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サウディ・イラン対立の深刻度 - 酒井啓子 中東徒然日記

ニューズウィーク日本版 2016年1月6日 21時38分

 サウディアラビアでのシーア派宗教指導者ニムル師の処刑、在テヘラン・サウディ大使館への抗議の暴徒化、イラン・サウディ間の国交断絶、親サウディ諸国の対イラン断交――。年頭から急に緊迫化した中東情勢に、友人がフェースブックでこう嘆いた。

 「いつも『問題は宗派対立じゃない』といい続けてきたけど、またくりかえさなきゃならないのか」。

 友人の嘆きのとおり、日本のメディアには、イラン=シーア派、サウディ=スンナ派の宗派対立との論調が相次ぐ。だが、英インディペンデント紙にロンドン大学比較哲学の教授が書いているように、「イランとサウディ間の緊張関係は宗教とほとんど関係ない」。むしろ「両国関係は地域覇権をめぐるもの」であり、「神なき世界政治の現実」だと、ムガッダム教授は言う。サウディのシーア派について2014年にThe Other Saudiを出版して、いまや世界中で売れっ子の英オクスフォード大若手研究員、トビー・マシューセンは、「ニムル師の処刑はもっぱら国内世論向けの行動」と指摘している。

 宗教や宗派じゃなく一連の展開を説明すれば、こうだ。

① サウディアラビアは、イラン革命で王政を倒してイスラーム主義を掲げた共和政政権を作り上げたイランを脅威視している。同じ発想でいけば、サウディでも王政が倒れるからだ。

② だがこれまでは、革命イランに対して他の国が前線に立って、これをやっつけてくれた。80年代にはイラクがイラン・イラク戦争で、湾岸戦争(1991年)以降はアメリカがイランとイラクを「二重封じ込め」作戦によって、である。サウディは、自分で何かしなくても安心できた。

③ ところが、イラク戦争(2003年)でイラクにイラン型イスラーム主義の政権ができた。イラクを介して、アメリカとイランの間にパイプができる。

④ 加えてシリア内戦で、アメリカはサウディが反対しているアサド政権を徹底的に叩こうとしなかった(2013年)。サウディは腹を立てて国連安保理の非常任理事国を辞退した。

⑤ 同じ年、イランで穏健派大統領が選出される。ここぞとばかりに、アメリカは核開発協議を進め、2015年7月には合意に至った。外国企業もイラン詣でが盛んだ。

⑥ さらに2014年に「イスラーム国」(IS)がイラクに侵攻すると、ISに戦うためにイラン革命防衛隊が大活躍を始める。イラクの「人民動員組織」やレバノンのヒズブッラーなど、反IS部隊の大半が、イラン革命防衛隊の手ほどきを受けている。

 こうして、サウディにとっては「このままではイランがどんどん、域内ばかりか国際的に復帰してしまう。なんとかこれを阻止しなければ」、という状況が生まれていたのだ。

 一方で、サウディアラビアは9.11同時多発テロ事件以来、欧米諸国から「?」をもってみられるようになった。「9.11テロの実行犯の多くがサウディ人じゃないか」とか、「ISの過激思想の根源にはワッハーブ派がある」とか、「サウディからISに合流する人口は、アラブ諸国のなかでチュニジアに次いで二番目に多い」、などなど。批判の矢が向くたびに、サウディは欧米諸国を喜ばすことをしなければならない。議会の設置だの、選挙制度導入だの、女性参政権だのが、それである。平行して、対テロ対策もしっかりせよ、といわれる。「もっと真剣に過激派対策をせよ」という圧力が強まる都度、なにかしなければならない。

 年頭に死刑が執行された47人の多くは、アルカーイダ系の過激派だった。だが、アルカーイダやISにつながる厳格なワッハーブ思想に共鳴するサウディ国民が、いないわけではない。となれば、スンナ派の「過激派」ばかりを取り締まってシーア派の「過激派」を処刑しないのはけしからん、との王政批判が出てくる危険性もある。そこで、シーア派のニムル・アルニムル師の死刑執行、という流れが生まれたのだ。

