二〇二〇年の東京オリンピックの開催が、国立競技場やエンブレムの問題などで最初からつまずいている。そんな折、一九六四年の東京オリンピックの記録映画《東京オリンピック》をじっくり見る機会があった。オリンピック映画史上最高とも評される市川崑監督の作品である。見直してみると、この五〇年余の間の世の中の変化の大きさをあらためて感じる。
莫大な資金を投入し、あらん限りの趣向を凝らした最近のオリンピックを見慣れた目には、久しぶりに見るこの六四年の東京オリンピックの開会式は、ほとんど小中学校の運動会の延長線上にあるくらいに質実剛健で簡素なものだ。「ミスター・アマチュア」と呼ばれたブランデージ会長のもと、テレビの放映権料の世界などともほとんど無縁であった、そんな時代の空気をこの映画は見事に映し出している。
しかし変わったのは、この映画に「記録」されているオリンピックの中身だけではない。「記録」している当の映画の側のあり方にも、実はいろいろ不可解なことがあるのだ。
そのことを認識したきっかけは、開会式の入場行進シーンだった。入場行進の伴奏は、古関裕而の《オリンピック・マーチ》を軸に、タイケの《旧友》、スーザの《海を越える握手》などの有名曲がところどころに挟まれる構成になっていたのだが、映画に出てくるドイツの入場シーンで背後に鳴り響いていたのは、《オリンピック・マーチ》の中間部だった。ところが、NHKの当日の中継映像を見て驚いた。同じドイツの行進シーンで流れているのは《海を越える握手》であり、しかもテレビの実況担当の北出清五郎アナウンサーがご丁寧にも「曲は《海を越える握手》に変わりました」というナレーションまで入れている。そのつもりで見比べると、アメリカの行進シーンも映画では《旧友》なのに、中継映像では《オリンピック・マーチ》で全く合っていないし、あとは推して知るべしである。要するに、映像と一緒にとられた音とは全く違う音が流れているのだ。
もちろん、実況映像ではなく、音楽をバックグラウンドに流し、その上に映像を配置したものだと考えれば別に目くじらをたてるほどのことでもない、と考える向きもあるかもしれない。だが、そうはいかない。どうみてもあれは「実況映像」のつくりである。NHKのアナウンサーによる実況中継音声が重ねられており、誰だって「生」の音声だと思うだろう。
そこで今度は実況中継音声の方をみてみた。鈴木文弥アナウンサーのあの名調子である。開会式では鈴木アナはラジオの中継を担当していたので、当時つくられた東京オリンピック記録レコードにおさめられたラジオ中継の録音をきいてみると、驚いたことにこれまた違うのである。たしかに同じ鈴木アナの声には違いなく、同じフレーズも随所に出てくるのだが、微妙に言い回しが変わっていたり、出てくる箇所が違っていたりする。映画のために新たに録音しているのだ。全体に台詞は切り詰められ、凝縮されており、いわば効果音的に挿入することで、それを核に全体をひとつにまとめ上げるような使い方をしているのである。
そう考えると、伴奏の音楽の方もまた、入場行進のシーン全体をまとめ上げるべく緻密に計算されていることがわかる。あらためて聞いてみると、この間、曲はずっと通して流れており、途中で切ってつないでいるのは一箇所だけである。そして、別の曲に変わる部分では太鼓の打奏が挟み込まれ、スムーズにつながるように工夫されている。アメリカ、ソ連の両チームが続いて登場する前と日本チームの登場の前のところにだけこの太鼓の打奏がはいっており、それを境に、アメリカとソ連の部分だけ、最初から続いてきた《オリンピック・マーチ》が《旧友》に変わって雰囲気が一変し、最後の日本の登場シーンで再び《オリンピック・マーチ》に戻ることでクライマックス感を高める、というつくりになっているのである。音楽とアナウンスを武器に全体にメリハリがつけられ、一つにまとめ上げられているわけだが、いわばその代償として、音楽もアナウンスも「実況」とはかけ離れた「つくりもの」になってしまったのである。
こうした状況をみるにつけ思い出されるのは、この映画をめぐって起こった「芸術か記録か」論争のことである。試写会でこの映画をみた河野一郎オリンピック担当大臣が、芸術的すぎて記録性を無視したひどい映画と酷評したことをきっかけにおこった大騒動である。「芸術」を追求するあまり記録性を無視した「つくりもの」になってしまったというのはこういうことだったのか、と思わず考えてしまいそうだが、実はそういうわけでもない。
