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トルコ攻撃に見え隠れするロシアの「自分探し」症候群

ニューズウィーク日本版 2016年1月12日 18時30分

 ロシアのプーチン大統領が暴れている。シリア政府を支援しようと15年9月に反政府勢力への空爆を始め、11月にロシア軍機がトルコ軍に撃墜されてからは執拗にトルコを威嚇している。

 14年のクリミア併合以降はヨーロッパに対して、さらに今ではトルコに対しても強硬姿勢を取るようになった。背景にあるのはロシアのアイデンティティーの危機だ。この問題について、歴史をさかのぼって見ていこう。

 ロシアは近代以来、「ヨーロッパか、それともアジアか」をめぐって悩んできた。19世紀半ばに農奴を解放して近代化を目指した際も、ヨーロッパと同じ道を歩むべきか、独自の目標を立てるべきなのかが、ロシアの支配層と知識人における政治的な課題となった。

 1917年にロシア革命が勃発すると、大勢の知識人は外国に亡命。オーストリアのウィーンとブルガリアのソフィアなどを拠点に活動していた言語学者のニコライ・トルベツコイとピョートル・サビツキーもそうした亡命者だ。

 彼らは「ユーラシア主義」という魅力的な学説を提示して、祖国の苦悩を解決しようとした。それは「ロシアはヨーロッパでもアジアでもなく、ユーラシア」との位置付けだ。ロシアはその「内なるアジア」を切り捨てたり敵視したりするのではなく、むしろアジア文化の先進性と多様性に目を向けるべきだという。

 ここでいう「アジア」はトルコ系やモンゴル系の遊牧民を指す。特に13~15世紀のモンゴル帝国による支配はロシアに停滞をもたらした「くびき」ではなく、モスクワを中心に散らばっていたスラブ系諸集団をロシア民族という1つの民族にまとめ上げた原動力だった。ステップ(草原)の遊牧民に淵源する叙事詩はロシア文学の爛熟を促し、草原の音楽とダンスはさらに洗練されてバレエに昇華していったという。

「出自」は草原の遊牧民

 こうしたユーラシア主義的な思想と政治運動は1922年のソ連成立後に消えていった。亡命知識人たちがソ連との妥協を余儀なくされたからだけでない。共産主義が掲げる「世界革命」によって民族の垣根を越えて、抑圧と搾取のない真の平等社会をつくることができるだろうと、知識人が理解したからだ。「諸民族の平等と自決」をうたうソ連はユーラシア主義の理想を部分的に実現したとさえみられるようになった。

 約70年後にソ連が崩壊しトルコ系諸民族の国々が独立すると、ロシア・ナショナリズムが醸成された。ソ連時代に中央アジアに移住していたロシア人は、カザフスタンやトルクメニスタンなど5カ国が独立すると祖国に帰還。自らをヨーロッパの一員と位置付けようとし、逆に欧米はソ連消滅後の寂しいロシア人ナショナリストを利用した。主要国サミットの椅子を1つ増やして手なずける一方、NATOの東方拡大を止めようとはしなかった。

 プーチンも大国の指導者としてG8に参加したものの、まるで19世紀にパリやロンドンのホールで踊ったロシアの貴族のような居心地だったことだろう。「貴殿のスカートの下には毛皮のコートが見え隠れしている」と揶揄され、「ヨーロッパの貴族のように振る舞っても、出自は草原の遊牧民」との嫌みを言われ続けたような気分だったに違いない。

 そうした欧米の傲慢さが結果としてプーチンをいら立たせ、クリミア併合とウクライナ東部への介入をもたらした。何しろロシアにはナポレオンやヒトラーに勝利したという歴史的な自負がある。ヨーロッパに対する勝算も十分だ。

 問題は攻撃の矛先をトルコにまで向けたことだ。自他共に認めるトルコ系諸民族の盟主を執拗に敵視するならば、自らの首を絞めかねない。既にユーラシアにおいて、トルコ系諸民族のほうがロシア人を人口で凌駕しているし、何よりも草原の住民も歴史的に「ロシアの一員」だったのだから。

[2016.1.12号掲載]
楊海英(本誌コラムニスト)

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