「イスラーム国」やシリア難民のヨーロッパ流入、ロシアのシリア内戦への介入など、数々の戦争報道が飛び交うなか、イスラエル・パレスチナの話題はすっかり影に隠れた感がある。だが、その間イスラエルの入植が止まったわけでも、パレスチナ人の憤懣が収まったわけでもなく、ずっと衝突は続いてきた。
それが急に、メディアの注目を浴びたのは、10月に入ってからである。イスラエル政府は、9月中旬のユダヤ暦正月のために、エルサレムのアルアクサーモスクからパレスチナ人を排除した。これをきっかけとして、パレスチナ人とユダヤ人入植者の間の衝突が頻発したのである。10月以降25日までの間に、イスラエル8人、パレスチナ56人が命を落とし、イスラエル83人、パレスチナ側2000人以上が負傷した。メディアのなかには、「とうとう第三次インティファーダが始まった」と報じるものも少なくない。
衝突の激化に国際社会が動いたのは、10月20日。パン・ギムン国連事務総長が突然エルサレムを訪問し、同日にはネタニヤフ・イスラエル首相と、翌日にはアッバース・パレスチナ自治政府議長と会談した。翌日には、ユネスコの執行委員会が、世界遺産である聖地の管理を巡ってイスラエルを批判する決議を採択している。さらに22日にはケリー米国務長官がドイツでネタニヤフ首相と会った後、23日にはウィーンでロシア、EU、国連と対応を協議した。
だが、いったい何が問題になっているのか。何故突然、対立がエスカレートしたのか。
根本的な問題は、1993年のオスロ合意以降も一向に退去しないどころか、ますます増加するイスラエルの入植地にある。入植地住民とそれを「守る」イスラエルの治安部隊に対して、それらに生活空間を脅かされ続け、将来も今も展望の見えない環境に置かれた西岸やガザ、東エルサレムなどのパレスチナ人は、過去二回のインティファーダで憤懣を爆発させてきた。2001年以降は、圧倒的なイスラエルの力と国際社会の無視の前に、パレスチナ人の抵抗は押しつぶされ、数年毎に勃発するガザでのハマースによるイスラエル攻撃を除けば、あたかも勝負はついたかのようだった。だが、それでもパレスチナ各地で、反発と抵抗と不満の爆発は繰り返し発生していた。
今回の衝突は、すでに昨年の同じ時期にその芽が生まれていた。2014年10月、すべてのイスラーム教徒にとっての聖地、アルアクサーモスクがある「神殿の丘」を、「イスラエルの手に取り戻せ」と主張するユダヤ人ラビが撃たれた。その結果イスラエルは、アルアクサーモスクを、占領下に入れて以来始めて閉鎖した。このことは、イスラエルがエルサレムにおけるイスラームの聖地を破壊し、ユダヤ化することを狙っている、との疑念をパレスチナ人の間に強めることになった。アルアクサーモスクが閉鎖された昨年10月末、アッバース・パレスチナ自治政府議長はこれを「宣戦布告だ」と表現した。
この緊張状態を解消するために、11月にはケリー米国務長官がアッバースやネタニヤフ、ヨルダンのアブダッラー国王と会談した。翌日にはイスラーム教徒のアクサーモスクでの礼拝が認められ、事態は沈静化するかと思われた。だが、今年8月初め、イスラエル政府は再びパレスチナ人のアルアクサーモスクへのアクセスを制限する。そして9月、冒頭に指摘したように再びモスクが封鎖され、衝突が激化したのである。
この衝突の激化をなんと呼ぶか。前述したように、「第三次インティファーダ」と呼ぶメディアがある一方で、アルアクサーモスクがきっかけで起きたことから「アルアクサーインティファーダ」と呼ぶものもいる。2000年に発生したインティファーダが、当時野党党首だったアリエル・シャロンの神殿の丘訪問に挑発されて沸き起こった、という史実とダブらせて、アルアクサーモスクに対するイスラエルの挑発がいつも紛争の種にある、との意味を込めている。パレスチナのハマースはといえば、「アラブの春」の際に盛んに名づけられた「怒りの日々」という呼称を使う。「アラブの春」が、独裁に対する市民、大衆の怒りを土台に展開したという、市民社会的なイメージを強調してのことだ。一方で、パレスチナ人がイスラエル市民をナイフで切りつける、という事件を取り上げて、「ナイフ・インティファーダ」という名前も出回っている。
この「蜂起」、名前がまだないだけではなく、これまでのインティファーダとさまざまな点で差異が見られる。まず、パレスチナ側もイスラエル側も、組織的なものというより住民レベルの個別的衝突が同時多発的に起きている、ということ。イスラエル側は入植者の独断的行動が目立つし(イスラエルの元議員で和平派のウリ・アブネリは、「イスラエルで今一番力を持ち国家を乗っ取ろうとしているのは、イスラエルの入植者たちだ」と苦言を呈している)、パレスチナ側は、ハマースもPLOも指導者として頼るに足らず、と公言してやぶさかでない若者が中心だ。
