国や時代を象徴する記念碑的建築を、"自分こそ"と自負する建築家たちは、取りっこを繰り返してきた。
たとえば、明治二九年竣工の日銀本店はどうか。御雇外国人建築家にもっぱら頼んできた記念碑を初めて日本人建築家に託そうと明治政府が考えた時、まず名の挙がったのは辰野金吾ではなく山口半六だった。山口は大学南校を出てフランスに学び、帰国後は文部省に入り、大学や高等学校を手掛け、文部省内のランクは、森有礼大臣に続きナンバー3の地位にあった。
山口に分があった。にもかかわらず辰野に指名が下ったのは、当時日銀を仕切っていた高橋是清との縁による。明治の最初期、唐津藩の英学塾で、辰野は高橋の教え子それも級長だったし、上京して工部大学校に入ったのも高橋の薦めによる。
山口に続く辰野のライバルは妻木頼黄(よりなか)だった。妻木は、コーネル大学とベルリン工科大学に学び、帰国後は内務省さらに大蔵省の建築家となる。内・蔵両省の建築家が文部省の工科大学教授より政府内での格が上なのは言うまでもない。辰野が妻木より優位だったのは、日本建築学会と工科大学というアカデミーを握っていることと、妻木の許にいるスタッフが全員、日本の建築教育を一手に握る辰野の教え子もしくはその流れだったことくらいか。
辰野と妻木は、国会議事堂をどちらが手掛けるかを巡ってもつれにもつれ、結局、妻木の死によって辰野は勝ったものの、設計を決める前に辰野もスペイン風邪で急逝し、文字通りの死闘に終わっている。辰野か妻木かどちらか一人がやれば、今よりは見映えのする建築になったと思われる。
東京オリンピックについて述べよう。この名のオリンピックは戦前に一回、戦後に今回を含めて二回、計三回計画されている。今回のはこの文が出る頃にケリが付くはずだが、その前の二回について、建築史家として知るところを綴ってみたい。
昭和一五年に開催予定だった東京オリンピックから。
設計は、当時、東京帝国大学の新進建築家として鳴らしていた岸田日出刀助教授が予定されていた。もちろん、筆頭教授にして日本の建築界の、辰野と佐野利器に続く三代目リーダーでもあり、内務省にも強い筋を持つ内田祥三(よしかず)の指名による。
岸田は、ヒットラーのベルリンオリンピックの会場を視察すべく派遣されるが、帰国後、内田には予期せぬことが三つ起こる。一つは、政府としてはナチスのオリンピックこそ手本にするつもりなのに、岸田は、会場を手掛けたヒットラーのお抱え建築家アルバート・シュペーアのもとに出向かなかったばかりか、当時のドイツ建築界での敵役ブルーノ・タウトなどのモダニストばかりに会い、帰国後、シュペーアの古典的デザインを古臭いと批判した。
このことは建築界の内側の問題として納まる可能性も強かったが、納まらないのは会場をどこにするかで、なんと青山練兵場がいいと公言したのである。今は知る人も少ないだろうが、かの地は大日本帝国陸軍の聖地としての性格を持つ。明治神宮に隣り合い、首都の練兵場として知られ、軍の政治犯(反乱軍)もここで刑に処せられている。
もちろん、帝国大学の一建築家たちによる根回し無しの立地計画に軍の反発は激しく、万事休す。
もう一つ内田の誤算は、舞姫問題だった。岸田が帰国すると、千葉で新婚生活を送る岸田家のドアを、ある朝、若きドイツ人女性が叩いた。窮した岸田は内田に相談し、内田は、中堅建設会社の社長を呼び、金銭を含め事後処理を依頼した。このシーンに立ち会った建築史家の関野克が私に語ったところによると、「この時以後、岸田さんは人が変わり、それまで意欲を持っていたデザインへの関心を失い、国の仕事を割り振る役に回るようになった」。
