中国は歴史問題で対日批判を強めているが、日中戦争時、建国の父・毛沢東は日本軍と共謀していた。中国共産党政権に歴史カードを掲げる資格はない。中共スパイ相関図により日中戦争時の中共側の真相を明らかにする。
まず、スパイ相関図「中共スパイと日本軍の共謀」(『毛沢東 日本軍と共謀した男』より抜粋。遠藤誉作成)をご覧いただきたい。
左側には毛沢東の密令により動いた中共スパイの代表的な人名と命令系統が書いてあり、右側には中共スパイが接触した日本側組織や個人名が書いてある。接触した目的は、蒋介石率いる重慶「国民政府」の軍事情報を日本側に高値で売ったり、日本軍に和議を申し込むためだ。これに基づいて、エッセンスだけをご紹介する。
毛沢東と日本外務省出先機関との共謀
1939年、毛沢東は潘漢年(はんかんねん)という中共スパイを上海にある外務省の出先機関「岩井公館」に潜り込ませ、岩井英一(当時、上海副領事)と懇意にさせた。潘漢年は中共中央情報組特務(スパイ)科出身のスパイのプロである。岩井公館には「五面相スパイ」と呼ばれた世紀のスパイ袁殊(えんしゅ)が、中共スパイとして早くから潜り込んでいた。
潘漢年はこの袁殊に頼み、岩井英一と面会。その後、国民党軍の軍事情報を日本側に提供し続けた。その見返りに高額の情報提供料を岩井から受け取っている。金額は半月に一回、当時の金額にして警官の五年間分の年収(2000香港円)だ。毎月、10年間分の年収に相当する情報提供料を、岩井英一は外務省の機密費から捻出して潘漢年に支払っていた。
日本が戦っていたのは、重慶に首都を移した蒋介石が率いる「中華民国」国民政府(国民党の政府)である。その軍事情報を得ることができれば、日中戦争を有利に持っていくことができる。
なぜ、潘漢年が国民党の軍事情報を詳細に持っていたかというと、それは1936年12月に中共側が起こした西安事変により、第二次国共合作(国民党と共産党が協力して日本軍と戦う)が行われていたからだ。
毛沢東の右腕だった周恩来(のちに国務院総理)は、この国共合作のために重慶に常駐していたので、国民党軍の軍事情報を得ることなどは実にたやすいことだった。
潘漢年が上海でスパイ活動に走り回っていたころ、中共の特務機関の事務所(地下組織)の一つが香港にあった。そこには潘漢年をはじめ、同じく毛沢東の命令を受けた中共側の廖承志(りょうしょうし)らが勤務しており、駐香港日本領事館にいた外務省の小泉清一(特務工作)と協力して、ある意味での「中共・日本軍協力諜報組織」のようなものが出来上がっていた。
毛沢東、中共軍と日本軍との停戦を要望
日本の外務省との共謀に味をしめた毛沢東は、今度は日本軍と直接交渉するよう、潘漢年に密令を出している。
ある日、岩井は潘漢年から「実は、華北での日本軍と中共軍との間における停戦をお願いしたいのだが......」という申し入れを受けた。これは岩井英一自身が描いた回想録『回想の上海』(「回想の上海」出版委員会による発行、1983年)の中で、岩井が最も印象に残った「驚くべきこと」として描いている。
潘漢年の願いを受け、岩井は、陸軍参謀で「梅機関」を主管していた影佐禎昭(かげさ・さだあき)大佐(のちに中将)に潘漢年を紹介する。潘漢年は岩井の仲介で南京にある日本軍の最高軍事顧問公館に行き、影佐大佐に会い、その影佐の紹介で日本の銘傀儡政権であった国民党南京政府の汪兆銘主席に会う。
汪兆銘政権の背後には軍事顧問として多くの日本軍人がいるのだが、潘漢年は都甲(とこう)大佐にも会い、中共軍と日本軍との間の和議を申し込んでいる。
汪兆銘傀儡政権との共謀
毛沢東は実は第一次国共合作(1924年〜1927年)のときに孫文や汪兆銘に気に入られて、汪兆銘とは兄弟分のような仲となっていた。汪兆銘が国民政府の主席で毛沢東が同じ国民政府の宣伝部部長を務めていた時期もある。
そこで毛沢東は潘漢年に、重慶国民政府の蒋介石と袂を分かち南京国民政府を日本軍の管轄のもとに樹立していた汪兆銘政権とも接触を持たせ、さまざまな形で共謀を図っていた。
