験を受けました。その結果、彼女は落とされ、私は合格してしまったのです。
日本へ行くことに家族はみな反対し、とくに祖母の反対は猛烈でした。というのも祖母は、日本の中国侵略で悲惨な体験をしていたからです。若いころ日本軍に家を爆撃され、一家は逃げまどいました。それから日本人が町に攻めてきたので、防空壕に隠れたそうです。そのことになると、祖母の話は止まりません。でも私は家族の忠告に耳をかさず、頑として出国の意志をまげなかった。なぜなら私は200人以上から選ばれた、3人のうちの1人だったからです。選ばれたからには、もしやご縁があるのかもしれない。まずは行ってみよう、ダメなら戻ればいい。そんな考えで日本にやってきました。
ところが日本に着いてから、騙されていたことに気づきました。どこが電子工場の研修生でしょう。仕事は風俗業のホステスにすぎなかったのです。空港を出ると、迎えにきた車でそのまま田舎のアパートに連れて行かれました。アパートを管理していたのは台湾人です。私たち3人の寧波出身の女の子はそこに落ち着くやいなや、夜にはホステスの仕事に就かされました。
こんなことを家族に知られたら大変です。これからどうしよう。逃げて帰国しよう。日本語が全くわからなくて、どうやって逃げようか。しかもパスポートは取り上げられてしまったし......。やむを得ない状態で、2カ月ほど過ごしました。ある日、バーで初めて中国人客に出会い、ワラをもつかむ思いで、脱出を助けてくれるか尋ねました。その男性はなかなかいい人で「君を連れて出ることはできないが、電車のルートなら教えられる。必要な交通費もあげよう」といってくれました。また、東京にいる友人を紹介してくれ、「困ったことがあれば彼を頼っていいよ」と。こうして私はついに1人で逃げ出したのです。
東京に着くと、その友人が当座の住まいを探してくれましたが、生活するにはお金がいります。日本語もわからないのに、どうして仕事が見つかるでしょう。唯一の仕事は、やはりバーのホステスでした。いっそのこと帰国しよう。でも身分を証明するものさえなくて、どうやって帰国しよう。どうにか帰国しても家族になんて説明するのか、などと思い悩み、結局、日本に残ってから考えようと決めたのです。
脱出してから、例の会社の人間がすぐに私の家族に連絡し、私が逃げたことを伝えました。しかも私が数々の悪事を働いたといい、私に連絡をとってただちに戻ってこさせろ、でないと暴力団や警察が捜し出すぞ、とおどしたのです。恐ろしかった。本当に、日本全国の暴力団と警察が私を捜すのだと思いました。
東京で、ついに私を引き取ってくれるバーを見つけ出しました。台湾人のママが開いたところです。彼女はとてもいい人で、住まいと食事をあてがってくれました。そのバーは家庭的な小さな店で、5、6人も入ればいっぱいのスペースです。ふだんはトイレ掃除や接客などを手伝いました。そこで半年ほど働いて、最初の夫と知り合いました。そのころ彼はバーの顧客で、しょっちゅう来店していたのです。本当にいい人だと思いました。かなり年上でしたが、当時の私にはよりどころが必要だった。それで彼とつきあい始め、結婚、出産に至りました。
わが子を入れた保育園への不満
そのころ私は、日本には保育園や幼稚園が少ないと感じていました。区立の保育園に入れたくても、順番待ちをしなければならない。公立のほうが、費用が安いからでした。やっとのことで子どもを保育園に入れたのですが、言葉が通じないのはやっぱりつらかった。しかもそこでの保育の仕方は、私にはわからないことが多かったのです。
たとえば子どもがおもらしをすると、先生は部屋の外で子どもを椅子に座らせて、母親が来るのを待たせます。私には理解できなかった。先生がなぜ衣類をとりかえてくれないのか、しかも部屋の外に座らせるのか。私は区役所に苦情をいいに行きましたが、彼らも私の話が聞き取れない。ただ、私が怒っているのがわかるだけでした。あまりに多くの苦労がありました。また子守りに関して、夫ともめることもよくありました。
