イングランドのエセックスに住む英国人ジャーナリストが、日本社会の"入門書"を書いた。それも、日本の読者向けに日本で出版したのである。以前は日本に住んでいたというが、イギリスに帰ってもう5年。そんな人物に書く資格が――あるのだ。その人物はコリン・ジョイスだから。
本誌ウェブコラム「Edge of Europe」でもお馴染みのコリン・ジョイスは、92年に来日し、高校の英語教師や本誌記者、英紙『デイリーテレグラフ』東京特派員などを経て、2007年に日本を離れた(ちなみに、詳しいプロフィールはこちら)。
06年に著した『「ニッポン社会」入門』(谷岡健彦訳、NHK生活人新書)は10万部を超えるベストセラーに。その後も、『「アメリカ社会」入門』(谷岡健彦訳、NHK生活人新書)、『「イギリス社会」入門』(森田浩之訳、NHK出版新書)と、鋭い観察眼と無類のユーモアを注ぎ込んだ一連の著作で多くのファンを獲得している。
このたび、「日本を懐かしいと思えるようになりたかった」というジョイスが、見事にその願いをかなえ(?)、新刊『新「ニッポン社会」入門――英国人、日本で再び発見する』(森田浩之訳、三賢社)を上梓した。思いもよらない新たな発見が綴られた「目からウロコ」の日本論であり、抱腹必至のエッセイ集でもある本書から、一部を抜粋し、3回に分けて掲載する。
以下、まずは「9 ゆるキャラ、侮るなかれ」から。
◇ ◇ ◇
人が笑ってはいけないときに限って笑ってしまいがちな原因に迫った科学的研究はないのだろうかと、ぼくは思うことがある。長いことぼくは、笑ってはいけないときに笑ったことでかなり面倒を引き起こしてきたから、誰かがその原因を(できれば解決策も)見つけてくれたらとても助かる。
最近そういう事態に陥ったのは、東京の博物館の静寂の中だった。ぼくは友だちといっしょに版画のコレクションを観賞していた。明治維新後に新しい思想や発明がどんどん入ってきたすばらしい時代の東京を描いた作品群だ。おそらくぼくは自分を賢く見せたかったのだろう、このテーマについて持っている乏しい知識を披露しようとした(「当時の男性は洋服と和服を合わせて着ていたなんて面白いな」とか「浅草の五重の塔は、以前は浅草寺の右側にあったことがわかるでしょ」とか)。
それから友だちが口にした言葉に、ぼくは恥ずかしいほど爆笑してしまった。よりたくさんの人が、変な人だという目でぼくを見たので、事態はさらに面倒なことになってしまった。ぼくは笑いを押し殺そうとしたのだが、そのせいで鼻からおかしな音が出てしまい、まわりの人たちは今度はぼくを見ないようになった。いかれたやつだと思われた確かなしるしだ。そのせいでぼくはまた笑ってしまい、落ち着きを取り戻すまでにかなりの時間がかかった。友だちが口にした言葉は「あ、ノーパン・ピーポだよ」だった。彼女が警視庁のマスコット「キャラクター」の絵を載せたポスターの話をしているとわかるまでに、〇・五秒かかった。さらに笑いが噴き出すまでに、また〇・五秒かかった。奇妙なことに、笑いに身をよじらせてから、ようやくぼくは何がそんなにおかしいと思ったのか分析することになった。
ぼくは「ピーポくん」をずっと前から知っていて、日本に住む多くの外国人と同じく彼のことを変だと思っていた。この小さくてかわいらしいキャラクターは、どう見ても警察のシンボルにはふさわしくないように思えた。「ピーポくん」はもっと強そうなキャラクターであるべきではないか。犯罪との終わりなき戦いに立ち向かうべく、厳しそうで、できれば怖いくらいの顔つきをしていてもいいのではないか。
【参考記事】警察よ、ムダな抵抗はやめなさい
「ピーポくん」は、日本では組織や企業、キャンペーン、地域、商品など、ほとんどあらゆるものがかわいらしいキャラクターをシンボルにする必要性があることを示す典型的な例だ。
ぼくは長いことおかしなキャラクターに注目しつづけ、本当におかしなものは写真に撮っている。ぼくはキャラクターの名前をあまり気にしていなかったのだが、好きなもののなかには、たとえば公正な選挙を呼びかけるキャラクター(羽のついた猫が怒っているところだろうって? もちろん!)や、住宅情報サイトのシンボルになっている緑色のふわふわしたボール(緑色のふわふわしたボールもどこかに居場所が必要だから?)、あるいは仙台の「おにぎり頭」の観光PRキャラクターがある。
日本文化のこうした側面をおかしいと思う外国人はぼくだけではなかったと思うが、ぼくは自分のことも少し心配していたことを認めなくてはならない。「ふん、日本はこういうこっけいなキャラクターだらけで、それがおかしいと思えるのはぼくのような外国人だけなんだ」というふうに考えている自分に気づき、これはちょっと見下した態度だと思った。
【参考記事】嵐がニャーと鳴く国に外国人は来たがらない
