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それでも中国はノーベル賞受賞を喜ばない

ニューズウィーク日本版 2015年12月4日 11時5分

 ノーベル賞授賞式を間近に控えた11月末、スウェーデンの首都・ストックホルムの気温は昼間でもマイナス4度に下がり、寒さが骨身にしみる。午後2時半には空が茜色に染まり、3時半には日が暮れた。厳しい冬が5カ月も続くというスウェーデンでは、毎年12月のクリスマスとノーベル賞授賞式が、1年でもっとも華やぐ祭典になっている。

 ノーベル賞授賞式は毎年12月10日のアルフレッド・ノーベルの命日に、物理学、化学、医学生理学、文学、経済学の5分野がストックホルムのコンサートホールで行われ、平和賞がノルウェーの首都オスロの市庁舎で行われる。

 ストックホルムでは、授賞式に続いて市庁舎の「ブルーホール」(青の広間)で祝賀晩餐会があり、スウェーデン国王夫妻や王族の列席のもと、各選考委員会の関係者ばかりか地元スウェーデンの大学生らも抽選で参加でき、総勢1300人にのぼる大晩餐会となる。800万個のレンガ作りの市庁舎はスウェーデン屈指の荘厳な建造物で、受賞者たちは列席者の見守る中を、2階のテラスから大理石のらせん階段を下って「ブルーホール」へ降り立つとき、いやが上にも晴れがましさと興奮に包まれるにちがいない。

 スウェーデンの王宮に隣接するノーベル博物館には、すでに2015年の受賞者たちの一覧パネルが展示されていた。医学生理学賞のパネルには、「河川盲目症」の特効薬「イベルメクチン」を発見・開発した北里大学特別栄誉教授の大村智氏(80)と共同受賞者の米国ドリュー大学名誉研究フェローのウィリアム・キャンベル氏(85)、マラリアの特効薬「アルテミシニン」を抽出した中国の漢方医学研究院研究員の屠呦呦(トウ・ヨウヨウ)女史(84)。物理学賞のパネルには、素粒子の一種ニュートリノに質量があることを発見した東京大学宇宙線研究所所長の梶田隆章教授(56)など、解説とともに似顔絵が描かれている。

ノーベル博物館に展示されていた、今年の医学生理学賞受賞者3人の似顔絵入り紹介パネル(筆者撮影)

ノーベル博物館内のレストランで、壁に掛けられたイスの裏には2012年の医学生理学賞受賞者である山中伸弥博士のサインが(左)、2014年の物理学賞の日本人受賞者3人のサインが書かれたイスもあった(右、いずれも筆者撮影)

 日本では、日本人科学者2人の受賞の喜びに沸き立ち、惜しみない拍手と称賛を送っている。受賞された2人も「亡き妻」や「亡き先輩研究者」に感謝し、真っ先に受賞の報告をしたいとコメントした姿が麗しい。

 だが、中国ではどうだろうか? 大村智氏と同じ医学生理学賞を受賞した屠女史は、平和賞の劉暁波氏(2010年)、文学賞の莫言氏(2012年)に続いて、中国人では3人目のノーベル賞受賞者であるばかりか、中国初の科学分野の受賞者だ。今後の中国の科学の発展を期待させるに十分だが、実のところ、称賛よりも批判と疑問の声のほうが大きいのである。

 中国「財新網」(2015年10月5日付)によれば、屠氏は2011年、すでに「アルテミシニン」を発見した功績で「グラクソ・スミスクライン(GSK)賞」を受賞し、その1カ月後には医学賞のラスカー賞も受賞している。だが中国ではほとんど無名に近い存在で、博士号も海外留学の経験ももたず、中国の科学者として最高栄誉の称号「院士」の資格も得ていない「三無科学者」である。

 関係者の分析によれば、彼女がこれまで「院士」に選出されなかった理由は、彼女の社交下手と独善的な性格が災いしているという。また彼女の功績を疑問視する理由としては、もともとマラリアの特効薬の研究開発は、1967年に中国の国家プロジェクトとして始まったものだからだ。当時はベトナム戦争のさなかで、ベトナム国境へ派遣する兵士のマラリア予防対策が急務であり、「523工程」と命名されたプロジェクトには60の研究機関と500余名の研究者が参加した。屠氏は当時まだ実習研究員(実習生)だった。それゆえ、特効薬の発見を彼女ひとりの功績として認めるわけにはいかないと考えるのである。

 確かに、1967年といえば中国では文化大革命の真っただ中であり、政治闘争によって社会全体が大混乱に陥り、その犠牲者は5000万人とも1億人ともいわれている。だから国家プロジェクトでもなければ、研究者はとても研究などしていられる状況ではなかったはずである。

