政治ゴシップ本を扱う書店として知られる香港の銅鑼湾書店。その関係者5人が次々と失踪した事件が注目を集めている。
事件の発端は2015年10月のこと。銅鑼湾書店を保有するマイティ・カレント・メディアの筆頭株主・桂民海さんが滞在中のタイのリゾート地から姿を消した。その後、同社株主の呂波さんが広東省深圳市で、銅鑼湾書店店員の張志平さんと林栄基さんが広東省東莞市でと、次々に失踪した。
そして12月30日、銅鑼湾書店店主にしてマイティ・カレント・メディアの編集者である李波さんが香港で失踪した。失踪から3日後、李さんは広東省深圳市から香港の妻に電話をかけ、「(捜査に)協力している。騒がないで欲しい」と話している。また、銅鑼湾書店に無事を伝える直筆のファックスも送っている。
しかし、香港住民の李さんが中国本土に入境するためには「回郷証」という、パスポートに相当する証明書が必要となる。「回郷証」は自宅にあり、また出境記録も残されていないため、密出国の形で中国本土入りしたと考えざるをえない。なんらかのトラブルに巻き込まれていることは明らかだ。中国当局は認めていないが、強引に連れ去られた可能性が高い。
李さんは昨年11月に香港メディアの取材に答え、失踪した仲間たちは中国当局に拘束された可能性が高い、それでも自分は「香港にいるので不安はない」と語っていた。香港の言論の自由に対する李さんの信頼は、はかなく裏切られてしまった。
今回の事件は世界的に大きな注目を集めている。「言論の自由」の問題、中国本土とは別個の法体系を香港に保証している「一国二制度」の枠組みが踏みにじられたという問題、さらにはスウェーデン国籍の桂民海さん、英国籍の李波さんが連れ去られたという外交問題が焦点となっている。
いずれも重要な問題だが、ここでは視点を変えて中国の言論規制の変化について考えてみたい。
政府批判のSNSは検閲対象ではなかった
ハーバード大学ケネディスクールのギャリー・キング教授は2013年、中国の検閲基準に関する研究を発表している。中国のSNSやネット掲示板でどのような書き込みが検閲対象になったかを調べたものだが、意外な事実が浮かび上がった。政府批判の書き込みが検閲対象になることは少なかったのだ。削除されていたのは、デモやストライキの呼びかけなど、人を集めてなんらかの行動を起こすよう呼びかける書き込みが中心だった。
この研究はネットを対象としたものだが、新聞や書籍、雑誌でも、ネットよりは規制が厳しいとはいえ同様の傾向がある。ジャーナリストや作家は問題となる一線を理解し、そのぎりぎりで言論活動を続けてきた。
ところが習近平政権誕生以後、検閲のラインは変化し次第に厳しくなりつつある。拙著『なぜ、習近平は激怒したのか――人気漫画家が亡命した理由』に詳述したが、習近平政権は「ネット世論の陣地」掌握を命題に掲げ、人権活動家やオピニオンリーダーを激しく弾圧、逮捕するとともに、アニメや漫画、ブロガーを活用したイメージ戦略を採用している。直接行動を呼びかける言論だけではなく、政権のイメージにとってマイナスとなる言論をも規制しだしたわけだ。
習近平体制の手法を先取りしていたのが、失脚した元重慶市共産党委員会書記の薄熙来だ。大規模な革命歌コンサートを開き、地元テレビ局に中国共産党賛美を中心とするよう指示した薄熙来は、自らを毛沢東の後継者、革命の申し子として印象づけ、人民の支持を自らの政治力に変えようとしていた。
その一方で、自分のイメージを汚すような言論は徹底弾圧する姿勢を示しており、薄熙来批判の風刺漫画をリツイートした人や「薄熙来は大便」と書き込んだ人が労働矯正処分を受けるという事件もあった。
薄熙来が重慶市という地方自治体で展開していた手法を、習近平が踏襲したという見方もできるだろう。
配本数が10分の1に減少した出版社も