河野大臣の一言をきっかけに、市川作品とは別に「記録」重視の映画がもう一本作られ、一九六六年五月に《オリンピック東京大会 世紀の感動》として公開されたのだが、こちらの方もつくりは大同小異なのである。伴奏の行進曲は、こちらでもやはり音楽としてひとつながりに流れることを優先させており、実際のものとは全く一致していない。しかも、アメリカのシーンで《旧友》が登場し、最後の日本で《オリンピック・マーチ》が戻ってくるところまで同じであり、基本的に市川監督と同一線上で作っていることは明らかだ。実況アナウンスは、鈴木文弥アナではなく、テレビ中継を担当した北出清五郎アナの声だが、やはり当日のものとは違う台詞をあらためてかぶせている。
こうした事態が「やらせ」や「つくりもの」ではなく「記録」の正当なあり方として許容されていたのは、「記録」の考え方自体が今とは違っていたからにほかならない。「記録か芸術か」論争では、今村太平を筆頭に、記録映画の世界の中からも、市川の「記録」観を厳しく批判する声は多かったのだが、試合の勝敗やスポーツの本質に関わらない場面が続くことへの批判がほとんどで、「やらせ」批判のようなものはほとんどなかった。
この映画には、富士山をバックに聖火ランナーが走る場面、女子体操のチャスラフスカ選手のスローモーション演技が黒バックで映し出されるところなど、大会後に撮影された明白な「やらせ」場面が他にもいろいろあるが、それらもほとんど批判されていない。当時のドキュメンタリー映画には、土本典昭監督のデビュー作『ある機関助士』(一九六三)の、列車の遅れを取り戻すために奮戦するシーンが、実は撮影用の特別列車を仕立てた撮影だったとか、その手の話が山ほどあったようだ。表現すべき事柄をきちんと描くことが第一で、そのための細工ならかなりのことが許容されたのである。そう考えれば、入場行進のシーンも十分に許容範囲内だったに違いない。
こう考えてみるとむしろ、ドキュメンタリー映像にはその時の実際の音がついていなければならないと考えて、こういうものを「つくりもの」呼ばわりしてしまうわれわれの心性の方が奇妙にみえなくもない。そもそもドキュメンタリーというものが、ラジオやレコードと結びついた「音の文化」の残像を残す存在だったことを考えれば、音を別扱いし、それを優先して構成してゆく考え方があっても当然だ。映像優先の切り貼りで音が分断されてしまうことに当時の人々が我慢ならなかったことは十分に想像できる。今のわれわれの心性は、テレビの中継映像にすっかり慣れ、音に注意が向かなくなってきた結果であり、そういう側から、実際とは違う音楽が流れているなどという批判をしても、些細なことにこだわった本末転倒の議論として一蹴されてしまいそうだ。
こういう話は、人々の感性がメディアの進展とともに変わる典型的な例なのだが、こうしてみると、メディアの進展で新たに視野がひらかれた面もあれば、逆に視野が狭まり、みえなくなってしまったこともかなりあるような気がしてくる。実際の音と違うなどというつまらないことにこだわることが、表現の多様な可能性をつぶしているのでは、などとも考えてしまう。
一九六四年と二〇二〇年の二つの東京オリンピックの間に横たわっているのは、そういう懸隔ではないかという気がしてくる。今回、国立競技場問題、エンブレム問題と、始まる前からいろいろケチがついてしまった。二六〇〇億円はいかにも高額に過ぎるし、あのエンブレムの作者を弁護するつもりもないが、受けとめる側のわれわれの視野や感覚が少しばかり矮小化している面もありはしないだろうか。
競技場が安上がりで済むのは結構なことだが、そのことばかりに目を奪われていると、夢のあるような話はすべてどこかに消え失せてしまうだろうし、類似作品を探すことばかりに血道を上げていれば、元来先人の知恵から学ぶことなしには成り立つはずのない創作活動を窒息させてしまうことにもなりかねない。インターネットで多様な情報が行き渡ったのはもちろん悪いことではないが、そのことが視野の狭まりや本末転倒につながる危険も忘れてはならない。著作権、個人情報など、そういうことが現代に通底する病弊なのではないかと感じさせられる局面は少なくない。今のわれわれからみると、いかにも素朴で天真爛漫にみえる市川監督のオリンピック映画だが、あのような時代はもう終わった、と片付けてすむ話ではない。
[筆者]
渡辺 裕(東京大学大学院人文社会系研究科教授)
1953年生まれ。東京大学文学部卒業、同大学大学院修了。玉川大学文学部助教授、大阪大学文学部助教授などを経て現職。専攻は音楽社会史、聴覚文化論。著書に『聴衆の誕生』(春秋社、サントリー学芸賞)、『日本文化 モダン・ラプソディ』(春秋社、芸術選奨文部科学大臣新人賞)、『歌う国民――唱歌、校歌、うたごえ』(中公新書、芸術選奨文部科学大臣賞)、『サウンドとメディアの文化資源学』(春秋社)など。
※当記事は「アステイオン83」からの転載記事です。
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『アステイオン83』
特集「マルティプル・ジャパン――多様化する『日本』」