 では、ニムル師の存在は、どれほどサウディにとって危険だったのか。

① サウディアラビア東部出身のニムル師は、90年代にイラン留学から帰国して以降、社会格差に不満を持つシーア派の若者に人気を博した。従来の在サウディ・シーア派社会が伝統的に政府との協調路線をとってきたのに対して、それに飽き足らない若者の不満を代弁したのだ。

② ニムル師が本格的にサウディ政府に危機感を抱かせたのが、「アラブの春」。隣国バハレーンで、人口の多数を占めながら政治中枢からはずされたシーア派住民を中心とした反政府デモが激化する一方で、サウディ東部でも反政府デモが起きた。民衆の反王政の波が高まることを恐れて、サウディ王政は「アラブの春」を抑えにかかる。自国はもちろん、隣国バハレーンにすらGCC軍を派兵した。

③ ところが、ウィキリークスによると、リヤドの米大使館は2008年の段階でニムル師を「反米でも親イランでもないし、そんなに過激でもない」と評価している。多くの湾岸研究者が、湾岸のシーア派社会はイランの子飼いでも手先でもない、と指摘している。

 2014年10月にニムル師に死刑判決が下ってから、世界中で反対運動が起きていた。アムネスティ・インターナショナルやヒューマン・ライツ・ウォッチなどの人権団体はむろんのこと、自由と民主主義を守るアメリカのシンクタンク、フリーダムハウスなど、15のNGOが死刑判決取りやめの陳情を、ケリー米国務長官に提出している。アルカーイダ系過激派の処刑とバランスを取るためにニムル師を処刑、というのはいかがなものか、というのが、国際社会の反応だろう。

 そう、問題は、ニムル師の死刑執行が、国内世論への配慮とか地域覇権抗争の処理のために取られたものであるわりには、社会的にコントロール不可能なほどのインパクトを持っていることだ。国交断絶まで行ったことに危機感を抱きつつも、メディアの間には、「でももともと関係良くなかったんだし、80年代の終わりに断交したときもすぐ国交回復したし」という意見もある。確かに、「神なき世界政治の現実」に即せば、直接衝突という割に会わない行動は、両国ともに取りたくないだろう。

 だが、対立がエスカレートしたあげくに何が見えてくるのか、落としどころがみえない。両国で手の内を完璧に読みあっていれば別だが、水面下で腹の探りあいができているかどうかすら、怪しい。

 1988年にサウディがイランと断交したのも、サウディを訪問したイラン人巡礼団がサウディ警察と衝突し、そのあおりでテヘランのサウディ大使館が襲撃されたことが原因だが、このときはサウディ人ひとりが巻き込まれて死亡するという事件にまでなった。その後両国は91年に国交回復したが、それは湾岸戦争でイラクが世界共通の敵になったからだ。今回の断交を解くには、湾岸戦争並みの大事件がどこかで起こらなければならないのだろうか。

 そもそも、サウディとイランの対立の根幹には、「王政」対「抑圧された者たちによる革命主義」がある。怖いのはシーア派ではない。抑圧されたシーア派が「抑圧されたものは立ち上がって抑圧者を倒していいんだ」というお墨付きを得て、立ち上がってしまうことだ。最初にお墨付きを与えたのは、イラン革命だ。それが、「持てる者=王政」のサウディの危機意識を煽った。次にお墨付きを与えたのが、「アラブの春」である。サウディ王政の目には、両方がごっちゃになって、シーア派=イラン=サウディの安定を脅かすもの、と映っている。

 今、サウディは、対イラン包囲網形成のために、同盟国に対イラン外交関係のサウディ同調を求めている。バハレーン(サウディ以上に「シーア派=イラン」脅威論にとらわれている)とスーダンがイランと断交した。UAEやクウェートも外交関係をグレードダウンし、エジプトはサウディの決断に「理解」を示した。同じ日に、サウディがエジプトに新たな借款の提供を約束しているのが、なんとも露骨だ。

 昨年12月に、サウディは「テロリズムと戦うイスラーム同盟」を立ち上げた。イラク、シリア、リビア、エジプト、アフガニスタンでの反テロ戦争を遂行するため、としているが、ISだけではない、「すべてのテロ組織」が対象であるという。

 その最初の敵がイランだとしたら、深刻の度を越している。

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