汪兆銘に「あなたが倒したいのは重慶の蒋介石ですよね。それはわれわれ中共軍と利害を共にしています。ともに戦いましょう」という趣旨のメッセージを送っている。
汪兆銘政権のナンバー2には周仏海という実権を握っている大物がおり、その下には特務機関76号を牛耳る李士群がいた。潘漢年は汪兆銘と李士群と会うだけでなく、汪兆銘政権ナンバー2の周仏海にも接触を持っていた。このことは周仏海の日記および周仏海の息子の手記に書いてある。
葉剣英(ようけんえい)(のちの中共中央副主席)は、女性作家・関露を李士群の秘書として特務機関76号に潜り込ませており、饒漱石(じょうそうせき)(当時は中共中央軍事委員会華中軍分会常務委員など)は潘漢年や揚帆(ようはん)(当時は中共中央華中局・敵区工作部部長)に中共スパイとして日本軍との接触を命じている。すべて毛沢東の密令であり、重慶の国民党軍に対する中共軍の戦局を有利に導くためだった。日本軍との戦いは蒋介石率いる国民党軍に任せ、中共軍はその間に強大化していくという戦略である。
毛沢東は希代の策略家だ。もくろみ通りに日本敗戦後から始まった国共内戦において成功し、蒋介石の国民党軍を台湾敗走へと追い込んでいる。その結果毛沢東は、1949年10月1日に現在の中国、すなわち中華人民共和国を建国したのである。
口封じのためにすべて投獄
中華人民共和国が誕生してまもなく、毛沢東は自らの「個人的な」意思決定により、饒漱石をはじめ、潘漢年や揚帆あるいは袁殊など、毛沢東の密令を受けてスパイ活動をした者1000人ほどを、一斉に逮捕し投獄する。実働した者たちは毛沢東の「日本軍との共謀」という策略をあまりに知り過ぎていたからだ。
たとえば潘漢年は売国奴としてその口を封じられたまま、1977年に獄死している。1976年の毛沢東の死によって文化大革命は終わったものの、潘漢年の投獄は毛沢東じきじきの指示だったため、なかなか名誉回復されなかった。名誉が回復されたのは死後5年経った1982年のことである。
すると、潘漢年を知る多くの友人たちが、潘漢年の無念を晴らすために、彼にまつわる情報を集め始めた。そして、すべては「毛沢東の指示によって、中国共産党のために行動したのである」という事実を書き始めた。これらは、たとえば『潘漢年的情報生涯(潘漢年、情報の生涯)』(尹騏(いんき)著、人民出版社、1996。情報は中国語でスパイ情報の意味)や『潘漢年傳』(尹騏著、中国人民公安大学出版社、1997年)といった本として中国大陸で出版されている。
注目すべきは、すべて「潘漢年も袁殊も、日本側から日本軍の情報を引き出し、中共軍が日本軍と戦うために有利となるようにスパイ活動を行ない、中共軍を勝利に導いた(中共軍が日本軍を敗退に追いやった)」という筋書きで組み立ててあることだ。
しかし筆者はこのたび、日中双方の資料を突き合わせることによって、事実はまったく逆であったことを明らかにした。日本側資料によって、その決定的証拠をつかむことができたからだ。これまで中国側だけの資料に基づいて分析したものはあるが、日本側の証言と照らし合わせて日中戦争時の中共のスパイ活動を証明したのは、これが初めての試みではないかと思っている。
そもそも、もし、中共スパイが日本軍に関する情報を入手し延安にいた毛沢東らに渡す役割を果たしていたのなら(つまり、情報を入手するために岩井英一と接触していたのなら)、日本側から巨額の「情報提供料」をもらうのは、明らかにおかしい。整合性がない。
それに日本軍の情報入手のためにのみ潘漢年や袁殊がスパイ活動をしていたというのなら、毛沢東はなにも潘漢年らを「知り過ぎていた男」として投獄し、終身刑にする必要はなかったはずだ。
毛沢東の戦略はあくまでも、天下を取るために政敵である蒋介石が率いる国民党軍を弱体化させることにあった。そのためには日本軍とだろうと、汪兆銘傀儡政権とだろうと、どことでも手を結んだということである。自分が天下を取ることだけに意義がある。そのためなら何でもした。それだけのことだ。