公益財団法人サントリー文化財団
アステイオン編集委員会 編
CCCメディアハウス
渡辺 裕(東京大学大学院人文社会系研究科教授) ※アステイオン83より転載
莫大な資金を投入し、あらん限りの趣向を凝らした最近のオリンピックを見慣れた目には、久しぶりに見るこの六四年の東京オリンピックの開会式は、ほとんど小中学校の運動会の延長線上にあるくらいに質実剛健で簡素なものだ。「ミスター・アマチュア」と呼ばれたブランデージ会長のもと、テレビの放映権料の世界などともほとんど無縁であった、そんな時代の空気をこの映画は見事に映し出している。
しかし変わったのは、この映画に「記録」されているオリンピックの中身だけではない。「記録」している当の映画の側のあり方にも、実はいろいろ不可解なことがあるのだ。
そのことを認識したきっかけは、開会式の入場行進シーンだった。入場行進の伴奏は、古関裕而の《オリンピック・マーチ》を軸に、タイケの《旧友》、スーザの《海を越える握手》などの有名曲がところどころに挟まれる構成になっていたのだが、映画に出てくるドイツの入場シーンで背後に鳴り響いていたのは、《オリンピック・マーチ》の中間部だった。ところが、NHKの当日の中継映像を見て驚いた。同じドイツの行進シーンで流れているのは《海を越える握手》であり、しかもテレビの実況担当の北出清五郎アナウンサーがご丁寧にも「曲は《海を越える握手》に変わりました」というナレーションまで入れている。そのつもりで見比べると、アメリカの行進シーンも映画では《旧友》なのに、中継映像では《オリンピック・マーチ》で全く合っていないし、あとは推して知るべしである。要するに、映像と一緒にとられた音とは全く違う音が流れているのだ。
もちろん、実況映像ではなく、音楽をバックグラウンドに流し、その上に映像を配置したものだと考えれば別に目くじらをたてるほどのことでもない、と考える向きもあるかもしれない。だが、そうはいかない。どうみてもあれは「実況映像」のつくりである。NHKのアナウンサーによる実況中継音声が重ねられており、誰だって「生」の音声だと思うだろう。
そこで今度は実況中継音声の方をみてみた。鈴木文弥アナウンサーのあの名調子である。開会式では鈴木アナはラジオの中継を担当していたので、当時つくられた東京オリンピック記録レコードにおさめられたラジオ中継の録音をきいてみると、驚いたことにこれまた違うのである。たしかに同じ鈴木アナの声には違いなく、同じフレーズも随所に出てくるのだが、微妙に言い回しが変わっていたり、出てくる箇所が違っていたりする。映画のために新たに録音しているのだ。全体に台詞は切り詰められ、凝縮されており、いわば効果音的に挿入することで、それを核に全体をひとつにまとめ上げるような使い方をしているのである。
そう考えると、伴奏の音楽の方もまた、入場行進のシーン全体をまとめ上げるべく緻密に計算されていることがわかる。あらためて聞いてみると、この間、曲はずっと通して流れており、途中で切ってつないでいるのは一箇所だけである。そして、別の曲に変わる部分では太鼓の打奏が挟み込まれ、スムーズにつながるように工夫されている。アメリカ、ソ連の両チームが続いて登場する前と日本チームの登場の前のところにだけこの太鼓の打奏がはいっており、それを境に、アメリカとソ連の部分だけ、最初から続いてきた《オリンピック・マーチ》が《旧友》に変わって雰囲気が一変し、最後の日本の登場シーンで再び《オリンピック・マーチ》に戻ることでクライマックス感を高める、というつくりになっているのである。音楽とアナウンスを武器に全体にメリハリがつけられ、一つにまとめ上げられているわけだが、いわばその代償として、音楽もアナウンスも「実況」とはかけ離れた「つくりもの」になってしまったのである。
こうした状況をみるにつけ思い出されるのは、この映画をめぐって起こった「芸術か記録か」論争のことである。試写会でこの映画をみた河野一郎オリンピック担当大臣が、芸術的すぎて記録性を無視したひどい映画と酷評したことをきっかけにおこった大騒動である。「芸術」を追求するあまり記録性を無視した「つくりもの」になってしまったというのはこういうことだったのか、と思わず考えてしまいそうだが、実はそういうわけでもない。
河野大臣の一言をきっかけに、市川作品とは別に「記録」重視の映画がもう一本作られ、一九六六年五月に《オリンピック東京大会 世紀の感動》として公開されたのだが、こちらの方もつくりは大同小異なのである。伴奏の行進曲は、こちらでもやはり音楽としてひとつながりに流れることを優先させており、実際のものとは全く一致していない。しかも、アメリカのシーンで《旧友》が登場し、最後の日本で《オリンピック・マーチ》が戻ってくるところまで同じであり、基本的に市川監督と同一線上で作っていることは明らかだ。実況アナウンスは、鈴木文弥アナではなく、テレビ中継を担当した北出清五郎アナの声だが、やはり当日のものとは違う台詞をあらためてかぶせている。
