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ママたちの不安を知る、型破りな保育園経営者(2/3)

ニューズウィーク日本版 2015年9月10日 16時15分

 研修生名義で来日したが、仕事はホステスだった。逃げ出して、日本人と結婚し、子宝に恵まれた。しかし、保育園の方針に納得がいかず、夫婦関係も悪化。そんな失意の状態から、彼女はいかに立ち直り、自ら保育施設を経営するまでになったか――。

 日本では今、約70万人ともいわれる中国人が、学び、働き、暮らしている。しかし、多くの日本人は彼らのことをよく知らない。私たちのすぐ隣で、彼らはどう生き、何を思うのか。ジャーナリストの趙海成氏は、そんな在日中国人たちを数年がかりでインタビューし、『在日中国人33人の それでも私たちが日本を好きな理由』(小林さゆり訳、CCCメディアハウス)にまとめた。

 十人十色のライフストーリーが収められた本書から、日本で4つの保育施設を経営する応暁雍(イン・シャオヨン)さんの物語を抜粋し、3回に分けて掲載する。今回がシリーズ第2回。日本への思い、故国への思い、狭間に生きる葛藤――。彼女のライフストーリーから、見えてくる世界がある。

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『在日中国人33人の それでも私たちが日本を好きな理由』
 趙海成(チャオ・ハイチェン) 著
 小林さゆり 訳
 CCCメディアハウス


※ママたちの不安を知る、型破りな保育園経営者:第1回はこちら

◇ ◇ ◇

無理心中まで考えた私を救ったもの

 1カ月後、涙も枯れそうになり、死ぬことまで考えました。どうやって死のうか? マンションからの飛び降り、電車への飛び込み、ついには睡眠薬自殺まで考えました。病院に行きさえすれば1日3錠処方される。10軒回れば30錠だ。一気に飲んだらおしまいになる。でも、四六時中くっついている息子のことに思い至りました。あっちで遊ぶよういっても、離れようとしません。死ぬ時間もないと思いました。そしてついに子どもを道連れにして死のうかと考えた。どのみち息子は離れないし、私が死んでも残されたこの子が心配になるからです。

 集めた睡眠薬は山のようになり、ある晩、明日こそ死のうと決めました。いったん決めたら、精神的プレッシャーもなくなりました。子どもにも笑顔がもどり、いっしょに絵を見て話したり、遊んだりしました。いつもは眠れないのに、その晩はぐっすり眠ることができました。

 翌朝めざめると、頭がスッキリしていました。そして、もしかすると日本には私のようなママがたくさんいるのかもしれない、なんなら死ぬ前に、日本で発行されている中国語新聞にメッセージ広告を出してみようと思い立ちました。そこで数千円を使い、中国語新聞3紙にメッセージを掲載したのです。「あなたは日本で子育ての悩みがありますか? あるなら私に電話をください」。連絡方法も記しました。

 結果、そのメッセージが私を救ってくれたのです。掲載後、多くの中国のママが電話や携帯メッセージをくれたほか、1カ月のうちに50通の手紙を受け取りました。みな私と同じような悩みを抱えており、あるママの事情はさらに深刻でした。

 自分の悩みが急に小さくなったように思えました。180度がらりと転換したのに等しく、自分はこの数カ月間何をしていたのか、もっと深刻でもっとつらい人も多いのに、と反省しました。あるママは、子どもの父親が誰かすらわからず、児童福祉の手当も受けられずにいました。でも私の夫は日本人で、少なくとも子どもの医療費、養育費の補助などの心配はありません。私は精神状態がよくなかったので、「足るを知る」ことが全くわかっていなかったのです。まがりなりにも生活上の心配がないのに、毎日死ぬだの生きるだのと余計なことを考えていました。

自宅で託児所、そして初めての保育園運営へ

 そこで私は、何かやろうと決心しました。あるママの場合は1人で子どもを抱え、夜勤もあるのに、夜間託児所が見つかりませんでした。彼女を助けないわけにはいかない。私はママたちにいいました。

