足元にはカボチャ色をした4000トンの泥が広がり、周りでは爆発音が響いたり巨大な車両が動き回ったり。頭上からはラスベガスのネオンよりずっと明るい光が照り付ける──。
昨年の初頭、私は火星にいた。厳密に言えば、リドリー・スコット監督の映画『オデッセイ』の撮影セットを訪れていた。
映画の時代設定は今から数十年後の未来。宇宙飛行士のマーク・ワトニー(マット・デイモン)は火星探査ミッションの最中に砂嵐に遭遇し、他のクルーたちとはぐれてしまう。ワトニーは死んだと判断したクルーらはそのまま地球に帰還。だがワトニーは生きており、火星に独り残された彼の闘いが始まる。
原作はベストセラー小説『火星の人』
NASAとの通信手段は断たれ、次のミッションが火星に来るのは4年後。ワトニーは10カ月分しかない食料で厳しい環境を生き延びなければならない。彼は科学者としての知識を総動員して、ジャガイモの栽培や水の確保、自分の生存をNASAに伝えることにも成功した。
原作は、元コンピュータープログラマーのアンディ・ウィアーがネットで連載し、後にベストセラー小説となった『火星の人』(邦訳・早川書房)。NASAはこの小説をいたく気に入り、「人々の宇宙への関心を再び高めるチャンスだとみていた」と、ウィアーはワイアード誌に語っている。
1959~74年の宇宙開発競争の時代、NASAはマーキュリー計画やアポロ計画などで有人宇宙飛行に力を入れた。しかし、その後は新たな有人探査をほとんど行っていない。
「NASAは目標を見失っている。組織を立て直して宇宙探査を進めていかないといけない」と、科学やテクノロジーに関する政府機関の諮問委員会メンバーを務める環境デザイナーのブラン・フェレンは言う。「それにはビジョンと情熱が必要であり、映画がそのきっかけになってもいいじゃないか」
【参考記事】R・スコット監督のSF映画『オデッセイ』が米で首位発進、宇宙科学への関心喚起に貢献
では、火星に取り残された男の物語が、本当に火星探査の助けになるのか。
意外にもウィアーは救世主だった。『火星の人』は基本的に、369ページに及ぶ火星サバイバル術だ。ウィアーはこの本のことを「専門家のための専門書」と表現している。ほとんどのリサーチはグーグルでしたとウィアーは言っているが、本に描かれている科学の知識がこれほど正確なのは驚きだ。
宇宙を描いた秀逸な映画は「正しい感性」によって大衆の想像力を膨らませると、フェレンは言う。彼が触発された最初の作品は、スタンリー・キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』(68年)。多くの宇宙飛行士や科学者たちが、自分のキャリアのきっかけをつくった映画として挙げる作品だ。
NASAで映画製作への協力窓口となっているバート・ウルリッヒによれば、キューブリックをはじめ制作サイドは21世紀の宇宙探査がどんなものになっているかを描くために、未来学者や科学者らと一緒に徹底的なリサーチを行ったという。その結果、彼らはほぼ正確に予測することができた。
科学と芸術が融合する
『2001年宇宙の旅』で驚くほど正確に未来を描けたことが、『ゼロ・グラビティ』や『トゥモローランド』など近年のハリウッド映画へのNASAの協力を後押ししているのかもしれない。なかでも『オデッセイ』でのパートナーシップは別格だった。NASAは多くの人材を割いて、脚本段階から協力した。
NASAは今回のチャンスを最大限に利用したいようだ。プロデューサーのマーク・ハッファムによれば、彼と監督のスコットが最初の製作会議のときにNASAに電話をかけると、「先方は既に原作のことを知っていて、アイデアを自由に交換することに大変乗り気だった」らしい。
最初はウルリッヒだけとのやりとりだったが、協力関係はすぐに拡大した。脚本の監修をしてくれたNASAのスタッフの中には、オバマ政権の宇宙政策や2020年の火星探査ミッションなどに携わっている科学者たちも名を連ねていた。
ワトニー(左端)は死んだと勘違いしたクルーは地球に帰還 ©2015 TWENTIETH CENTURY FOX FILM