銅鑼湾書店の問題もこの流れに位置づけられる。「一国二制度」によって言論の自由が保証された(はずの)香港では、中国政治指導者の政治ゴシップ本が粗製濫造され、大量に出版されている。購入者は香港人だけではない。中国人観光客が本土では手に入らない珍しいおみやげとして購入してきた。この香港政治ゴシップ本を潰そうというのが狙いだろう。
銅鑼湾書店関係者の失踪以外でも、昨年から中国の税関で荷物検査が徹底され、政治ゴシップ本が没収されるケースが増えている。また香港の大手書店には中国政府の圧力がかかり、政治ゴシップ本の販売をとりやめるケースも出ているという。
政治ゴシップ本の出版で知られる香港新世紀出版社の鮑朴社長は昨年10月、米紙インタビューに答え、香港書店業界で70%のシェアを持つ聯和出版が習近平就任以来、政治ゴシップ本の仕入れ数を大幅に減らしていることを明かしている。香港新世紀出版社の配本数はわずか10分の1にまで減少しているという。このままでは香港名物ともいえる政治ゴシップ本市場の存続すら危ぶまれている。
また人民日報社旗下の環球時報は5日の社説で、「香港は敵対勢力による国家政治制度の転覆活動の基地になってはならない」と主張し、香港政治ゴシップ本の取り締まりを支持する姿勢を明らかにしている。
かつて香港は中国の窓だった。この地を通じてさまざまなコンテンツが中国に流れ込み、大きな影響を与えていった。しかし香港返還、中国本土の経済成長を経た今、すっかり様変わりしてしまった。中国に影響を与える窓になるどころか、中国から非民主的な検閲が流れ込みつつある。
[執筆者]
高口康太
ジャーナリスト、翻訳家。1976年生まれ。千葉大学人文社会科学研究科(博士課程)単位取得退学。独自の切り口から中国・新興国を論じるニュースサイト「KINBRICKS NOW」を運営。著書に『なぜ、習近平は激怒したのか――人気漫画家が亡命した理由』(祥伝社)。
高口康太(ジャーナリスト、翻訳家)
事件の発端は2015年10月のこと。銅鑼湾書店を保有するマイティ・カレント・メディアの筆頭株主・桂民海さんが滞在中のタイのリゾート地から姿を消した。その後、同社株主の呂波さんが広東省深圳市で、銅鑼湾書店店員の張志平さんと林栄基さんが広東省東莞市でと、次々に失踪した。
そして12月30日、銅鑼湾書店店主にしてマイティ・カレント・メディアの編集者である李波さんが香港で失踪した。失踪から3日後、李さんは広東省深圳市から香港の妻に電話をかけ、「(捜査に)協力している。騒がないで欲しい」と話している。また、銅鑼湾書店に無事を伝える直筆のファックスも送っている。
しかし、香港住民の李さんが中国本土に入境するためには「回郷証」という、パスポートに相当する証明書が必要となる。「回郷証」は自宅にあり、また出境記録も残されていないため、密出国の形で中国本土入りしたと考えざるをえない。なんらかのトラブルに巻き込まれていることは明らかだ。中国当局は認めていないが、強引に連れ去られた可能性が高い。
李さんは昨年11月に香港メディアの取材に答え、失踪した仲間たちは中国当局に拘束された可能性が高い、それでも自分は「香港にいるので不安はない」と語っていた。香港の言論の自由に対する李さんの信頼は、はかなく裏切られてしまった。
今回の事件は世界的に大きな注目を集めている。「言論の自由」の問題、中国本土とは別個の法体系を香港に保証している「一国二制度」の枠組みが踏みにじられたという問題、さらにはスウェーデン国籍の桂民海さん、英国籍の李波さんが連れ去られたという外交問題が焦点となっている。
いずれも重要な問題だが、ここでは視点を変えて中国の言論規制の変化について考えてみたい。
政府批判のSNSは検閲対象ではなかった