二つ目の特徴は、蜂起の主体となるパレスチナ人の多くが若者で、オスロ合意を知らない世代だということだ。1993年に結ばれたオスロ合意に、期待することもがっかりすることもない、ただ最初から失敗のなかで生活してきた。彼らにとっては、イスラエルとの和平は何の良いイメージもない。
また、西岸やガザなどのパレスチナ自治地域のパレスチナ人だけではなく、イスラエル国内のイスラエル国籍を持つパレスチナ人の間で蜂起が広がっていることも、特徴のひとつだ。こうした若者たちが、ツイッターや動画サイトを駆使して、既存組織に拠らない行動の広がりを実現している。イスラエルのリクード党員がこの状況を表現してこう言った。「ビン・ラーディンとザッカーバーグが一緒になったようなもの」。
この、名前がまだない蜂起に、国際社会は何か解決策を提示できるだろうか。イスラエルとパレスチナ、ヨルダンとの協議を終えたケリー国務長官は、「事態の鎮静化に向けて、新たな措置を取ることで合意した」と述べた。だが、PLOもハマースも知ったことかとするパレスチナの若い世代や、国家をのっとらんばかりの勢いのイスラエルの入植者といった、本当の蜂起の当事者にこの「合意」が届くだろうか。
むしろ、蜂起の根幹には、当事者の声を掻き消してきた国際社会や域内諸国へのあきらめがある。この間、周辺アラブ諸国はISやシリア内戦にかまけて、パレスチナに耳を傾けてこなかった。それどころか、いまやイスラエルと湾岸アラブ産油国の接近は、公然の事実である。湾岸首長国が保有する航空会社は、堂々とイスラエル領海上空を飛行する。自由シリア軍らしき負傷兵士が、ゴラン高原を経由してイスラエルで治療を受ける。
「周辺諸国が自国の利害にかまけていたからこそ、パレスチナ問題でイスラエルを利する形になったんじゃないか」、と批判するアラビア語紙もないではない(ヨルダンのドゥストゥール紙やレバノンのムスタクバル紙など)。だが一方で、サウディアラビア資本の英字紙「アラブ・ニュース」は、言う。「暴力では解決しない、インティファーダは必要ない」(10月15日)。「インティファーダは必要ない」なら、解決のためにアラブ諸国や国際社会が何をしてくれるのか? その回答がない限り、蜂起は終わらない。
それが急に、メディアの注目を浴びたのは、10月に入ってからである。イスラエル政府は、9月中旬のユダヤ暦正月のために、エルサレムのアルアクサーモスクからパレスチナ人を排除した。これをきっかけとして、パレスチナ人とユダヤ人入植者の間の衝突が頻発したのである。10月以降25日までの間に、イスラエル8人、パレスチナ56人が命を落とし、イスラエル83人、パレスチナ側2000人以上が負傷した。メディアのなかには、「とうとう第三次インティファーダが始まった」と報じるものも少なくない。
衝突の激化に国際社会が動いたのは、10月20日。パン・ギムン国連事務総長が突然エルサレムを訪問し、同日にはネタニヤフ・イスラエル首相と、翌日にはアッバース・パレスチナ自治政府議長と会談した。翌日には、ユネスコの執行委員会が、世界遺産である聖地の管理を巡ってイスラエルを批判する決議を採択している。さらに22日にはケリー米国務長官がドイツでネタニヤフ首相と会った後、23日にはウィーンでロシア、EU、国連と対応を協議した。
だが、いったい何が問題になっているのか。何故突然、対立がエスカレートしたのか。
根本的な問題は、1993年のオスロ合意以降も一向に退去しないどころか、ますます増加するイスラエルの入植地にある。入植地住民とそれを「守る」イスラエルの治安部隊に対して、それらに生活空間を脅かされ続け、将来も今も展望の見えない環境に置かれた西岸やガザ、東エルサレムなどのパレスチナ人は、過去二回のインティファーダで憤懣を爆発させてきた。2001年以降は、圧倒的なイスラエルの力と国際社会の無視の前に、パレスチナ人の抵抗は押しつぶされ、数年毎に勃発するガザでのハマースによるイスラエル攻撃を除けば、あたかも勝負はついたかのようだった。だが、それでもパレスチナ各地で、反発と抵抗と不満の爆発は繰り返し発生していた。