保育園は子どもの入園前に、親を教育します。まず子守りや子育て、子どもの教育がいずれも親の仕事であり、保育園は手助けするだけだと教えます。たとえば園内で子どもが体調をくずします。ふつう1日に2回、子どもの体温をはかりますが、体温が37・5度を超えると保育園は電話で「すぐ迎えにくるように」と親を呼び出します。しかし子どもはいつ病気にかかるかわからない。子どもの急病ですぐ休むような母親を雇いたいという経営者は多くありません。
私はそのころ、息子を2歳で保育園に入れました。入園させたら、アルバイトをするつもりでした。でも全く働けなかった。しかも先ほど述べた、おもらしのあとの保育園の対処法に、私はとまどいを覚えていました。
保育はまず、子どものことを考えなければなりません。親なら当然子どものことを考えるでしょう。実際、親と先生の目標は一致していて、全て子どものため、であるはずです。ですが、私の1人目の子が入園した保育園では、先生は子どもを見るより、自分を守ることのほうが多いように思えました。保育園で何か事故があってはならないからです。
たとえば不要なクレームを避けるため、事前にいっさいの責任が親にあることを押しつけられます。入園前に、子どもがトイレでひとりで用を足せるよう教えなければなりません。自分でできることは自分でやる。もしできなければ、その子は家庭できちんとした教育を受けていないと思われます。
おもらししたまま、ママの迎えを待っているなんてかわいそうなことですが、それも母親への教育なのでしょう。でもママとしては、先生は何をしているのか、どうしてうちの子をずっと座らせていたのか、と疑問に思う。保育園の先生はそれには触れず、子どもに基本的なことを教えていないと母親を責め、自宅でもっとトイレ・トレーニングをするようにといいます。要するに、責任を親に押しつけているのです。
私はその時も感情的になって区役所へ行き、不満をぶちまけましたが、いまではよくわかります。先生としては、どの子も命です。子どもは生タマゴのようなもので、ちょっと当てるとすぐに壊れる。どんなことでも起こり得ます。このような不要なもめごとを避けるため、まずは親を教育し、親自身に至らなかったことを理解させる。このようにすれば保育者への責任追及が難しくなるのです。
日本での子育ては、なんて大変なのかと思いました。手助けしてくれる肉親も友だちもいない私は、育児の悩みを夫にまき散らしました。初めは日本語が話せなかったので、夫もさほど理解できず、私のしかめっ面と興奮状態を目にするだけでした。家族を養うために日々働いて疲れているのに、帰宅してからも妻のにこやかな顔が見られない。彼もうんざりしていました。こうして私たち夫婦の間も、冷めていったのでした。
夫婦関係が悪くなると、自分の精神的なプレッシャーもより大きくなりました。出産してからの1年間で13キロもやせてしまい、髪の毛も3分の1が抜け落ちました。食事ものどを通りません。栄養失調になり、自分はがんなのかと疑いましたが、実際にはうつ病でした。
毎日、息子を連れて公園へ行き、ほかの子が楽しそうなのを目にすると、涙があふれ出しました。すると息子は自分が何か悪いことをしたかと思い、「いい子にするから、ママ泣かないで」などといいます。そのたびにますます心を痛めました。
しかも日本の育児環境は、中国と異なります。中国だったら、親切で世話好きの人が多く、子どもを抱いた若いママが泣いていると「何を気にしているの?」「できることはある?」などと誰かが声をかけてくれます。一方、日本では、気にとめる人は少ない。自分の子に「あっちへ行ってなさい」といい、私たち親子から離れていくようなママもいました。実際、私は公園で1カ月ほど泣いていましたが、1人も声をかけてくれなかったのです。
息子は公園で遊ばなくなり、私にくっついて離れなくなりました。ママを見失うのではと不安を覚えたのでしょう。でも子どもがピッタリくっつくほどに、私の気持ちはへこみました。負のスパイラルに陥っていたのです。
※ママたちの不安を知る、型破りな保育園経営者:第2回はこちら