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イラク・バスラの復興を阻むもの - 酒井啓子 中東徒然日記

ニューズウィーク日本版 2015年12月26日 19時16分

 27年振りに、イラク南部の最大都市、バスラに行った。

 イラク戦争後、日本研究に取り憑かれた熱心なイラク人の学者がいて、彼と日・イラクの学者間合同研究大会を過去10年間続けてきたのだが、それが初めてイラクのバスラで開催されたのである。治安の問題があって、これまで専ら日本国内で開催してきた――イラク国内で開催したのは、2009年にわずかにクルディスタン地方政府のアルビルでの会議のみだ――のを、イラク側のたっての希望で、イラク国内で実施することになった。

 イラク国内は、外務省渡航情報を見ると、どこも真っ赤、退避勧告がでている。バスラを始めとするイラクの南部四県は少し赤味が薄い。世界有数の油田地域であり、石油精製、港湾設備など関連産業でかつて外国人ビジネスマンであふれていた街だ。今も火力発電所や肥料工場、淡水化事業など日本が関わる工業プロジェクトがいくつかある。

 日本を知りたい、日本から学びたい、日本人に会いたいという、極めて素朴な駆け出しのイラク人研究者たちによる、三日間の大歓迎ぶりとその熱意がどれだけのものだったかは、書いても書き尽くせないものがあるので、また筆を改めたいと思うが、ここでは27年振りのバスラの印象だけを、ごくざっくり綴っておきたい。

 バスラは、進んでいない。

 27年前に訪れたときも、イラン・イラク戦争直後であちこちに戦争の爪痕が残されていた。その後、二度のもっと大きな戦争と13年間の経済制裁を経験したので、もっとひどい状態だったのだろうことは、よくわかる。だが、それにしてもイラク戦争から13年弱になろうとしている。しかも、戦争で「勝ち組」に位置付けられるシーア派イスラーム主義政党が地方行政を握り、イラクの産業の中心を抱えるイラク第三の都市(かつては第二だったこともある)だ。ペルシア湾に面したイラク唯一の港で、石油があって、広大な農地を控え、数々の文学者を輩出したバスラ。エデンの園があった場所と言われ、千夜一夜物語のアラジンの故郷。かつてはバグダード鉄道の終着駅で、イギリスとドイツが奪い合って第一次世界大戦へとつながった。戦後真っ先に復興、発展させようと、だれもが思っておかしくないはずだ。

 なのに、車窓から見える平屋造りの家はどれも古びていて、少し貧しい地域になると半壊状態のままで人が暮らしている。空き地にはゴミが溜まり、でこぼこの道路にはあちこちで大渋滞が起きている。最高級のホテルでも蛇口から出てくる水は赤茶色だし、高層ビルはほとんど見かけない。「あれが第一次世界大戦中にイギリスがイラクを統治した弁務官事務所だよ」とか、「イギリス統治時代から続いている学校がこれだ」とか、古びた歴史的建造物がそのまま残っているのはすごいが、生活空間まで古いままに置いておく必要はないだろう。

 発展から取り残されたこの状態は、特に他の「勝ち組」地域と比較すると、異常だ。先述したクルド地域は、ほぼ半独立状態のクルディスタン地方政府のもとで今や「イラクのドバイ」とすらいわれるほど、高層ビルが立ち並びありとあらゆるモノがあふれるモールが林立していると言われる。同じ南部のシーア派地域でも、隣のマイサン県では経済復興が目覚ましいと聞く。マイサン県はイラク国内でも最も貧しく、最も多くの困窮農民を出し、貧富の格差がはなはだしく、ゆえに過激思想が広がる母体ともなった地域だ。それが今では、どこの高級マンションのチラシかと思うようなおしゃれな都市計画が議題に飛び交っている。

 何故バスラはダメなの?とイラク人知識人に聞くと、たいてい返ってくる答えは「政府の腐敗、汚職のせいさ」。確かに、マイサン県知事は、見事なガヴァナンスを発揮していると、各方面から評価が高い。他方、バスラでは行政を批判して、夏頃から頻繁にデモが繰り返されている。