「お金はいりません。もし用事があるなら、子守りを手伝いますよ。プロではないし自分の子育てもうまくありませんが、お子さんを1人にするよりいいと思えば、うちに連れてきてください。どうせ子守りをするのだから、構いませんよ」

 ちょうど息子も孤独だったので、仲間を見つけていっしょに遊ぶのもいいと思いました。この数カ月、泣いてばかりいたことで息子に与えた心の痛手が治ることを、私も望みました。

 そうして、わが家に3、4人の子どもが来るようになりました。ある子は昼に、ある子は夜にやってきて、うちの子といっしょに食べたり、入浴したりしました。子守りのスキルは高くありませんが、ほかの子も自分の子と同じように接しました。私自身、彼女たちに感謝の気持ちでいっぱいでした。この子たちが来てからうちの子も明るくなり、以前のように四六時中くっついていることもなくなりました。息子のほうも母親に笑顔が戻ったのを見て、安心したのでしょう。おのずから友だちと遊ぶようになりました。こうしてわが家は、ミニ託児所になったのです。

 でも、ミニ託児所の寿命は長くはありませんでした。半年たったころ、夫が反対し始めたのです。毎日、昼夜を問わず中国人が出入りして、わが家のまともな生活に影響を及ぼしたのはもちろん、近所から白い目で見られてしまったからです。夫は期限を決め、それまでに「子どもたちをもう来させないようにしてくれ」といいました。やむを得ずママたちと相談し、託児ができるのはその月までとなりました。

 もともと夫婦の関係もあまりよくなく、この件でさらに悪化するのは避けたかった。と同時に夫にも相談し、「子どもたちも困っている。もし来月から来られなくなったら、ママたちにしても適当な保育園を見つけるのは難しい」と話しました。そのころ夫はいくつかのマンションを貸し出していて、ちょうど2階のテナントが空いていたので、「じゃあ、そこを使いなさい。1年間だけだ。でも家賃は払ってもらうよ」といってくれました。

 それから、今度は家賃や光熱費などの経費についてママたちと相談しました。その半年というもの、私が無償で手助けし、子どもたちをお風呂に入れ、動物園や遊園地に連れて行った。物を買い与えたこともある。それならいくらか納めるのも当たり前のこと。お金を払ったとしても安心して仕事に向かえる。経費を払えば、もしや日本人の先生を呼んで、子どもたちに日本語教育ができるかもしれない、などなど。物わかりのいい親たちで、さまざまな意見が出ました。

 お金のやりとりが発生すれば、そこはホームスタイルの託児所ではなく、ミニタイプの保育園になります。親たちの意見ももっともで、中国語だけでなく日本語も学ばなければならない。しかも保育の経験のある先生を呼んで教育すべきだ、と私も大いに賛成しました。

 こうして私の初めての保育園が、当時の夫が所有するマンションの2階に開設されたのです。約120平方メートルの広さで、もともと内装は済んでいました。バスルームとキッチンの設置は、夫が資金的援助をしてくれましたが、先生を招く費用〔給料〕や家賃、光熱費は、私たちが捻出しなければなりませんでした。

 私たちの保育園が開園し、その結果は上々でした。子どもは方々からやってきて、場所は東京でしたが、川崎、横浜、名古屋から、最も遠いところでは広島から来た子もいました。いずれも中国人です。経費がなく広告掲載もしませんでしたが、当初はママからママへの紹介で広まりました。預かる子どもは5人からスタートし、半年足らずで20人以上に増えました。その上、24時間対応です。みんな遠方からですし、ママたちは働かなければならず、毎日の送り迎えは不可能です。そこで平日は子どもをこちらに預けて、金曜夜に迎えにくると日曜夜にまた送り届ける、というスタイルが一般的でした。

 初めのころ保育費は安く、食費・宿泊費込みで1カ月1人あたり6万円でした。さらに経験豊かな保育士を招いて、子どもたちにたくさんのことを教えました。私1人では20人以上も見られませんし、夜、1人になるのも怖いので、中国人のヘルパーさんを雇いました。こうして3人態勢で子どもを見るようになりました。彼女たち2人の給料は、計40万円余り。さらに光熱費や家賃を引いて、最後に残ったのが私自身の給料でした。収入を得るとは思ってもみなかったので、それだけでもう満足でした。ママたちが子どもを迎えに来たときのうれしそうな表情を見ると、自分がやっていることは意義があると思ったものです。