ハーバード大学ケネディスクールのギャリー・キング教授は2013年、中国の検閲基準に関する研究を発表している。中国のSNSやネット掲示板でどのような書き込みが検閲対象になったかを調べたものだが、意外な事実が浮かび上がった。政府批判の書き込みが検閲対象になることは少なかったのだ。削除されていたのは、デモやストライキの呼びかけなど、人を集めてなんらかの行動を起こすよう呼びかける書き込みが中心だった。
この研究はネットを対象としたものだが、新聞や書籍、雑誌でも、ネットよりは規制が厳しいとはいえ同様の傾向がある。ジャーナリストや作家は問題となる一線を理解し、そのぎりぎりで言論活動を続けてきた。
ところが習近平政権誕生以後、検閲のラインは変化し次第に厳しくなりつつある。拙著『なぜ、習近平は激怒したのか――人気漫画家が亡命した理由』に詳述したが、習近平政権は「ネット世論の陣地」掌握を命題に掲げ、人権活動家やオピニオンリーダーを激しく弾圧、逮捕するとともに、アニメや漫画、ブロガーを活用したイメージ戦略を採用している。直接行動を呼びかける言論だけではなく、政権のイメージにとってマイナスとなる言論をも規制しだしたわけだ。
習近平体制の手法を先取りしていたのが、失脚した元重慶市共産党委員会書記の薄熙来だ。大規模な革命歌コンサートを開き、地元テレビ局に中国共産党賛美を中心とするよう指示した薄熙来は、自らを毛沢東の後継者、革命の申し子として印象づけ、人民の支持を自らの政治力に変えようとしていた。
その一方で、自分のイメージを汚すような言論は徹底弾圧する姿勢を示しており、薄熙来批判の風刺漫画をリツイートした人や「薄熙来は大便」と書き込んだ人が労働矯正処分を受けるという事件もあった。
薄熙来が重慶市という地方自治体で展開していた手法を、習近平が踏襲したという見方もできるだろう。
配本数が10分の1に減少した出版社も
銅鑼湾書店の問題もこの流れに位置づけられる。「一国二制度」によって言論の自由が保証された(はずの)香港では、中国政治指導者の政治ゴシップ本が粗製濫造され、大量に出版されている。購入者は香港人だけではない。中国人観光客が本土では手に入らない珍しいおみやげとして購入してきた。この香港政治ゴシップ本を潰そうというのが狙いだろう。
銅鑼湾書店関係者の失踪以外でも、昨年から中国の税関で荷物検査が徹底され、政治ゴシップ本が没収されるケースが増えている。また香港の大手書店には中国政府の圧力がかかり、政治ゴシップ本の販売をとりやめるケースも出ているという。
政治ゴシップ本の出版で知られる香港新世紀出版社の鮑朴社長は昨年10月、米紙インタビューに答え、香港書店業界で70%のシェアを持つ聯和出版が習近平就任以来、政治ゴシップ本の仕入れ数を大幅に減らしていることを明かしている。香港新世紀出版社の配本数はわずか10分の1にまで減少しているという。このままでは香港名物ともいえる政治ゴシップ本市場の存続すら危ぶまれている。
また人民日報社旗下の環球時報は5日の社説で、「香港は敵対勢力による国家政治制度の転覆活動の基地になってはならない」と主張し、香港政治ゴシップ本の取り締まりを支持する姿勢を明らかにしている。
かつて香港は中国の窓だった。この地を通じてさまざまなコンテンツが中国に流れ込み、大きな影響を与えていった。しかし香港返還、中国本土の経済成長を経た今、すっかり様変わりしてしまった。中国に影響を与える窓になるどころか、中国から非民主的な検閲が流れ込みつつある。
[執筆者]
高口康太
ジャーナリスト、翻訳家。1976年生まれ。千葉大学人文社会科学研究科(博士課程)単位取得退学。独自の切り口から中国・新興国を論じるニュースサイト「KINBRICKS NOW」を運営。著書に『なぜ、習近平は激怒したのか――人気漫画家が亡命した理由』(祥伝社)。
高口康太(ジャーナリスト、翻訳家)