 しかし、米国立衛生研究所(NIH)の調査によれば、屠氏は多くの研究者の中でただひとり、晋代の医師・葛洪(紀元前283年~343年)の書『肘後備急方』の処方箋にヒントを得て独自の実験手法を思いつき、「アルテミシニン」の抽出に成功したという。つまり、多くの研究者が考え付かない方法で成功したのだから、彼女の知性と努力と研鑽の賜物だということなのである。

 その一方、中国では「漢方医学の素晴らしさが証明された」と自画自賛する声も上がっている。だがノーベル賞委員会の選考委員のひとりは、はっきりと釘を刺した。「肝心なことだが、我々は中国の伝統医薬にノーベル賞を贈ろうとするのではない。あくまで伝統医薬にヒントを得て、全世界で幅広く使える新薬を発見した人に贈るのである」

 ところで、ノーベル賞の創設以来、受賞を辞退したのはたったひとり、実存主義を唱えて「哲学の父」と呼ばれたフランス人作家のジャン・ポール・サルトルだが、彼は1964年にノーベル文学賞を辞退した際、フランス国民に向かってこう述べた。

「私がノーベル文学賞を辞退したのは、自分が死ぬ前に神聖化されることを望まないからです。......もしノーベル文学賞が私を名誉の絶頂に押し上げてしまったら、私は自分が現在取り組んでいる事柄を遂行し完成させる自由を失い、新たな行動や挑戦もできなくなってしまいます。ノーベル文学賞を受賞した後は、すべてが回顧的な価値となってしまうからです。栄誉を得て堕落する作家と、栄誉はないが常に一歩ずつ前進する作家と、どちらが真の栄誉に値するでしょう。......人間は、その人が成し得たことこそ、真の価値であるのです」

 厳しい自己への戒めを含んだ文学者の言葉だが、20世紀に中国が生んだ文豪・魯迅も、実はノーベル賞候補になるのを辞退した事実はあまり知られていない。1927年9月25日、魯迅が友人の作家の台静農に宛てた手紙が残っている。

「8月17日のお手紙を受け取りました。(劉)半農先生にはなにとぞ、私に対し、また中国に対してのご厚意に感謝している旨をお伝えください。しかし申し訳ありませんが、私はそれを望んでおりません。ノーベル賞は、梁啓超は当然のことながら値しませんし、私も値しません......あるいは、私が得をしているとしたら、それは私が中国人だからであって、『中国』という二文字のおかげでしょう......笑止千万です」(『魯迅書簡』上海青光書局、1933年)

 文中にある梁啓超とは、清朝末期の改革運動の指導者だったが、「戊戌政変」で日本へ亡命し、『新民叢報』を発行して新時代の先駆けとなった知識人である。劉半農は1919年の「五四運動」の火付け役となった陳独秀主宰の雑誌『新青年』の編集人で、北京大学教授だった言語学の大家。『魯迅全集』の注釈によれば、スウェーデンからノーベル賞選考委員が訪中し、劉半農の推薦によって魯迅を正式な候補者として決定する際、魯迅本人に受賞を打診したのだという。魯迅の手紙はそれに対する辞退の返事であったのだ。

 なぜ、魯迅はノーベル賞の候補者になることを辞退したのだろうか。魯迅は言う。「中国はまだ政治的混乱と後進性の中にあり、ただ中国人だという理由から特別扱いされて受賞するのは望みません。中国人にはまだノーベル賞は値しません。もし中国人にノーベル賞など与えたら、ただでさえ傲慢な民族がますます増長して手に負えなくなってしまいます」

 さすがに「中国人の魂」と尊称される文学者である。そして今でも彼の予言は生きているようだ。

 2010年にノーベル平和賞を受賞した劉暁波は、いまだに中国の獄中にある。今年、医学生理学賞を受賞する屠女史は、海外での称賛とは対照的に中国では批判と疑問の声に取り巻かれている。いまだ中国では政治性に重きが置かれ、ねたみ嫉みの大合唱なのだ。人類への貢献や創造的で革新的な考案や進歩とは、まるで無縁の世界のようである。

 自国のノーベル賞受賞者に対して、日本のように国民全体が喜び、祝福する日が、いつか中国にもやってくるのだろうか。

ストックホルムにて

[執筆者]
譚璐美(タン・ロミ)
作家、慶應義塾大学文学部訪問教授。東京生まれ、慶應義塾大学卒業、ニューヨーク在住。日中近代史を主なテーマに、国際政治、経済、文化など幅広く執筆。著書に『中国共産党を作った13人』、『日中百年の群像 革命いまだ成らず』(ともに新潮社)、『中国共産党 葬られた歴史』(文春新書)、『江青に妬まれた女――ファーストレディ王光美の人生』(NHK出版)、『ザッツ・ア・グッド・クエッション!――日米中、笑う経済最前線』(日本経済新聞社)、その他多数。


譚璐美(作家、慶應義塾大学文学部訪問教授)

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