岸田が降りた後、誰がオリンピック計画を担当することになったのか。当時すでに名を成していた者や岸田世代の面々が思い浮かぶが、意外にも東京市(今の都)の建築家たちに任される。意外に思うのは、東京市の役人として中小の公共建築の設計や維持管理に日々を送る建築家に、客観的に見てオリンピックの主会場を手掛けるほどの力があるとは思えないからだ。でも、建築家の業(ごう)で、やってみたい、出来るかもしれない、と思ってしまう。そして生まれた案を見ると、性能は満たしているが、配置といいデザインといい凡庸でしかない。
凡庸な計画は、幸い戦雲により実現には至らなかった。
続いて第二次世界大戦があり、日本は負け、そして復興し、昭和三九年の東京オリンピック開催が決まる。目的は明確で、敗戦国日本の再生を世界にアピールすること。正確にいうと、敗戦前の状態まで盛り返したことを証すこと。建築や都市計画をリードするのは、二四年前の幻の東京オリンピックに若手として加わった面々である。
建築・都市計画関係を決める委員会は、岸田日出刀を委員長に、副委員長は高山英華(都市計画)と中山克己(民間建築家)が就き、委員には建設省(現・国土交通省)、文部省(オリンピック所轄)、東京都庁の役人、さらに学識経験者が加わる。実際に決めて動かすのは、岸田、高山、中山の三人。
一番の難題は敷地で、室内競技場を、当時米軍の住宅地として使われていた旧代々木練兵場に作る計画を立てたはいいものの、敷地に利害を持つ米軍、自衛隊、外務省、大蔵省、建設省、東京都さらにはNHKまで加わって、スッタモンダを繰り返す。そして米軍は全面移転、跡地に主競技場と選手村、ただし競技場は三つを二つに減、と決まった。その後になって、高山の回想によると、
「選手村の移転の費用を建設相が出さないと言っている時にNHKの前田義徳会長が、NHKが金出すからあそこの一角よこせ、と来たんだよ」。
で、二つの競技場(プールと卓球場)の横にNHKが移ってくることに決まった。
米軍移転に始まりNHKの急な転入まで、土地と費用を巡る一件は利害関係者にとって最大の関心事であり、そうしたややこしい問題について高山に聞くと、「これ以上は話せません」と答えるのが常だった。「死者が出ますから」とも言った。
敷地が決まると、次は室内競技場。誰に設計を任せるのか。こちらは土地問題に比べ利害の総量が少ないから死者の出るおそれはない。
高山の回想。
「岸田さんは、ともかく前川(國男)さんと坂倉(準三)さんがあんまり好きじゃねぇんだ。言うこと聞かねぇから。それで岸田さんが丹下(健三)君を推したんだよ。だから、初めっからあすこは丹下君だということになっちゃった。ぼく前川さんとか坂倉さんも一緒にコンペでもやれって言ったんだけど」、「岸田さんは建築のこと以外、というかプールを丹下さんにやらせること以外、あんまり興味がなかったみたいだね。(オリンピックがらみの)都市計画のことなんか嫌だからといって、僕と中山さんが後はやったんだよ」。
戦前の東京オリンピック計画の建築家に予定されながら、いろんな事情で夢破れた岸田は、その後、戦後復興期を通して丹下健三を国を代表する建築家にすべく尽力し、その総仕上げとして丹下を推した。
しかし、丹下の名を委員会に出すと、意外な反対があった。建設省が、建設省関東地方建設局営繕部の部長に任せたいと言い出した。京大出の優れた建築家かもしれないが、丹下と争うほどとはとても思えない。幻のオリンピックの東京市の時に続き、建築家の業がまた顔を出した。どんな組織にとっても内部からの意向を無下に扱うことは出来ないから、建設省は省内での設計を言い出し、この主張により岸田の丹下推薦は一時の頓挫を余儀なくされる。
設計を誰にするかは宙吊りになり、日だけが過ぎてゆく中で、岸田は役人を押えるべく、役所が設けた委員会の委員長としては封じ手を使った。衆議院オリンピック東京大会準備促進特別委員会の席上、岸田の意を受けた野党の議員が、「なぜ設計者がいつまでも決まらないのか」と質問した。役人は国会に弱いから、岸田の作戦勝ちだった。
