『私の1960年代』(山本義隆著、金曜日)は、1960年に東京大学に入学した著者が「山崎プロジェクト(10・8山﨑博昭プロジェクト)」の活動の一環として2014年10月4日に行った講演「私の一九六〇年代――樺美智子・山﨑博昭追悼――」の内容に加筆したものである。ちなみに山﨑プロジェクトとは、1967年10月8日の羽田闘争の際、機動隊と衝突して命を落とした京大生、山﨑博昭氏を追悼するものだという。
著者は科学史家で、東大闘争全学共闘会議の元代表である。これまで全共闘時代の経験については一切語らず、取材にも応じなかったそうだが、本書には、1960年の安保闘争から、ベトナム反戦闘争、1970年の安保闘争、果ては科学技術や原発についての考え方までが、実体験に基づいて克明に語られている。
私の一九六〇年代は、物理学と数学を学ぶために大学に入ってから大学の研究室を去るまでの一〇年間で、その間の生活の軸は物理学と数学の学習にあったのですが、本書で語ることは、その軸としての物理学と数学ではなく、結局大学を離れてゆくことになった、街頭と大学での政治的・社会的な経験とその過程で私が考えたことがらについてであります。(4ページ「はじめに」より)
1962年生まれ、つまり年端のいかない子どもだった私の目から見ても、全共闘世代は"ちょっとめんどくさそうな人たち"だった。気が短くて無駄に熱く、押しつけがましく否定的で、三度の飯より理屈が大好き――。そんなイメージだったから、どちらかといえば苦手だったのだ(いや、本音をいえば、いまでも苦手だ)。
しかし、「難しい言葉で理論武装するよりも、わかりやすい言葉と柔らかな態度で相手と向き合った方がよほど知的だ」と考えている私にとって、「勉強したかったから大学に入っただけで、ノンポリ」という著者の立ち位置は新鮮で心地よくもあった。当然ながら全共闘運動の内部では有名な方だったようだが、その手の人たちによくある強引さを感じさせないからである。
東大闘争についての重要なことのひとつが、「バリケード内に開放空間を形成し、学生間の新しい共同性を創り出し、自己権力の一歩を踏み出したこと」だとする考え方は、SEALDsが新たな戦い方を提示する現代においてはいささか古くさく思える。が、とはいえ考え方の根底にあるものは、一般的な全共闘世代のイメージとはすこし違っても見える。
たとえば東大全共闘が「自立した個人の集まり」というように美化され神話化されていることを、「それはすこしきれいごと」であると言い切り、実際にはいくつかの政治党派の活動家と無党派の活動家の複雑な関係だったと分析できるのも、客観的な視野を持っているからだ。
なお、ともすれば全共闘運動についての話に意識を奪われがちだが、同時に注目したいのが原子力発電についての記述だ。物理を勉強してきた立場から、それがいかに危険なものであるかを、わかりやすい言葉を選んで説明してくれているのである。淡々とした記述は、感情をむき出しにしたアプローチよりもずっと説得力がある。
特に注目すべきは、原発への反対姿勢をはっきり示しているにもかかわらず、「それを残してしまい、事故を起こしてしまったのは自分たちの世代の責任だ」という意識を心のどこかに持っている点である。特に感動したのは、終章のこの部分だ。
私たちは若い頃、戦前の人たちにたいして、なんであんな日本の戦争やファシズムを止められなかったのかと言ってきました。おなじことを私たちは、今の一〇代や二〇代の人たちに言われるのではないかと、正直、思っております。私はこの間、原発について、大きな集会や何度か金曜日の夜に国会前の行動に参加してきましたが、ときに高校生や大学生が発言しています。その人たちに言われたら返す言葉がありません。何もしてこなかったわけではないけれど、少なくとも結果的には三・一一の破局を防げなかったのであり、その点では悔しい思いもあれば、情けない思いでいっぱいです。(303ページ「おわりに」より)
全共闘運動の渦中にいた人のなかに、ここまで言える人がいたという事実が心を打った。いや、そもそも世代で人を定義づけられるはずはないのだから、当たり前の話ではあるだろう。しかしそれでも、こうして言葉に置き換えてみせた著者の姿勢は、彼らに偏見を持っていた私を安堵させたのだ。
