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無宗教のアメリカ人記者がイスラム教に心の平穏を見出すまで

ニューズウィーク日本版 2015年10月19日 16時25分

『コーランには本当は何が書かれていたか?』(カーラ・パワー著、秋山淑子訳、文藝春秋)という邦題は、これがあたかも"コーラン解読書"であるような誤解を生むことになるかもしれない(原題は『IF THE OCEANS WERE INK』)。だが読者はまず、本書を読めばコーランに書かれていることがすべてわかるわけではないということを意識する必要がある。

 では、ここにはなにが書かれているのか? 


西洋の主流のメディアの側には、イスラム教徒の経典がじっさいに何を言っているかを知ろうとする欲求がほとんどない。私は一七年間イスラム世界について雑誌記事を書いてきたが、編集者から、コーランそのものやイスラム教徒のコーラン理解について、書くことはおろか、引用することすら求められたことがなかった。(22ページより)


 こう記す著者は、「ニューズウィーク」誌の記者として活動してきた"無宗教の"アメリカ人ジャーナリストである。審美的で情緒的な理由から、つまり「旅に出れば元気になる」という父親の考えに基づき、テヘラン、カブール、デリー、カイロなどのイスラム圏で暮らし、大学ではイスラム社会について研究したものの、「信仰心は皆無である」という立脚点にいる。

 しかし記者として記事を書きはじめると、上記のような現実に直面したというわけだ。求められるのは、ニュースになった暴力的な指導者たちの話や政治的見解が中心(あるいはモスクの建築意匠やヤッピーのイスラム教徒、イスラムのヘッジファンドやハラールの栄養ドリンクについて)。

 だからイスラム教徒が影響を受けたと称している信仰についても、そしてコーランについてもまったく書くことがなかったのだという。そこに、本書の原点がある。こうした現実に違和感を感じた著者は、コーランについて教わったイスラム学者のモハンマド・アクラム・ナドウィー師(以下アクラム)との交流を通じ、コーランを理解しようと試みるのだ。そしてその過程において、多くを知ることになる。

 たとえばタリバンは"禁欲主義的反西洋主義の戦士"とほぼ同義だ。しかし彼らとの交流のなかで著者は、イスラム教徒も私たちと同じように株式を買ったり、ネットを使ったり、ジムに行ったり、栄養ドリンク(ハラール食品ではあるが)を飲んだりするという「当たり前」の現実を知る。

 イスラム教は女性に対して冷酷な宗教だと認識されているが、実際にはコーランにおいて女性と男性は完全に平等であり、しかもイスラム教の形成期には9000人もの女性学者が活躍していたという事実が、アクラムによって明らかにされる。

 コーランでは聖母マリアが「マルヤム」として登場し、アクラムはマルヤムのことを「『アッラーのために』自らたいへんな役割を負った」と説明する。そしてイエスは神の子ではなく、だから「十字架にも掛けられておらず、生きたまま天にあげられた」と考えられている。

 挙げていけばきりがないが、こうして著者はアクラムとの交流を通じ、いままで明かされてこなかったイスラムの、そしてコーランの"真実"と直面していく。つまりここに描かれているのは、そのプロセスなのだ。しかもそれらはトピックスとして劇的に、感情的に語られるのではなく、あくまで淡々と、客観的に示されていくことになる。

 とはいえ、宗教についての考え方は人それぞれだし、非常にセンシティブな問題でもある。私もコーランは読んだことがないし、そもそもイスラム教やコーランについて非信者としての立場から完全に理解しようなどということ自体がナンセンスであることも理解している。

 しかし、だからこそ本書は、これまでの無知や偏見について考えなおす余地を読者に与えるだろう。そしてそれは、なんらかの平穏な感情を与えてくれることになるかもしれない。それは、著者にしても同じだということが、終章を読むとわかる。


私は改宗しなかった。しかし、(中略)コーランを勉強したこの一年は、私に数多くの恩寵の時をもたらしてくれた。コーランを読みながら、「諸天と地とその間のものの主にして、諸々の(光の)昇る処の主」(コーラン第三七章五節)の姿を思い浮かべるとき、私は自分という存在の小ささを思い、そのことに慰められた。信者ではなくとも、コーランの授業は私にとって穏やかな入り江のようで、私はそこに日常生活からの避難所を見出した。(398~399ページより)


 これはあくまで個人的な感情だが、「コーランの授業は私にとって穏やかな入り江」というフレーズを目にしたとき、私自身のなかにも"穏やかななにか"が通りすぎたような気がした。とはいえ本書を読了したからといって、イスラム教やコーランを理解できたなどとははなから考えていない。しかし「信者ではなくとも」という部分が強いインパクトを放つ上記の引用部分には、イスラム教、もしかしたらすべての宗教に対して考えるべき大切なポイントが隠れているようにも感じたのだ。

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『コーランには本当は何が書かれていたか?』
 カーラ・パワー 著
 秋山淑子 訳
 文藝春秋

印南敦史(書評家、ライター)

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