まだ次がある。設計者の内示を受けた丹下は、準備に取り掛かるが、どうしても二八億円は必要なのに、大蔵省は二〇億円しか認めない。そこで丹下は大蔵大臣の田中角栄を訪れ、直談判した。丹下と田中をつないでくれたのは、後に田中の下で日本列島改造を進める下河辺淳と思われる。戦時中、本郷から御茶ノ水にかけての空襲による火事を消すため、東大建築学科には大学院生からなる丹下隊が結成されているが、下河辺も火消しの一員として駆け回って以来の縁。
かくして丹下健三の代々木オリンピックプールは実現し、二〇世紀後半を飾る世界の名作となった。
国や時代の記念碑が実現するまでの有為転変、右往左往は、今も昔も変わらない。建築家は、こちら側の岸辺からそうした濁流に飛び込み、泳ぐしかない。向う岸まで泳ぎ切れるか溺れるかは、本人の力と案の良し悪しにかかる、と向うの岸辺に立つ建築史家としては言うしかない。
[筆者]
藤森照信(東京大学名誉教授)
1946年生まれ。東京大学建築学専攻博士課程修了。東京大学生産技術研究所教授、工学院大学建築学部教授等を歴任。専門は建築史学。著書に『建築探偵の冒険・東京篇』(筑摩書房、サントリー学芸賞)、『タンポポ・ハウスのできるまで』(朝日新聞社)、『天下無双の建築学入門』(筑摩書房)、『歴史遺産 日本の洋館』(講談社)など多数。
※当記事は「アステイオン83」からの転載記事です。
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『アステイオン83』
特集「マルティプル・ジャパン――多様化する『日本』」
公益財団法人サントリー文化財団
アステイオン編集委員会 編
CCCメディアハウス
藤森照信(東京大学名誉教授) ※アステイオン83より転載
たとえば、明治二九年竣工の日銀本店はどうか。御雇外国人建築家にもっぱら頼んできた記念碑を初めて日本人建築家に託そうと明治政府が考えた時、まず名の挙がったのは辰野金吾ではなく山口半六だった。山口は大学南校を出てフランスに学び、帰国後は文部省に入り、大学や高等学校を手掛け、文部省内のランクは、森有礼大臣に続きナンバー3の地位にあった。
山口に分があった。にもかかわらず辰野に指名が下ったのは、当時日銀を仕切っていた高橋是清との縁による。明治の最初期、唐津藩の英学塾で、辰野は高橋の教え子それも級長だったし、上京して工部大学校に入ったのも高橋の薦めによる。
山口に続く辰野のライバルは妻木頼黄(よりなか)だった。妻木は、コーネル大学とベルリン工科大学に学び、帰国後は内務省さらに大蔵省の建築家となる。内・蔵両省の建築家が文部省の工科大学教授より政府内での格が上なのは言うまでもない。辰野が妻木より優位だったのは、日本建築学会と工科大学というアカデミーを握っていることと、妻木の許にいるスタッフが全員、日本の建築教育を一手に握る辰野の教え子もしくはその流れだったことくらいか。
辰野と妻木は、国会議事堂をどちらが手掛けるかを巡ってもつれにもつれ、結局、妻木の死によって辰野は勝ったものの、設計を決める前に辰野もスペイン風邪で急逝し、文字通りの死闘に終わっている。辰野か妻木かどちらか一人がやれば、今よりは見映えのする建築になったと思われる。
東京オリンピックについて述べよう。この名のオリンピックは戦前に一回、戦後に今回を含めて二回、計三回計画されている。今回のはこの文が出る頃にケリが付くはずだが、その前の二回について、建築史家として知るところを綴ってみたい。
昭和一五年に開催予定だった東京オリンピックから。