看板を掲げると区役所がやってきた

 保育園は当初、親から親へと口コミで広まったため、宣伝は不要でした。その後、ママたちから「場所がわかりにくい」といわれ、多くの場合は駅まで迎えに行きました。時間もかかるし、先生もそうしょっちゅう迎えには行かれません。先生が1人減ると、子どもたちのリスクが増えます。そこで保育園のある2階の窓の上に、看板を掲げようと考えました。どんな名前にしようか。「愛嬰保育園」〔現・愛嬰幼保学園〕にしよう。子どもは宝、子どもを愛するべきでしょう......。

 こうして、愛嬰保育園の看板が掲げられました。結果、区役所の人がやってきて、開口一番にいいました。「この保育園には認可証がありますか? ないなら閉鎖です」。日本には規定があり、認可保育施設を開く場合、国や地方自治体の設置基準に則していなければなりません。

 基準を見てみると、私たちの保育園は1つも適合していなかった。保育園を開設するには、まず東京都福祉保健局での事前説明会へ行き、それから設置認可にかかわる申請書を用意します。さらに計画書を作成し、提出するときには保育園の設備図面を添付しなければなりません。子どもや資格を持つ保育士の数、トイレや調理室、子どもの数に応じた保育室のスペースの確保なども定められています。給食や宿泊を含む場合は、食品衛生法に基づく許可や栄養士・調理師の確保も必要です。いずれにせよ規定は膨大な量でした。どうしたらいいのでしょう。

 区役所の人にいいました。「すでに子どもを受け入れてしまい、保育費も納めてもらった。急に『くるな』とはいえません。もう開園して先生も雇ったのに、すぐ解雇するわけにもいかない。あの人たちにも生活があるのですから!」。それで区役所の人はこういいました。「こちらは特殊なケースです。あなたは外国人ですし、当区の規定も知らなかった。ではこうしましょう。1年間の改善期間を与えますので、期限までに必ず基準に適合するようにしてください。来年のいまごろ、抜き打ち審査にうかがいます。それから納税もしてもらいますよ。脱税は違法ですから」

 それからの1年間、1つひとつ改善を進めました。改善したところは報告書に書きしるし、ファクスで区役所に送りました。やがて期限がきて、抜き打ち審査がおこなわれましたが、基準に合わないところが数多く見つかりました。たとえば耐震対策で、多くのものは転倒・落下しないように固定しなければなりませんでした。

 また閉鎖を求められるのかと、興奮した私はいいました。「もうこんなに多くの改善をした。もっと改善が必要であれば時間をください。必ず基準通りに改善します。とにかく、子どもたちを見捨てることはできない。母親はみな中国人ですが、多くの父親は日本人で、離婚しただけなのです。だからシングルマザーが多いのです。この保育園がなければ、彼女たちは生活や仕事のしようがなく不幸になります。ママが不幸なら、子どもは幸せになれますか?」

 私は、以前に育児ストレスで自殺を考えたことまで話しました。気持ちが高ぶっていたので、涙や鼻水まで流れ出しました。彼らも心を動かされたのかもしれません。最後のチャンスを与えてくれ、3カ月以内に全て改善するようにと応じてくれたのです。その後、さらに努力し設置基準の条項を1つひとつクリアして、3カ月後には全ての改善を完了。ついに基準に達し、認可保育施設になりました。

 私たちの保育園は、スタートからママたちの「心配を取り除き、困難を解決する」ことを出発点としています。できるだけ必要とされる保育園を作っていく。多くのママが昼に子どもを預けて、夜には迎えに来たいと望んでいます。そこで保育園を新宿に1カ所、続いて池袋、板橋、埼玉の川口市と、現在は計4カ所で運営しています。預かっている子どもは合わせて250人以上、先生は48人になりました。

※ママたちの不安を知る、型破りな保育園経営者:第3回はこちら

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