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古市憲寿氏が指摘する、日本型コミュニケーションの「非生産性」 - 冷泉彰彦 プリンストン発 日本/アメリカ 新時代

ニューズウィーク日本版 2016年1月14日 19時0分

 社会学者の古市憲寿氏が「電話や手紙で依頼する人とは仕事できない」という主旨の発言をして、議論を呼んでいます。手紙で時間をかけて敬意を表現することが「仕事ができない人」に思えるとか、「電話で仕事する人」とは合わないということなのですが、これに対しては、「他者への敬意がない」とか「日本の情緒を否定するのか」というような批判がネットでは飛び交っています。

 問題となっているのは、要するに「コミュニケーションの生産性」だと思います。

 まず電話ですが、電話には大きなメリットがあります。電話の声や態度、雑談による追加情報など、メールやメッセージと比較すると付加情報の量が多いということです。このことは、決定的なメリットになる場合があります。例えば、双方に利害対立があり、かならずしも全ての交信がフレンドリーでないような場合は、疑念の確認や追及をしたり解決したりという臨機応変でダイナミックなコミュニケーションが可能です。

 まったく別の事例としては、弔意や祝意など個人的なエモーションを付加する必要がある場合には、発語のニュアンスなど言語・非言語の表現で膨大な情報を同時送信することができるわけで、これも電話の大きなメリットだと言えるでしょう。

 反対に電話でのコミュニケーションには、3つ大きなデメリットがあります。1つは双方が同じ時間帯に交信のための時間を取らねばならないということ、2つ目には一発で本人に通じない場合には伝言をしたり折り返しかけたり、さらに余計な時間と手間がかかるということ、3番目には本論以外の挨拶や雑談で冗長になることです。

 手紙についても同様です。デメリットは明らかです。用箋を選んで手書きし、住所を調べて切手を貼って投函する、しかも配達まで数日を要し、相手の返信を含めた一往復には最低でも3~4日を要するわけです。

 もちろん、そのデメリットに見合うだけのメリットもあります。電話同様に利害対立のある状況では、配達証明を駆使して通告の有効性を立証できるというのが最大のものです。配達証明などという大袈裟なことをしないでも、紙の文書や、ファックス文書でも通告の有効性はメールや電話よりも高まるでしょう。

 さらにこれも電話と同様ですが、エモーショナルな内容、それこそ弔意や祝意の表現においても手紙は強みを発揮します。グリーティング・カードや慶弔の様式などを使って、様式美の枠に入れることでメッセージの強度を付加することができるからです。さらに個人的な私信の場合、強いエモーションを目に見える筆跡で伝えることで、目に見える言語・非言語の付加情報が同時送信できます。

 問題は、電話にしても手紙にしても、デメリットに見合うだけのメリットのある局面でなく「明らかに不要な局面」でも使われるということです。特に必要な事実関係をハッキリ伝えればいいだけの「ビジネス」の局面、しかも利害が対立していない局面では、実際にデメリットに見合うメリットはないわけです。この点で、私は古市氏の指摘は正しいと思います。

 これに加えて、電話や手紙を使う人は、返信にも「電話や手紙を期待する」つまり、こちら側からの返信時に同じようなことを期待しているという側面があります。つまり双方向での時間や労力の浪費になるわけで、古市氏はそれを嫌っているという言い方で批判している、このことも重要な指摘だと思います。

 さらに言えば、デメリットが上回るにも関わらず電話や手紙を使いたがるのは、別の要素もあります。ビジネスのコミュニケーションにおいては儀礼的な部分が多いのですが、その儀礼的な表現のほとんどは「上から下への」権力の行使、「下から上への」服従の姿勢の表明という、要するに「上下ヒエラルキーの確認行動」として行われているわけです。

 その上下関係に関して、例えば組織内の指揮命令系統という「必要な組織インフラ」としての約束を越えて、全人格的なものとして人間を束縛する中で、そのことがより下の世代への人格否定という暴力を伴うこともあるわけです。例えば、「発注者は顧客であり、被発注者は供給側だから発注者が偉い」とか「指導教官は学問上のアドバイザーという範疇を越えて『弟子』の人格的な問題まで『指導』する」というような種類です。

 例えば電車の遅延など理由が明確な場合でも「LINEでの遅刻届」には抵抗があるという「上司」の発想の背景には何があるのでしょう? それは、「自分に非がなくても遅刻という現象においては謝罪的な姿勢を取る」という儀式性がないと、上下ヒエラルキーの確認ができなくて心理的に当惑するからです。

 そう考えると、この上下ヒエラルキーの確認という問題は、「下」への束縛だけでなく、ある種の格好で管理者の心理も束縛していると言えるでしょう。「フレンドリーな関係」の維持コストとしての儀式的なコミュニケーションというのは、何も生まない一方で関係者全員にコストとしては重くのしかかっているのです。

 こうした上下ヒエラルキー、そしてその確認作業としてのコミュニケーションの儀式性ということは、日本社会の生産性を大きく毀損するばかりか、より若い世代の、より新しい発想に基づいた社会の改革を阻害しています。そう考えると、古市氏の指摘は、単に「手書きが面倒」とか「折り返しの電話で時間を取られる」といったことを越えて大切な指摘を含んでいると思うのです。

 問題は手紙や電話だけではありません。さらに「対面型コミュニケーション」というものが大きく日本社会の生産性を奪っています。「下から上への説明」や「ネガティブ情報の報告」は「出向いて直接行う」のが正しく、その際の移動というコスト、さらにそれに伴う煩瑣な謝罪行動や上下関係の確認コミュニケーション、そして時には飲食を伴う膨大な時間とカネの浪費、こうしたコストによって日本経済は大きく消耗し、そこに生きる個々人も大きく消耗しているということに気づくべきだと思います。

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