 なぜマイサンでガヴァナンスがよくてバスラはだめなのか。そもそもイスラーム主義政党の「売り」は、カネとサービスを貧しい有権者にばらまいて、住民の生活レベルを向上させることである。サドル派も、バグダードの貧困地域、地元のサドル・シティーの再開発に躍起だ。

 バスラの議会、行政を握るシーア派のイスラーム主義政党が、なぜ「ばらまき」をしないのか。これは研究テーマとして追求するに価値がある問いだと思うが、ひとつ印象論的な仮説を考えている。それは、「バスラが都市だから」ということと、「都市のリベラル中間層はいまだ健在」ということである。

 バスラ滞在中、ふたつの地元民間企業と会った。ひとつはキャノンの代理店を営む企業、もうひとつはトヨタ車の販売を請け負っている企業で、前者はバスラの有力部族のひとつ、エイダン一族が経営している。後者は、イラク有数の大財閥、ブンニーヤ一族による経営だ。ブンニーヤ一族はスンナ派だが、バスラの代理店の社長さんは一族出身ではなく、シーア派のこれまた名家アルーシ家の出身だ。どちらも日本製品だけでなく、その他幅広く手掛けている。

 彼らと会って、一番の疑問をブンニーヤ財閥の社長さんにぶつけてみた。「バスラの復興を地方自治体や政府がやらないんだったら、企業が独自にできないんですか。」

 雇われ社長は、困った顔で言った。「怖いんだ、民兵たちが」。

 創業一族の唯一の生き残りは、引退してアンマンで身を隠しているという。イラク国内で事業を展開するのは、二代目、三代目たちだ。民兵がシーア派民兵なのかスンナ派の武装組織なのか、彼ははっきり言わなかったが、泥棒も民兵も、ひいては政治組織も皆、大財閥の財産を狙っているということだろう。「社会主義」や「ナショナリズム」など政治がイデオロギーの大義のもとに財産を奪うことは、歴史上繰り返されてきた事実だ。イスラーム革命を謳ったものたちも、例外ではない。

 歴代の政権の政策に振り回されて、潰された財閥は数知れない。そのなかで一世紀以上前に設立されたブンニーヤ財閥は、60年代の国有化政策、その後のバアス党政権下の社会主義、統制経済を生き延びてきた。政治が変わっても、うまく立ち回ってきた数少ない老舗財閥だ。

 今、バスラには、武人政治がまかり通っている。イスラーム主義を掲げた「革命主義」的政党と地元の部族勢力が入り乱れながら、覇を競い合っている。だが都市バスラには商人の文化、商人政治がある。武人政治と、財閥の商人政治は、相いれない。お互いどう折り合っていけばいいのか、模索しているのか、手が出せないでいるのか。いずれにしても、武人政治一辺倒で物事を進められるマイサンなどとは、そこが違うのかもしれない。

 もうひとつ、武人政治が手をこまねいているだろう要因を、同じくブンニーヤ財閥に見た。雇われ社長が嬉しそうに、「うちの大事な右腕」と紹介したのが、イラク南部鉄道会社に勤めていたという技術者である。バスラ、ひいては南部の発展には鉄道整備、拡張がかかせない、と彼は力説する。バスラに地下鉄を作りたいんだ、とも。

 彼は、インフラ整備がすべて公共部門に任され、国作りの根幹を担っていた時代を生きてきた、昔ながらのテクノクラートだろう。90年代の経済制裁とイラク戦争で崩壊したとされる、イラクの屋台骨を支えていた中間層に位置付けられる人物だ。

 こういう層もまた、武人政治のなかで居場所を失っている。財閥がそれを拾っても、全面的に活躍する場を与えられるわけではない。会って話していて、筆者などはものすごくもったいない感がするのだが、おそらく70-80年代のイラクの経済開発に関わった経験をもつ日本企業も、同じ気持ちだろう。彼らが相手にしていたイラクのカウンターパートというのは、こういう人たちだったからだ。それが今、大半が「旧体制の名残」として重用されずにいる。

 発展していないバスラの姿を見るのは物悲しい思いだったが、だが発展しない原因のひとつが、武人政治が都市を席巻できないからだと考えると、席巻できない元中間層と商人政治がまだまだ健在なのは頼もしいぞと、なんとなく腑に落ちた。

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