これがいま、習近平国家主席が慕ってやまない、あるいはそのポーズを取ることによって自らを神格化しようとしている、「建国の父」の真の姿なのである。
日本はこの事実を最強の外交カードにしなければならない
この事実ひとつからも、中国共産党政権である中国には、日本に歴史認識カードを掲げる資格はないことが、ご理解頂けるものと思う。歴史を直視しないのは、中国共産党政権なのである。
したがって、中国が掲げる歴史認識問題の負のスパイラルから日本を救うには、「日中戦争時代、毛沢東が日本軍と共謀していた事実」を中国に突きつける以外にない。この事実を国際社会の共通認識に持っていくしか道はないのだ。実は中国国内にも、中国共産党史を見直すべきだという声がかなり出てきている。
ただ懸念されるのは、11月11日付の本コラム「中台密談で歴史問題対日共闘――馬英九は心を売るのか?」で書いたように、習近平国家主席は台湾の国民党さえをも抱き込んで日中戦争時における中共軍の歴史的事実の歪曲と捏造を決定的なものとし、歴史問題で対日共闘をもくろんでいることである。もし国民党自身が中共の歴史捏造を受け容れたら、習近平の策謀は強化され、日本には非常に不利になるだろう。そのような状態を看過することはできない。
だからこそ逆に、本論で書いた事実を日本の最強の外交カードとすべく、日本は一刻も早く論理武装をしなければならないのである。この問題に関しては、引き続き論じていく。
(なお本論は、日中戦争における日本軍の行為自体を議論しているのではなく、あくまでも中華人民共和国はいかにして日本軍を利用しながら誕生したのかを指摘しているだけである。)
[執筆者]
遠藤 誉
1941年中国生まれ。中国革命戦を経験し1953年に日本帰国。東京福祉大学国際交流センター長、筑波大学名誉教授、理学博士。中国社会科学院社会科学研究所客員研究員・教授などを歴任。『チャイナ・セブン <紅い皇帝>習近平』『チャイナ・ナイン 中国を動かす9人の男たち』『ネット大国中国 言論をめぐる攻防』など著書多数。近著に『毛沢東 日本軍と共謀した男』(新潮新書)
※当記事はYahoo!ニュース 個人からの転載です。
遠藤 誉(東京福祉大学国際交流センター長)
まず、スパイ相関図「中共スパイと日本軍の共謀」(『毛沢東 日本軍と共謀した男』より抜粋。遠藤誉作成)をご覧いただきたい。
左側には毛沢東の密令により動いた中共スパイの代表的な人名と命令系統が書いてあり、右側には中共スパイが接触した日本側組織や個人名が書いてある。接触した目的は、蒋介石率いる重慶「国民政府」の軍事情報を日本側に高値で売ったり、日本軍に和議を申し込むためだ。これに基づいて、エッセンスだけをご紹介する。
毛沢東と日本外務省出先機関との共謀
1939年、毛沢東は潘漢年(はんかんねん)という中共スパイを上海にある外務省の出先機関「岩井公館」に潜り込ませ、岩井英一(当時、上海副領事)と懇意にさせた。潘漢年は中共中央情報組特務(スパイ)科出身のスパイのプロである。岩井公館には「五面相スパイ」と呼ばれた世紀のスパイ袁殊(えんしゅ)が、中共スパイとして早くから潜り込んでいた。
潘漢年はこの袁殊に頼み、岩井英一と面会。その後、国民党軍の軍事情報を日本側に提供し続けた。その見返りに高額の情報提供料を岩井から受け取っている。金額は半月に一回、当時の金額にして警官の五年間分の年収(2000香港円)だ。毎月、10年間分の年収に相当する情報提供料を、岩井英一は外務省の機密費から捻出して潘漢年に支払っていた。
日本が戦っていたのは、重慶に首都を移した蒋介石が率いる「中華民国」国民政府(国民党の政府)である。その軍事情報を得ることができれば、日中戦争を有利に持っていくことができる。
なぜ、潘漢年が国民党の軍事情報を詳細に持っていたかというと、それは1936年12月に中共側が起こした西安事変により、第二次国共合作(国民党と共産党が協力して日本軍と戦う)が行われていたからだ。
毛沢東の右腕だった周恩来(のちに国務院総理)は、この国共合作のために重慶に常駐していたので、国民党軍の軍事情報を得ることなどは実にたやすいことだった。