設計は、当時、東京帝国大学の新進建築家として鳴らしていた岸田日出刀助教授が予定されていた。もちろん、筆頭教授にして日本の建築界の、辰野と佐野利器に続く三代目リーダーでもあり、内務省にも強い筋を持つ内田祥三(よしかず)の指名による。
岸田は、ヒットラーのベルリンオリンピックの会場を視察すべく派遣されるが、帰国後、内田には予期せぬことが三つ起こる。一つは、政府としてはナチスのオリンピックこそ手本にするつもりなのに、岸田は、会場を手掛けたヒットラーのお抱え建築家アルバート・シュペーアのもとに出向かなかったばかりか、当時のドイツ建築界での敵役ブルーノ・タウトなどのモダニストばかりに会い、帰国後、シュペーアの古典的デザインを古臭いと批判した。
このことは建築界の内側の問題として納まる可能性も強かったが、納まらないのは会場をどこにするかで、なんと青山練兵場がいいと公言したのである。今は知る人も少ないだろうが、かの地は大日本帝国陸軍の聖地としての性格を持つ。明治神宮に隣り合い、首都の練兵場として知られ、軍の政治犯(反乱軍)もここで刑に処せられている。
もちろん、帝国大学の一建築家たちによる根回し無しの立地計画に軍の反発は激しく、万事休す。
もう一つ内田の誤算は、舞姫問題だった。岸田が帰国すると、千葉で新婚生活を送る岸田家のドアを、ある朝、若きドイツ人女性が叩いた。窮した岸田は内田に相談し、内田は、中堅建設会社の社長を呼び、金銭を含め事後処理を依頼した。このシーンに立ち会った建築史家の関野克が私に語ったところによると、「この時以後、岸田さんは人が変わり、それまで意欲を持っていたデザインへの関心を失い、国の仕事を割り振る役に回るようになった」。
岸田が降りた後、誰がオリンピック計画を担当することになったのか。当時すでに名を成していた者や岸田世代の面々が思い浮かぶが、意外にも東京市(今の都)の建築家たちに任される。意外に思うのは、東京市の役人として中小の公共建築の設計や維持管理に日々を送る建築家に、客観的に見てオリンピックの主会場を手掛けるほどの力があるとは思えないからだ。でも、建築家の業(ごう)で、やってみたい、出来るかもしれない、と思ってしまう。そして生まれた案を見ると、性能は満たしているが、配置といいデザインといい凡庸でしかない。
凡庸な計画は、幸い戦雲により実現には至らなかった。
続いて第二次世界大戦があり、日本は負け、そして復興し、昭和三九年の東京オリンピック開催が決まる。目的は明確で、敗戦国日本の再生を世界にアピールすること。正確にいうと、敗戦前の状態まで盛り返したことを証すこと。建築や都市計画をリードするのは、二四年前の幻の東京オリンピックに若手として加わった面々である。
建築・都市計画関係を決める委員会は、岸田日出刀を委員長に、副委員長は高山英華(都市計画)と中山克己(民間建築家)が就き、委員には建設省(現・国土交通省)、文部省(オリンピック所轄)、東京都庁の役人、さらに学識経験者が加わる。実際に決めて動かすのは、岸田、高山、中山の三人。
一番の難題は敷地で、室内競技場を、当時米軍の住宅地として使われていた旧代々木練兵場に作る計画を立てたはいいものの、敷地に利害を持つ米軍、自衛隊、外務省、大蔵省、建設省、東京都さらにはNHKまで加わって、スッタモンダを繰り返す。そして米軍は全面移転、跡地に主競技場と選手村、ただし競技場は三つを二つに減、と決まった。その後になって、高山の回想によると、
「選手村の移転の費用を建設相が出さないと言っている時にNHKの前田義徳会長が、NHKが金出すからあそこの一角よこせ、と来たんだよ」。
で、二つの競技場(プールと卓球場)の横にNHKが移ってくることに決まった。