つまり、NASAは『オデッセイ』の製作すべてに関与した。脚本のドリュー・ゴダードはNASAのためにロボットを開発しているカリフォルニア工科大学の研究所を訪れたし、衣装デザイナーは宇宙服についてNASAの助けを借りた。
美術監督のアーサー・マックスはアポロ計画で使われた管制室や、現在の国際宇宙ステーション(ISS)の管理センターなどヒューストンにあるNASAの施設を数多く見学させてもらった。NASAの協力がなければ『オデッセイ』のセットは作れなかったとマックスは言う。
【参考記事】NASA火星の大発見にも「陰謀」を疑うアメリカ人
もちろん、映画がNASAの広報に一役買っていることは間違いない。デイモンはNASAが開発中の火星探査機「インサイト」のシリコンチップに自分の名前を刻んだ。
14年12月に打ち上げられた新型宇宙船「オリオン」の無人試験機には、この映画の脚本の表紙も載せられた。オリオンは人類を火星に連れて行く最初の宇宙船になるとうたわれている。搭載された脚本の表紙にはスコットが描いたワトニーのスケッチと、「科学の力で何とかこの惑星で生き延びてやる」というワトニーのせりふが添えられた。
『オデッセイ』には、過去にスピリットやオポチュニティーといった無人探査車が火星で撮影した実際の映像も挿入されている。いわばロボットが映画監督の役を担い、科学と芸術が融合した映像だ。
「宇宙探査の分野では以前から、科学と芸術の興味深いコラボレーションが行われてきた」と、フェレンは言う。「人類が宇宙に行けるようになる前は、夜空に見える小さな点は何なのか想像するしかなかった。その好奇心からストーリーが生まれる。人類の好奇心が芸術と科学を結ぶのだ」
『オデッセイ』のセットで撮影中のデイモンは言った。「自分より賢いキャラクターを演じるのは楽しい。彼はすぐに正しい答えを見つけるんだ。俺なら火星で20分ももたないだろうって、何回思ったことか」
NASAは映画の公開終了後も人々の火星探査の夢が長くもってほしいと願っている。
[2016.2. 9号掲載]
ゴゴ・リッズ
昨年の初頭、私は火星にいた。厳密に言えば、リドリー・スコット監督の映画『オデッセイ』の撮影セットを訪れていた。
映画の時代設定は今から数十年後の未来。宇宙飛行士のマーク・ワトニー(マット・デイモン)は火星探査ミッションの最中に砂嵐に遭遇し、他のクルーたちとはぐれてしまう。ワトニーは死んだと判断したクルーらはそのまま地球に帰還。だがワトニーは生きており、火星に独り残された彼の闘いが始まる。
原作はベストセラー小説『火星の人』
NASAとの通信手段は断たれ、次のミッションが火星に来るのは4年後。ワトニーは10カ月分しかない食料で厳しい環境を生き延びなければならない。彼は科学者としての知識を総動員して、ジャガイモの栽培や水の確保、自分の生存をNASAに伝えることにも成功した。
原作は、元コンピュータープログラマーのアンディ・ウィアーがネットで連載し、後にベストセラー小説となった『火星の人』(邦訳・早川書房)。NASAはこの小説をいたく気に入り、「人々の宇宙への関心を再び高めるチャンスだとみていた」と、ウィアーはワイアード誌に語っている。
1959~74年の宇宙開発競争の時代、NASAはマーキュリー計画やアポロ計画などで有人宇宙飛行に力を入れた。しかし、その後は新たな有人探査をほとんど行っていない。
「NASAは目標を見失っている。組織を立て直して宇宙探査を進めていかないといけない」と、科学やテクノロジーに関する政府機関の諮問委員会メンバーを務める環境デザイナーのブラン・フェレンは言う。「それにはビジョンと情熱が必要であり、映画がそのきっかけになってもいいじゃないか」
【参考記事】R・スコット監督のSF映画『オデッセイ』が米で首位発進、宇宙科学への関心喚起に貢献
では、火星に取り残された男の物語が、本当に火星探査の助けになるのか。