潘漢年が上海でスパイ活動に走り回っていたころ、中共の特務機関の事務所(地下組織)の一つが香港にあった。そこには潘漢年をはじめ、同じく毛沢東の命令を受けた中共側の廖承志(りょうしょうし)らが勤務しており、駐香港日本領事館にいた外務省の小泉清一(特務工作)と協力して、ある意味での「中共・日本軍協力諜報組織」のようなものが出来上がっていた。
毛沢東、中共軍と日本軍との停戦を要望
日本の外務省との共謀に味をしめた毛沢東は、今度は日本軍と直接交渉するよう、潘漢年に密令を出している。
ある日、岩井は潘漢年から「実は、華北での日本軍と中共軍との間における停戦をお願いしたいのだが......」という申し入れを受けた。これは岩井英一自身が描いた回想録『回想の上海』(「回想の上海」出版委員会による発行、1983年)の中で、岩井が最も印象に残った「驚くべきこと」として描いている。
潘漢年の願いを受け、岩井は、陸軍参謀で「梅機関」を主管していた影佐禎昭(かげさ・さだあき)大佐(のちに中将)に潘漢年を紹介する。潘漢年は岩井の仲介で南京にある日本軍の最高軍事顧問公館に行き、影佐大佐に会い、その影佐の紹介で日本の銘傀儡政権であった国民党南京政府の汪兆銘主席に会う。
汪兆銘政権の背後には軍事顧問として多くの日本軍人がいるのだが、潘漢年は都甲(とこう)大佐にも会い、中共軍と日本軍との間の和議を申し込んでいる。
汪兆銘傀儡政権との共謀
毛沢東は実は第一次国共合作(1924年〜1927年)のときに孫文や汪兆銘に気に入られて、汪兆銘とは兄弟分のような仲となっていた。汪兆銘が国民政府の主席で毛沢東が同じ国民政府の宣伝部部長を務めていた時期もある。
そこで毛沢東は潘漢年に、重慶国民政府の蒋介石と袂を分かち南京国民政府を日本軍の管轄のもとに樹立していた汪兆銘政権とも接触を持たせ、さまざまな形で共謀を図っていた。
汪兆銘に「あなたが倒したいのは重慶の蒋介石ですよね。それはわれわれ中共軍と利害を共にしています。ともに戦いましょう」という趣旨のメッセージを送っている。
汪兆銘政権のナンバー2には周仏海という実権を握っている大物がおり、その下には特務機関76号を牛耳る李士群がいた。潘漢年は汪兆銘と李士群と会うだけでなく、汪兆銘政権ナンバー2の周仏海にも接触を持っていた。このことは周仏海の日記および周仏海の息子の手記に書いてある。
葉剣英(ようけんえい)(のちの中共中央副主席)は、女性作家・関露を李士群の秘書として特務機関76号に潜り込ませており、饒漱石(じょうそうせき)(当時は中共中央軍事委員会華中軍分会常務委員など)は潘漢年や揚帆(ようはん)(当時は中共中央華中局・敵区工作部部長)に中共スパイとして日本軍との接触を命じている。すべて毛沢東の密令であり、重慶の国民党軍に対する中共軍の戦局を有利に導くためだった。日本軍との戦いは蒋介石率いる国民党軍に任せ、中共軍はその間に強大化していくという戦略である。
毛沢東は希代の策略家だ。もくろみ通りに日本敗戦後から始まった国共内戦において成功し、蒋介石の国民党軍を台湾敗走へと追い込んでいる。その結果毛沢東は、1949年10月1日に現在の中国、すなわち中華人民共和国を建国したのである。
口封じのためにすべて投獄
中華人民共和国が誕生してまもなく、毛沢東は自らの「個人的な」意思決定により、饒漱石をはじめ、潘漢年や揚帆あるいは袁殊など、毛沢東の密令を受けてスパイ活動をした者1000人ほどを、一斉に逮捕し投獄する。実働した者たちは毛沢東の「日本軍との共謀」という策略をあまりに知り過ぎていたからだ。
たとえば潘漢年は売国奴としてその口を封じられたまま、1977年に獄死している。1976年の毛沢東の死によって文化大革命は終わったものの、潘漢年の投獄は毛沢東じきじきの指示だったため、なかなか名誉回復されなかった。名誉が回復されたのは死後5年経った1982年のことである。
