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歴史の中の多様な「性」(3)

ニューズウィーク日本版 2015年12月2日 16時6分


論壇誌「アステイオン」(公益財団法人サントリー文化財団・アステイオン編集委員会編、CCCメディアハウス)83号は、「マルティプル・ジャパン――多様化する『日本』」特集。同特集から、自身トランスジェンダーであり、性社会・文化史研究者である三橋順子氏による論文「歴史の中の多様な『性』」を5回に分けて転載する。


※第1回:歴史の中の多様な「性」(1) はこちら
※第2回:歴史の中の多様な「性」(2) はこちら

「男色」と「男性同性愛」

 さて、もうひとつ厄介な問題がある。それは「男色」と「(男性)同性愛」の関係だ。研究者の中には、両者を漠然と、あるいは疑うことなく同じものとして、ほとんど同義語のように使う人もいるが、私はかなり軽薄だと思う。学問とはそうした思い込みを疑うことなのだ。

「男色」は一二一九年成立の『続古事談』(第六巻四話)に用例が見え、少なくとも鎌倉時代初期には概念として成立していた。それに対し、同性の間の性愛、あるいは性的指向(sexual orientation)が同性に向いていることを意味するhomosexualityという概念は、明治時代の末、一九一〇年頃にドイツの精神医学者リヒャルト・フォン・クラフト=エビングの学説が日本に輸入され、「同性的情慾」「顚倒的同性間性慾」などの訳語で、精神疾患である「変態性欲」のひとつとして概念化された(古川誠「セクシュアリティの変容─近代日本の同性愛をめぐる3つのコード」、『日米女性ジャーナル』一七号、一九九四年)。その後、訳語は「同性愛」に定着するが、同性愛という言葉が新聞・雑誌などで使用され、「倒錯的な性愛」として一般に広く知られるようになるのは、一九二〇年代、大正末期から昭和初期のことだった。

 つまり、「男色」と「同性愛」は、概念としての成り立ちや背景がまったく違うのだ。それを同義語のように扱ってしまうと、いろいろ問題が出てくる。たとえば、欧米では宗教的規範に基づき、同性愛は背教行為として厳しく禁じられ(基本的に死刑)、同性愛者は社会的に抑圧され背徳者の意識を強く持っていた。しかし、そのイメージを日本前近代の男色者に投影することはまったく意味がない誤りである。なぜなら、日本の宗教(神道・仏教)には、男色を禁ずる規範は存在しないからだ。

 男色は女色に比べれば愛好者は少なかったかもしれないが、両者は基本的に対置されるものであり、女色が正常で男色が異常というような倫理的な価値づけはなかった。わかりやすく言えば、江戸時代の男色者は、近代の同性愛者が抱いたような「変態性欲者」としての背徳感や自己嫌悪感を持ちようがないのだ。せいぜい周囲から「変わり者」と見なされる程度だったろう。

 さらに、男色と同性愛は、もっと根本的なところから異なっていると私は考えるようになった。その説明には、私が『岩波講座 日本の思想 第5巻 身と心』掲載の「性と愛のはざま─近代的ジェンダー・セクシュアリティ観を疑う─」で使った「川の流れの図」を使うのがわかりやすい。

 説明のしやすさから、まず近代のセクシュアリティ観を示す「川の流れの図」から見てみよう(図4)。

図4:近代のセクシュアリティ観を表す「川の流れの図」

 境界の川は「男」と「女」の間を流れている。「川」を挟んで成り立つ愛が異性愛である。それに対して、「川」の同じ側でなされる愛が同性愛である。愛は「川」(境界)を越えて成り立つとされていたので、境界を越えない同性愛は「変態性欲」として強く忌避されていた。

 一般的には、こうした「川」の流れは、古今東西普遍で変わらないとイメージされている。しかし、本当にそうなのだろうか? 日本の前近代のセクシュアリティの在り様を見ていると、どうもこの図にうまく乗らないのだ。そこで、私は次のような前近代のセクシュアリティ観に適合するような「川の流れの図」を描いてみた(図5)。