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『私の1960年代』
山本義隆 著
金曜日
印南敦史(書評家、ライター)
著者は科学史家で、東大闘争全学共闘会議の元代表である。これまで全共闘時代の経験については一切語らず、取材にも応じなかったそうだが、本書には、1960年の安保闘争から、ベトナム反戦闘争、1970年の安保闘争、果ては科学技術や原発についての考え方までが、実体験に基づいて克明に語られている。
私の一九六〇年代は、物理学と数学を学ぶために大学に入ってから大学の研究室を去るまでの一〇年間で、その間の生活の軸は物理学と数学の学習にあったのですが、本書で語ることは、その軸としての物理学と数学ではなく、結局大学を離れてゆくことになった、街頭と大学での政治的・社会的な経験とその過程で私が考えたことがらについてであります。(4ページ「はじめに」より)
1962年生まれ、つまり年端のいかない子どもだった私の目から見ても、全共闘世代は"ちょっとめんどくさそうな人たち"だった。気が短くて無駄に熱く、押しつけがましく否定的で、三度の飯より理屈が大好き――。そんなイメージだったから、どちらかといえば苦手だったのだ(いや、本音をいえば、いまでも苦手だ)。
しかし、「難しい言葉で理論武装するよりも、わかりやすい言葉と柔らかな態度で相手と向き合った方がよほど知的だ」と考えている私にとって、「勉強したかったから大学に入っただけで、ノンポリ」という著者の立ち位置は新鮮で心地よくもあった。当然ながら全共闘運動の内部では有名な方だったようだが、その手の人たちによくある強引さを感じさせないからである。
東大闘争についての重要なことのひとつが、「バリケード内に開放空間を形成し、学生間の新しい共同性を創り出し、自己権力の一歩を踏み出したこと」だとする考え方は、SEALDsが新たな戦い方を提示する現代においてはいささか古くさく思える。が、とはいえ考え方の根底にあるものは、一般的な全共闘世代のイメージとはすこし違っても見える。
たとえば東大全共闘が「自立した個人の集まり」というように美化され神話化されていることを、「それはすこしきれいごと」であると言い切り、実際にはいくつかの政治党派の活動家と無党派の活動家の複雑な関係だったと分析できるのも、客観的な視野を持っているからだ。
なお、ともすれば全共闘運動についての話に意識を奪われがちだが、同時に注目したいのが原子力発電についての記述だ。物理を勉強してきた立場から、それがいかに危険なものであるかを、わかりやすい言葉を選んで説明してくれているのである。淡々とした記述は、感情をむき出しにしたアプローチよりもずっと説得力がある。
特に注目すべきは、原発への反対姿勢をはっきり示しているにもかかわらず、「それを残してしまい、事故を起こしてしまったのは自分たちの世代の責任だ」という意識を心のどこかに持っている点である。特に感動したのは、終章のこの部分だ。
私たちは若い頃、戦前の人たちにたいして、なんであんな日本の戦争やファシズムを止められなかったのかと言ってきました。おなじことを私たちは、今の一〇代や二〇代の人たちに言われるのではないかと、正直、思っております。私はこの間、原発について、大きな集会や何度か金曜日の夜に国会前の行動に参加してきましたが、ときに高校生や大学生が発言しています。その人たちに言われたら返す言葉がありません。何もしてこなかったわけではないけれど、少なくとも結果的には三・一一の破局を防げなかったのであり、その点では悔しい思いもあれば、情けない思いでいっぱいです。(303ページ「おわりに」より)
全共闘運動の渦中にいた人のなかに、ここまで言える人がいたという事実が心を打った。いや、そもそも世代で人を定義づけられるはずはないのだから、当たり前の話ではあるだろう。しかしそれでも、こうして言葉に置き換えてみせた著者の姿勢は、彼らに偏見を持っていた私を安堵させたのだ。
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山本義隆 著
金曜日
印南敦史(書評家、ライター)