すると、潘漢年を知る多くの友人たちが、潘漢年の無念を晴らすために、彼にまつわる情報を集め始めた。そして、すべては「毛沢東の指示によって、中国共産党のために行動したのである」という事実を書き始めた。これらは、たとえば『潘漢年的情報生涯(潘漢年、情報の生涯)』(尹騏(いんき)著、人民出版社、1996。情報は中国語でスパイ情報の意味)や『潘漢年傳』(尹騏著、中国人民公安大学出版社、1997年)といった本として中国大陸で出版されている。
注目すべきは、すべて「潘漢年も袁殊も、日本側から日本軍の情報を引き出し、中共軍が日本軍と戦うために有利となるようにスパイ活動を行ない、中共軍を勝利に導いた(中共軍が日本軍を敗退に追いやった)」という筋書きで組み立ててあることだ。
しかし筆者はこのたび、日中双方の資料を突き合わせることによって、事実はまったく逆であったことを明らかにした。日本側資料によって、その決定的証拠をつかむことができたからだ。これまで中国側だけの資料に基づいて分析したものはあるが、日本側の証言と照らし合わせて日中戦争時の中共のスパイ活動を証明したのは、これが初めての試みではないかと思っている。
そもそも、もし、中共スパイが日本軍に関する情報を入手し延安にいた毛沢東らに渡す役割を果たしていたのなら(つまり、情報を入手するために岩井英一と接触していたのなら)、日本側から巨額の「情報提供料」をもらうのは、明らかにおかしい。整合性がない。
それに日本軍の情報入手のためにのみ潘漢年や袁殊がスパイ活動をしていたというのなら、毛沢東はなにも潘漢年らを「知り過ぎていた男」として投獄し、終身刑にする必要はなかったはずだ。
毛沢東の戦略はあくまでも、天下を取るために政敵である蒋介石が率いる国民党軍を弱体化させることにあった。そのためには日本軍とだろうと、汪兆銘傀儡政権とだろうと、どことでも手を結んだということである。自分が天下を取ることだけに意義がある。そのためなら何でもした。それだけのことだ。
これがいま、習近平国家主席が慕ってやまない、あるいはそのポーズを取ることによって自らを神格化しようとしている、「建国の父」の真の姿なのである。
日本はこの事実を最強の外交カードにしなければならない
この事実ひとつからも、中国共産党政権である中国には、日本に歴史認識カードを掲げる資格はないことが、ご理解頂けるものと思う。歴史を直視しないのは、中国共産党政権なのである。
したがって、中国が掲げる歴史認識問題の負のスパイラルから日本を救うには、「日中戦争時代、毛沢東が日本軍と共謀していた事実」を中国に突きつける以外にない。この事実を国際社会の共通認識に持っていくしか道はないのだ。実は中国国内にも、中国共産党史を見直すべきだという声がかなり出てきている。
ただ懸念されるのは、11月11日付の本コラム「中台密談で歴史問題対日共闘――馬英九は心を売るのか?」で書いたように、習近平国家主席は台湾の国民党さえをも抱き込んで日中戦争時における中共軍の歴史的事実の歪曲と捏造を決定的なものとし、歴史問題で対日共闘をもくろんでいることである。もし国民党自身が中共の歴史捏造を受け容れたら、習近平の策謀は強化され、日本には非常に不利になるだろう。そのような状態を看過することはできない。
だからこそ逆に、本論で書いた事実を日本の最強の外交カードとすべく、日本は一刻も早く論理武装をしなければならないのである。この問題に関しては、引き続き論じていく。
(なお本論は、日中戦争における日本軍の行為自体を議論しているのではなく、あくまでも中華人民共和国はいかにして日本軍を利用しながら誕生したのかを指摘しているだけである。)
[執筆者]
遠藤 誉
1941年中国生まれ。中国革命戦を経験し1953年に日本帰国。東京福祉大学国際交流センター長、筑波大学名誉教授、理学博士。中国社会科学院社会科学研究所客員研究員・教授などを歴任。『チャイナ・セブン <紅い皇帝>習近平』『チャイナ・ナイン 中国を動かす9人の男たち』『ネット大国中国 言論をめぐる攻防』など著書多数。近著に『毛沢東 日本軍と共謀した男』(新潮新書)
※当記事はYahoo!ニュース 個人からの転載です。
遠藤 誉(東京福祉大学国際交流センター長)