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パレスチナ絶望の20年

ニューズウィーク日本版 2015年11月4日 17時30分

 20年前の11月4日、過激なユダヤ人の若者イガル・アミルが当時のイスラエル首相で平和主義者のイツハク・ラビンを背後から銃撃し、殺害した。そしてパレスチナ紛争の解決と平和への希望も葬った。

 政治家の暗殺が、必ずしもその国の未来を変えるとは限らない。だが20年前の凶弾は、ユダヤ人とパレスチナ人の共存共栄を目指す和平プロセスに壊滅的な打撃を与えた。

 その後の両者は深まる憎悪と実りなき交渉、拡大する暴力の出口なき悪循環に陥っている。憎しみに火が付けば血が流れる。この冷酷な事実が、ラビン暗殺の忌むべき遺産だ。

 今も聖地エルサレムやヨルダン川西岸、そしてガザ地区の境界線で殺し合いが続いている。バス停であれ商店であれ路上であれ、ユダヤ人とパレスチナ人が顔を合わせる場所ならどこで血が流れてもおかしくない。

 パレスチナ側には、これを「第3次インティファーダ」と呼ぶ向きもある。インティファーダは、1967年以来のイスラエルによる占領支配に対する民衆の武装蜂起を意味する。

 だが実際には、87年12月に始まった最初のインティファーダが今も続いているとみたほうがいい。93年のオスロ合意後に一度は沈静化したが、期待された和平プロセスはラビン暗殺で頓挫し、争いだけが続いた。

 ビル・クリントン米大統領の仲介した00年の和平交渉が失敗に終わると、パレスチナの過激派組織ハマスはテロ攻撃を再開。一連の自爆テロで1000人近いユダヤ人を殺害した。イスラエル側は、パレスチナ自治区ガザとの境界線や西岸の入植地に巨大な防御壁を築き、パレスチナ人が立ち入れないようにした。

 そして今、アメリカが両者の仲介を中断して5カ月以上が経過するなか、絶望したパレスチナの若者たちはナイフやドライバーを握り締めてユダヤ人に襲い掛かっている。もちろん、イスラエルの警官に射殺されるのは覚悟の上だ。

 イスラエル側は、エルサレム旧市街にある聖地(イスラム教のモスクがあるが、ユダヤ人にとっての聖地「神殿の丘」でもある)を守れと呼び掛けたパレスチナ自治政府のマフムード・アッバス議長を非難している。

2人の勇敢で危険な賭け

 だがアッバスの呼び掛けは、イスラエルの右派議員らによる物騒な要求に対抗するものだ。彼ら超保守派のユダヤ教徒は、聖地でのユダヤ人礼拝を禁じた半世紀前の取り決めを変えるよう求めている。イスラエル政府は現状の変更を否定しているが、それでもパレスチナ側の暴力は収まらない。

 こうしたなかアメリカは再び間に入って、事態の沈静化を試みている。外交筋によれば、今も聖地の管理に一定の権限を持つヨルダンのアブドラ国王に現状維持を確約してもらう案や、イスラエル政府による同様な宣言が模索されているようだ。

 だが大方のみるところ、暴力の連鎖の裏にあるのはパレスチナの人々の絶望、イスラエルによる占領に終わりが見えず和平の動きも止まっている現状に対する深い絶望だ。

 パレスチナの政治家で活動家のムスタファ・バルグティによれば、ラビン暗殺以降の20年間はイスラエルの後継首相たちがオスロ合意の履行を怠り、ヨルダン川西岸の入植地を拡大させ、不公平な法律でユダヤ人入植者を優遇し、パレスチナ人を差別してきた時期にほかならない。

 若者たちの暴走はアッバスに対する反乱でもあるとバルグティは言う。「独立と自由をもたらすことができない指導部への挑戦だ」と、バルグティはBBCに語った。「交渉で平和をもたらすという約束を20年も聞かされた揚げ句、いま彼らの目の前にあるのは何か。さらなる抑圧と徹底した民族隔離のシステムだけではないか」

 このような悲観論は、93年9月13日のオスロ合意署名後に、ホワイトハウスの芝生でラビンとパレスチナ解放機構(PLO)のヤセル・アラファト議長が握手する姿にイスラエル人とパレスチナ人が抱いた希望の対極に位置する。

 あの歴史的な合意は、長年の憎しみと対立を終わらせるはずだった。そこには相互の外交的承認や、ガザ地区と西岸の一部からのイスラエル軍撤退のスケジュールが含まれ、イスラエルとアラブ世界の共存の道を開くものだった。

 握手に立ち会ったクリントンは、両首脳の「未来は過去よりも良くなるという勇敢な賭け」を称賛した。だが2人の賭けがどれほど危険なものだったかはすぐに明らかになった。双方の過激派はオスロ合意に徹底抗戦。ハマスはテロによりバスやカフェで多くのイスラエル人の命を奪い、イスラエルとの共存はあり得ないと強硬に主張した。

 イスラエルでも、右派の入植者や宗教的保守派はパレスチナへの占領地返還を含む一切の合意に抵抗していた。デモはどんどん過激化し、ラビンをテロリストやナチス、裏切り者呼ばわりした。イスラエルを救うためにラビンを殺すのは宗教的義務だ、と信ずる者もいた。その1人がイガル・アミルだ。

2国家共存の原則も拒否

 当時、オスロ合意反対デモの先頭に立っていたのが、右派政党リクードの党首となったばかりのベンヤミン・ネタニヤフだ。現在4期目のネタニヤフ政権の下、イスラエルは一段と右傾化を強めている。治安悪化に対する恐れもあるし、パレスチナ側が政治的に分裂していて和平協定を結ぶ当事者能力を欠いているとの判断もあるからだ。

 96年に初めて首相となり、いったん下野した後、09年に首相に返り咲いたネタニヤフは、ヨルダン川西岸の93%を返還するという前任者エフド・オルメルトの提案を引っ込め、和平交渉を続けながらもユダヤ人入植地を次々に拡大していった。

 パレスチナ側に対し、イスラエルを「ユダヤ人の国」として承認しろという要求も突き付けた。そんな要求に応じたら、イスラエルに住むアラブ系住民(人口の25%を占める)の居場所がなくなる。

 今年3月の総選挙でネタニヤフは、2国家共存の原則を否定してアメリカの怒りを買ったが右派の有権者を引き付けて政権を維持した(後に発言撤回)。

 ラビンの命日を前に、エルサレム在住の政治コンサルタント、ロバータ・ファーン・ショフマンは2国家共存支持派のシンクタンク「イスラエル政策フォーラム」のウェブサイトに寄稿し、こう述べている。「ラビンのような指導者が再び登場し、声高に政治的解決の必要性を訴えない限り......もっと多くのテロが起き、もっと多くの防御壁でパレスチナ人を隔離することになり、もっと多くのイスラエル人が銃を持ち歩くようになり、もっと多くの子供が犠牲者に、そして殉教者になるだろう」


[2015.11. 3号掲載]
ジョナサン・ブローダー(外交・安全保障担当)、 ジャック・ムーア

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