意外にもウィアーは救世主だった。『火星の人』は基本的に、369ページに及ぶ火星サバイバル術だ。ウィアーはこの本のことを「専門家のための専門書」と表現している。ほとんどのリサーチはグーグルでしたとウィアーは言っているが、本に描かれている科学の知識がこれほど正確なのは驚きだ。
宇宙を描いた秀逸な映画は「正しい感性」によって大衆の想像力を膨らませると、フェレンは言う。彼が触発された最初の作品は、スタンリー・キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』(68年)。多くの宇宙飛行士や科学者たちが、自分のキャリアのきっかけをつくった映画として挙げる作品だ。
NASAで映画製作への協力窓口となっているバート・ウルリッヒによれば、キューブリックをはじめ制作サイドは21世紀の宇宙探査がどんなものになっているかを描くために、未来学者や科学者らと一緒に徹底的なリサーチを行ったという。その結果、彼らはほぼ正確に予測することができた。
科学と芸術が融合する
『2001年宇宙の旅』で驚くほど正確に未来を描けたことが、『ゼロ・グラビティ』や『トゥモローランド』など近年のハリウッド映画へのNASAの協力を後押ししているのかもしれない。なかでも『オデッセイ』でのパートナーシップは別格だった。NASAは多くの人材を割いて、脚本段階から協力した。
NASAは今回のチャンスを最大限に利用したいようだ。プロデューサーのマーク・ハッファムによれば、彼と監督のスコットが最初の製作会議のときにNASAに電話をかけると、「先方は既に原作のことを知っていて、アイデアを自由に交換することに大変乗り気だった」らしい。
最初はウルリッヒだけとのやりとりだったが、協力関係はすぐに拡大した。脚本の監修をしてくれたNASAのスタッフの中には、オバマ政権の宇宙政策や2020年の火星探査ミッションなどに携わっている科学者たちも名を連ねていた。
ワトニー(左端)は死んだと勘違いしたクルーは地球に帰還 ©2015 TWENTIETH CENTURY FOX FILM
つまり、NASAは『オデッセイ』の製作すべてに関与した。脚本のドリュー・ゴダードはNASAのためにロボットを開発しているカリフォルニア工科大学の研究所を訪れたし、衣装デザイナーは宇宙服についてNASAの助けを借りた。
美術監督のアーサー・マックスはアポロ計画で使われた管制室や、現在の国際宇宙ステーション(ISS)の管理センターなどヒューストンにあるNASAの施設を数多く見学させてもらった。NASAの協力がなければ『オデッセイ』のセットは作れなかったとマックスは言う。
【参考記事】NASA火星の大発見にも「陰謀」を疑うアメリカ人
もちろん、映画がNASAの広報に一役買っていることは間違いない。デイモンはNASAが開発中の火星探査機「インサイト」のシリコンチップに自分の名前を刻んだ。
14年12月に打ち上げられた新型宇宙船「オリオン」の無人試験機には、この映画の脚本の表紙も載せられた。オリオンは人類を火星に連れて行く最初の宇宙船になるとうたわれている。搭載された脚本の表紙にはスコットが描いたワトニーのスケッチと、「科学の力で何とかこの惑星で生き延びてやる」というワトニーのせりふが添えられた。
『オデッセイ』には、過去にスピリットやオポチュニティーといった無人探査車が火星で撮影した実際の映像も挿入されている。いわばロボットが映画監督の役を担い、科学と芸術が融合した映像だ。
「宇宙探査の分野では以前から、科学と芸術の興味深いコラボレーションが行われてきた」と、フェレンは言う。「人類が宇宙に行けるようになる前は、夜空に見える小さな点は何なのか想像するしかなかった。その好奇心からストーリーが生まれる。人類の好奇心が芸術と科学を結ぶのだ」
『オデッセイ』のセットで撮影中のデイモンは言った。「自分より賢いキャラクターを演じるのは楽しい。彼はすぐに正しい答えを見つけるんだ。俺なら火星で20分ももたないだろうって、何回思ったことか」
NASAは映画の公開終了後も人々の火星探査の夢が長くもってほしいと願っている。
[2016.2. 9号掲載]
ゴゴ・リッズ