今回の衝突は、すでに昨年の同じ時期にその芽が生まれていた。2014年10月、すべてのイスラーム教徒にとっての聖地、アルアクサーモスクがある「神殿の丘」を、「イスラエルの手に取り戻せ」と主張するユダヤ人ラビが撃たれた。その結果イスラエルは、アルアクサーモスクを、占領下に入れて以来始めて閉鎖した。このことは、イスラエルがエルサレムにおけるイスラームの聖地を破壊し、ユダヤ化することを狙っている、との疑念をパレスチナ人の間に強めることになった。アルアクサーモスクが閉鎖された昨年10月末、アッバース・パレスチナ自治政府議長はこれを「宣戦布告だ」と表現した。
この緊張状態を解消するために、11月にはケリー米国務長官がアッバースやネタニヤフ、ヨルダンのアブダッラー国王と会談した。翌日にはイスラーム教徒のアクサーモスクでの礼拝が認められ、事態は沈静化するかと思われた。だが、今年8月初め、イスラエル政府は再びパレスチナ人のアルアクサーモスクへのアクセスを制限する。そして9月、冒頭に指摘したように再びモスクが封鎖され、衝突が激化したのである。
この衝突の激化をなんと呼ぶか。前述したように、「第三次インティファーダ」と呼ぶメディアがある一方で、アルアクサーモスクがきっかけで起きたことから「アルアクサーインティファーダ」と呼ぶものもいる。2000年に発生したインティファーダが、当時野党党首だったアリエル・シャロンの神殿の丘訪問に挑発されて沸き起こった、という史実とダブらせて、アルアクサーモスクに対するイスラエルの挑発がいつも紛争の種にある、との意味を込めている。パレスチナのハマースはといえば、「アラブの春」の際に盛んに名づけられた「怒りの日々」という呼称を使う。「アラブの春」が、独裁に対する市民、大衆の怒りを土台に展開したという、市民社会的なイメージを強調してのことだ。一方で、パレスチナ人がイスラエル市民をナイフで切りつける、という事件を取り上げて、「ナイフ・インティファーダ」という名前も出回っている。
この「蜂起」、名前がまだないだけではなく、これまでのインティファーダとさまざまな点で差異が見られる。まず、パレスチナ側もイスラエル側も、組織的なものというより住民レベルの個別的衝突が同時多発的に起きている、ということ。イスラエル側は入植者の独断的行動が目立つし(イスラエルの元議員で和平派のウリ・アブネリは、「イスラエルで今一番力を持ち国家を乗っ取ろうとしているのは、イスラエルの入植者たちだ」と苦言を呈している)、パレスチナ側は、ハマースもPLOも指導者として頼るに足らず、と公言してやぶさかでない若者が中心だ。
二つ目の特徴は、蜂起の主体となるパレスチナ人の多くが若者で、オスロ合意を知らない世代だということだ。1993年に結ばれたオスロ合意に、期待することもがっかりすることもない、ただ最初から失敗のなかで生活してきた。彼らにとっては、イスラエルとの和平は何の良いイメージもない。
また、西岸やガザなどのパレスチナ自治地域のパレスチナ人だけではなく、イスラエル国内のイスラエル国籍を持つパレスチナ人の間で蜂起が広がっていることも、特徴のひとつだ。こうした若者たちが、ツイッターや動画サイトを駆使して、既存組織に拠らない行動の広がりを実現している。イスラエルのリクード党員がこの状況を表現してこう言った。「ビン・ラーディンとザッカーバーグが一緒になったようなもの」。
この、名前がまだない蜂起に、国際社会は何か解決策を提示できるだろうか。イスラエルとパレスチナ、ヨルダンとの協議を終えたケリー国務長官は、「事態の鎮静化に向けて、新たな措置を取ることで合意した」と述べた。だが、PLOもハマースも知ったことかとするパレスチナの若い世代や、国家をのっとらんばかりの勢いのイスラエルの入植者といった、本当の蜂起の当事者にこの「合意」が届くだろうか。
むしろ、蜂起の根幹には、当事者の声を掻き消してきた国際社会や域内諸国へのあきらめがある。この間、周辺アラブ諸国はISやシリア内戦にかまけて、パレスチナに耳を傾けてこなかった。それどころか、いまやイスラエルと湾岸アラブ産油国の接近は、公然の事実である。湾岸首長国が保有する航空会社は、堂々とイスラエル領海上空を飛行する。自由シリア軍らしき負傷兵士が、ゴラン高原を経由してイスラエルで治療を受ける。
「周辺諸国が自国の利害にかまけていたからこそ、パレスチナ問題でイスラエルを利する形になったんじゃないか」、と批判するアラビア語紙もないではない(ヨルダンのドゥストゥール紙やレバノンのムスタクバル紙など)。だが一方で、サウディアラビア資本の英字紙「アラブ・ニュース」は、言う。「暴力では解決しない、インティファーダは必要ない」(10月15日)。「インティファーダは必要ない」なら、解決のためにアラブ諸国や国際社会が何をしてくれるのか? その回答がない限り、蜂起は終わらない。