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神仏も恐れぬ宝物泥棒、国境の島が怯える韓国資本

ニューズウィーク日本版 2015年9月16日 16時30分

 朝鮮半島と日本列島との間に対馬がある。有史以来、ずっと歴史の荒波と政治のはざまでもまれてきた地政学上の要衝だ。

 長らくこの地を支配してきた領主、宗氏の歴代当主には2つの顔があった。半島の王朝から使節が訪れると、臣下の礼を演じて喜ばせる。京都や江戸からの役人に対しても固い忠誠の態度を示す。それだけではない。時折、マンチュリア(満州)の遊牧民が馬を乗り捨て船を漕ぎ出し、対馬を荒らし回ることもあった(11世紀の刀伊[とい]来寇)。

 小さな島ながら、国際情勢の風雲に慣れっこの島民たちはしたたかに生きてきた。島には豊富な文化財が蓄積され、古文書だけでも数カ国語から成る宝物が残されている。

「倭人」を装った朝鮮の民

 対馬に伝わる文化財を奪い取って半島に持ち帰る「義賊」が韓国で好意的に受け止められているらしい。12年に島の海神神社の御神体で新羅仏と伝えられる「銅造如来立像」と、観音寺の本尊「観世音菩薩坐像」の2体がいつの間にか持ち去られて、「母国の懐に戻される」珍事件が発生。中世に日本人(倭)を名乗り東シナ海で暴れ回った海賊「倭寇」によって半島から強奪された文化財を取り戻した「民間の義勇行為」と、韓国の民衆は喜んだ。

 如来立像は8世紀の作とされ、神道と仏教が融合する日本独特の信仰を具現した神社を鎮守していた。観世音菩薩坐像も古文書などから、いずれの仏像も倭寇が活発化する以前のもの、というのが日本の専門家たちの見解だ。

 そうした学問的な常識を無視した韓国人たちが次々と対馬に現れ、半ば公然と寺や神社から経典と仏像を運び出そうとする豪胆な者まで出る始末。対馬から出国寸前に逮捕される事件がここ数年に複数報道されている。

 倭寇はモンゴル帝国が日本に遠征した「元寇」への反動として湧き起こった。13世紀後半、モンゴルと中国、それに半島から成る連合軍が襲来。大和の侍たちは苦戦を強いられたが、運よく台風か熱帯低気圧による暴風雨が「神風」に転じたことで救われた。

 元寇は一方で大陸への強烈な憧れを生んだ。そこから時として武力的な冒険も伴いながら、倭寇は東アジア沿岸地帯への攻略を始める。もっとも朝鮮の正史『朝鮮王朝実録』は、倭寇には「倭人がわずか1~2割程度で、大半は本国の民が倭服を着て乱を起こしている」と記録している。倭寇を退治するには生活の困窮に陥った「本国の民」、すなわち高麗王朝の臣民の生活を改善するのが一番と、かの国の大臣たちも献策していた。これが14世紀後期から15世紀初めに勃興した前期倭寇の実態だ。

 倭寇は一種の生活手段だった。16世紀の後期倭寇と称された集団も大半は日本人ではなく、中国南東部の福建人や広東人の割合が大きかった。平時に貿易をし、不穏な時には略奪もする。明朝中国は自国民の海上活動を制限(海禁)しており、日本人と自称すれば尚武の名声も響くので、倭寇の名がはやった。

 もっとも、海原を自由に行き来する男たちに国境意識はなかった。17世紀の明末の名高い海賊・鄭芝龍(ていしりゅう)は日本の平戸藩士の娘を妻にしていた。その妻が産んだ国姓爺(こくせんや)(鄭成功[ていせいこう])はオランダ人の統治するフォルモサ(台湾)を占領して清朝と対峙した。このように、人が動けば物も流転する。歴史をすべて「侵略」「略奪」と解釈して、目の前の政治的な目的で過去の遺産を盗む行為は、そもそも先人の遺志に反しているのではなかろうか。

 文化財の窃盗だけではない。私は昨年2月に対馬を一周する旅をした。自衛隊駐屯地周辺の土地が韓国資本に取得される状況が続くことにも、地元住民は危機感を抱いている。寺社に出没する個人だけでなく、巨大な資本による戦略的な進出に対し、日本政府がいかなる対策を取るかが注目されている。

 如来立像は7月に対馬に帰郷したが、観世音菩薩坐像は半島に「抑留」されたままだ。


[2015.9.15号掲載]
楊海英(本誌コラムニスト)

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