米軍移転に始まりNHKの急な転入まで、土地と費用を巡る一件は利害関係者にとって最大の関心事であり、そうしたややこしい問題について高山に聞くと、「これ以上は話せません」と答えるのが常だった。「死者が出ますから」とも言った。
敷地が決まると、次は室内競技場。誰に設計を任せるのか。こちらは土地問題に比べ利害の総量が少ないから死者の出るおそれはない。
高山の回想。
「岸田さんは、ともかく前川(國男)さんと坂倉(準三)さんがあんまり好きじゃねぇんだ。言うこと聞かねぇから。それで岸田さんが丹下(健三)君を推したんだよ。だから、初めっからあすこは丹下君だということになっちゃった。ぼく前川さんとか坂倉さんも一緒にコンペでもやれって言ったんだけど」、「岸田さんは建築のこと以外、というかプールを丹下さんにやらせること以外、あんまり興味がなかったみたいだね。(オリンピックがらみの)都市計画のことなんか嫌だからといって、僕と中山さんが後はやったんだよ」。
戦前の東京オリンピック計画の建築家に予定されながら、いろんな事情で夢破れた岸田は、その後、戦後復興期を通して丹下健三を国を代表する建築家にすべく尽力し、その総仕上げとして丹下を推した。
しかし、丹下の名を委員会に出すと、意外な反対があった。建設省が、建設省関東地方建設局営繕部の部長に任せたいと言い出した。京大出の優れた建築家かもしれないが、丹下と争うほどとはとても思えない。幻のオリンピックの東京市の時に続き、建築家の業がまた顔を出した。どんな組織にとっても内部からの意向を無下に扱うことは出来ないから、建設省は省内での設計を言い出し、この主張により岸田の丹下推薦は一時の頓挫を余儀なくされる。
設計を誰にするかは宙吊りになり、日だけが過ぎてゆく中で、岸田は役人を押えるべく、役所が設けた委員会の委員長としては封じ手を使った。衆議院オリンピック東京大会準備促進特別委員会の席上、岸田の意を受けた野党の議員が、「なぜ設計者がいつまでも決まらないのか」と質問した。役人は国会に弱いから、岸田の作戦勝ちだった。
まだ次がある。設計者の内示を受けた丹下は、準備に取り掛かるが、どうしても二八億円は必要なのに、大蔵省は二〇億円しか認めない。そこで丹下は大蔵大臣の田中角栄を訪れ、直談判した。丹下と田中をつないでくれたのは、後に田中の下で日本列島改造を進める下河辺淳と思われる。戦時中、本郷から御茶ノ水にかけての空襲による火事を消すため、東大建築学科には大学院生からなる丹下隊が結成されているが、下河辺も火消しの一員として駆け回って以来の縁。
かくして丹下健三の代々木オリンピックプールは実現し、二〇世紀後半を飾る世界の名作となった。
国や時代の記念碑が実現するまでの有為転変、右往左往は、今も昔も変わらない。建築家は、こちら側の岸辺からそうした濁流に飛び込み、泳ぐしかない。向う岸まで泳ぎ切れるか溺れるかは、本人の力と案の良し悪しにかかる、と向うの岸辺に立つ建築史家としては言うしかない。
[筆者]
藤森照信(東京大学名誉教授)
1946年生まれ。東京大学建築学専攻博士課程修了。東京大学生産技術研究所教授、工学院大学建築学部教授等を歴任。専門は建築史学。著書に『建築探偵の冒険・東京篇』(筑摩書房、サントリー学芸賞)、『タンポポ・ハウスのできるまで』(朝日新聞社)、『天下無双の建築学入門』(筑摩書房)、『歴史遺産 日本の洋館』(講談社)など多数。
※当記事は「アステイオン83」からの転載記事です。
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『アステイオン83』
特集「マルティプル・ジャパン――多様化する『日本』」
公益財団法人サントリー文化財団
アステイオン編集委員会 編
CCCメディアハウス
藤森照信(東京大学名誉教授) ※アステイオン83より転載