図5:前近代のセクシュアリティ観を表す「川の流れの図」

 境界の川は「大人(男)」と「子(女子・若衆)」の間を流れている。「大人(男)」からすれば、「子」である「娘」(女子)と「若衆」(男子)は同じく「川」の向う側にいる存在であり、ともに大人(男)が「色」を仕掛ける対象という点で近似し互換可能である。「色」が「娘」に向かえば「女色」で、「若衆」に向かえば「男色」になるが、両者は「川」(境界)を越えるという点で根本的に差がなく、固定化もされていない。

「若衆」は、成長して元服すれば、境界の川を渡って「大人(男)」になり、今度は「色」を仕掛ける側になる(年齢階梯性的循環と永続性)。「娘」も結婚すると境界の川を渡って「大人(男)」の「妻」(妾)になる。「大人(男)」にとって「妻」は「川」の同じ側の存在なので、「色」の対象にはならない。もちろん、子孫をもうけるための性行為はするが。ちなみに「若衆」と「娘」の間には小川が流れているので、「川」(境界)を越える形で「恋」は成立する。

 こんな「川の流れの図」を描いてみると、「女色」と「男色」の対置構造や可変性、「娘」と「若衆」の服装の類似(髪形・振袖)などが説明しやすくなる。

 しかし、こういう説明をすると「若衆だって体は男じゃないか。だったら川の同じ側だろう」という反論が必ず出てくる。それに対して私は「そうした性別の身体構造決定主義こそが近代思想なのではないでしょうか」と問いかけたい。

 現代の男の子、女の子は、幼児の頃から大人の男性と女性のミニチュア版のような恰好をしている。それに対して、前近代では、庶民の男の子と女の子のファッションの違いは大きくない。髪形も服装も似たようなものだった。それより子供と大人のファッションの違いが大きい。とりわけ、男の子は元服によって、髪形や服装(袖の丈や模様)が大きく変わる。藤本箕山『色道大鏡』(一六七三‐八一年頃)には「前髪を落とし、男に成より」とあり、「若衆」は元服によって「男に成る」ことが記されている。つまり、元服前の「若衆」は「男」ではないことになる。

 さて、「若衆」は「男」ではないということになると、大人の男と若衆の性的関係(男色)において、お互い相手を「同性」(同じカテゴリーの人)とは思ってはいないのではないか? という疑いが濃厚になる。そうであるならば、男色は「同性愛」ではないことになる。

 さらに言えば、前近代の日本では「同性」という言葉はほとんど使われない。そもそも「性」という言葉にsex(身体的性)もしくはgender(社会的性)という意味がない。「性」は「しょう」であり、和訓すれば「さが、たち」である。「本性(ほんしよう)」とか「習性(ならいしよう)」という言葉があるように「そのものの本質・属性」という意味だ。あえて言えば、その「本質・属性」の一部にsexもしくはgenderが含まれることがあるということ。「性」がsexもしくはgenderという意味になってくるのはだいたい幕末以降のことである(齋藤光「性」『性の用語集』講談社現代新書)。だから仮に「同性」という言葉があったとしても、それは「どうしょう」と読んで「同じような属性を持っている人」、たとえば仁義に篤い人という意味にしかならない。

 まとめるなら、前近代の日本では「同性愛」という概念は存在しない、いや、し得ないと言った方がいい。男性同士の性愛は「男色」として概念化されていたが、それは成人した男性と元服前の少年の関係が主で、成人男性同士の性愛を中心とする「男性同性愛」とはかなり異なる。「男色」は文化的、環境的な要素が強く影響していて後天的かつ可変的である。それに対して「同性愛」は先天的かつ不変的とされている。「男色」と「同性愛」は似て非なるものなのだ。

※第4回:歴史の中の多様な「性」(4) はこちら

[執筆者]
三橋順子(性社会・文化史研究者)
1955年生まれ。専門はジェンダー/セクシュアリティの歴史。中央大学文学部講師、お茶の水女子大学講師などを歴任。現在、明治大学、都留文科大学、東京経済大学、関東学院大学、群馬大学医学部、早稲田大学理工学院などの非常勤講師を務める。著書に『女装と日本人』(講談社)、編著に『性欲の研究 東京のエロ地理編』(平凡社)など。

※当記事は「アステイオン83」からの転載記事です。





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『アステイオン83』
 特集「マルティプル・ジャパン――多様化する『日本』」
 公益財団法人サントリー文化財団
 アステイオン編集委員会 編
 CCCメディアハウス


三橋順子(性社会・文化史研究者)※アステイオン83より転載

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