こうした事態が「やらせ」や「つくりもの」ではなく「記録」の正当なあり方として許容されていたのは、「記録」の考え方自体が今とは違っていたからにほかならない。「記録か芸術か」論争では、今村太平を筆頭に、記録映画の世界の中からも、市川の「記録」観を厳しく批判する声は多かったのだが、試合の勝敗やスポーツの本質に関わらない場面が続くことへの批判がほとんどで、「やらせ」批判のようなものはほとんどなかった。
この映画には、富士山をバックに聖火ランナーが走る場面、女子体操のチャスラフスカ選手のスローモーション演技が黒バックで映し出されるところなど、大会後に撮影された明白な「やらせ」場面が他にもいろいろあるが、それらもほとんど批判されていない。当時のドキュメンタリー映画には、土本典昭監督のデビュー作『ある機関助士』(一九六三)の、列車の遅れを取り戻すために奮戦するシーンが、実は撮影用の特別列車を仕立てた撮影だったとか、その手の話が山ほどあったようだ。表現すべき事柄をきちんと描くことが第一で、そのための細工ならかなりのことが許容されたのである。そう考えれば、入場行進のシーンも十分に許容範囲内だったに違いない。
こう考えてみるとむしろ、ドキュメンタリー映像にはその時の実際の音がついていなければならないと考えて、こういうものを「つくりもの」呼ばわりしてしまうわれわれの心性の方が奇妙にみえなくもない。そもそもドキュメンタリーというものが、ラジオやレコードと結びついた「音の文化」の残像を残す存在だったことを考えれば、音を別扱いし、それを優先して構成してゆく考え方があっても当然だ。映像優先の切り貼りで音が分断されてしまうことに当時の人々が我慢ならなかったことは十分に想像できる。今のわれわれの心性は、テレビの中継映像にすっかり慣れ、音に注意が向かなくなってきた結果であり、そういう側から、実際とは違う音楽が流れているなどという批判をしても、些細なことにこだわった本末転倒の議論として一蹴されてしまいそうだ。
こういう話は、人々の感性がメディアの進展とともに変わる典型的な例なのだが、こうしてみると、メディアの進展で新たに視野がひらかれた面もあれば、逆に視野が狭まり、みえなくなってしまったこともかなりあるような気がしてくる。実際の音と違うなどというつまらないことにこだわることが、表現の多様な可能性をつぶしているのでは、などとも考えてしまう。
一九六四年と二〇二〇年の二つの東京オリンピックの間に横たわっているのは、そういう懸隔ではないかという気がしてくる。今回、国立競技場問題、エンブレム問題と、始まる前からいろいろケチがついてしまった。二六〇〇億円はいかにも高額に過ぎるし、あのエンブレムの作者を弁護するつもりもないが、受けとめる側のわれわれの視野や感覚が少しばかり矮小化している面もありはしないだろうか。
競技場が安上がりで済むのは結構なことだが、そのことばかりに目を奪われていると、夢のあるような話はすべてどこかに消え失せてしまうだろうし、類似作品を探すことばかりに血道を上げていれば、元来先人の知恵から学ぶことなしには成り立つはずのない創作活動を窒息させてしまうことにもなりかねない。インターネットで多様な情報が行き渡ったのはもちろん悪いことではないが、そのことが視野の狭まりや本末転倒につながる危険も忘れてはならない。著作権、個人情報など、そういうことが現代に通底する病弊なのではないかと感じさせられる局面は少なくない。今のわれわれからみると、いかにも素朴で天真爛漫にみえる市川監督のオリンピック映画だが、あのような時代はもう終わった、と片付けてすむ話ではない。
[筆者]
渡辺 裕(東京大学大学院人文社会系研究科教授)
1953年生まれ。東京大学文学部卒業、同大学大学院修了。玉川大学文学部助教授、大阪大学文学部助教授などを経て現職。専攻は音楽社会史、聴覚文化論。著書に『聴衆の誕生』(春秋社、サントリー学芸賞)、『日本文化 モダン・ラプソディ』(春秋社、芸術選奨文部科学大臣新人賞)、『歌う国民――唱歌、校歌、うたごえ』(中公新書、芸術選奨文部科学大臣賞)、『サウンドとメディアの文化資源学』(春秋社)など。
※当記事は「アステイオン83」からの転載記事です。
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『アステイオン83』
特集「マルティプル・ジャパン――多様化する『日本』」
公益財団法人サントリー文化財団
アステイオン編集委員会 編
CCCメディアハウス
渡辺 裕(東京大学大学院人文社会系研究科教授) ※アステイオン83より転載