仕事のうえでも私生活でも、ぼくは日本人が変わっているわけではないとか、まったく違う考え方をする人たちではないと主張する立場に身を置いていることがよくある。ときにイギリス人はなんの遠慮もなく「日本人って変な人たちなの?」と聞いてくる。そういう質問に、ぼくはいつも強く抵抗している。「外から見るとふつうではないようにみえることもあるけれど、歴史や文化の背景を考えれば納得がいく」と、ぼくは答える。あるいは「日本に初めて来たときには不思議に思えたことが、今ではまったくふつうに感じられるようになったと思う......。外から見ただけでは必ずしもわからない一貫性が内部にはあるんだ......」とか。そしてぼくは、そういう質問をすること自体が偏見の表れではないかと考えたほうがいいと、聞いてきた人にそれとなく、あるいはわりにはっきりと言う。
たとえば人々は、日本人は通勤のときに駅員の手で電車に「押し込まれる」ことを知っていて、どうして彼らはそんなことに耐えられるのかと尋ねてくる。ぼくは、なぜそうしたことが起こりえたかを説明する(きっと説明しすぎている)。日本では明治時代以降の実に急速な近代化によって、経済と政治とアカデミズムが都市部に集中したこと。日本では税制上の理由から、企業が社員の通勤交通費を支払うことが理にかなっており、そのため社員が長時間の通勤にも耐える動機を生んでいること。電車の運賃はロンドンよりかなり安いので(ただしロンドンの電車も、混雑ぶりは日本に追い着きつつある)、単純な運賃設定だったら人々は安くて混雑している電車に乗ることをそんなに気にしないこと。自分のまわりのスペースが減っても、人はそれなりに慣れていくということなど。
そんなわけで、ぼくはキャラクターのことをおかしいと思いながら、その理由を説明できずにいる自分の矛盾した立ち位置に、ずっと居心地の悪さを感じていた。
友だちが「ノーパン・ピーポ」と言ったとき、日本人もキャラクターのばかばかしさを理解していることに、ぼくは気づいたのだ。実際、キャラクターについては日本人のほうがぼくより厳しい目で見ている。ぼくは「ピーポくん」の外見がおかしくて、名前が変だと思っただけだった。でもぼくは、日本の人たちが「どうして彼はベルトを着けているのにズボンをはいていないの?」と疑問を投げかけたり、もっと気のきいた名前をつけようとしたりしていることも知っている。
やがてわかってきたのは、日本中が「ゆるキャラ」をめぐるドラマに夢中になっているということだった。なんといっても、この現象を表す「ゆるキャラ」という言葉まで生まれていた。これはぼくが日本を離れたあとに広まったのか。それとも、ぼくが気づいていなかっただけなのか。いずれにしても、ゆるキャラはもう避けて通れない。ゆるキャラの王様は、もちろん「くまモン」だ。「くまモン」はどこにでもいる。けれども挑戦者格の「ふなっしー」もいるし、ほかにもプロレスラーさながらに独自のアイデンティティーをつくり上げ、それぞれの「物語」を背負って、競争の舞台に上がろうとするキャラクターたちがいる。
ぼくは、ゆるキャラを別の視点から見るようになった。ゆるキャラの広まりには、特異な能力がそそがれている。キャラクターを生みだし、名前をつけるために(ときにはある種の個性も与えるために)、おびただしい想像力が投入されている(もしかすると、ここに使うにはもったいないほどかもしれない)。ぼくが新しいキャラクターをつくれと言われたら、どこから手をつければいいのかわからない。もうありとあらゆることが試されているからだ。それでも、新しいキャラクターはまだ生まれてくる。ぼくは「ふなっしー」が千葉県船橋市の公認マスコットでさえないことを知って驚いた。誰が「ふなっしー」をつくったのかも、わずか数年でこれだけの認知を得たのが誰の功績なのかもわからない。
博物館で爆笑した一件に戻ると、ぼくの非科学的な見方によれば、笑わないように我慢することが逆に笑いの原因になるというメカニズムがある。さらにぼくは「ノーパン・ピーポ」を面白いと思っただけでなく、「安心感」を得られたから笑ったのだと思う。どこにでもいるこっけいな「キャラクター」に対するぼくの見方を、日本人も「共有」していることがわかってほっとした。でも次にわかったのは、話が逆だということだ。ぼくのほうが日本人の見方を共有していただけのことだった。
※抜粋第2回:どうして日本人は「ねずみのミッキー」と呼ばないの?
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『新「ニッポン社会」入門
――英国人、日本で再び発見する』
コリン・ジョイス 著
森田浩之 訳
三賢社
本誌ウェブコラム「Edge of Europe」でもお馴染みのコリン・ジョイスは、92年に来日し、高校の英語教師や本誌記者、英紙『デイリーテレグラフ』東京特派員などを経て、2007年に日本を離れた(ちなみに、詳しいプロフィールはこちら)。
06年に著した『「ニッポン社会」入門』(谷岡健彦訳、NHK生活人新書)は10万部を超えるベストセラーに。その後も、『「アメリカ社会」入門』(谷岡健彦訳、NHK生活人新書)、『「イギリス社会」入門』(森田浩之訳、NHK出版新書)と、鋭い観察眼と無類のユーモアを注ぎ込んだ一連の著作で多くのファンを獲得している。
このたび、「日本を懐かしいと思えるようになりたかった」というジョイスが、見事にその願いをかなえ(?)、新刊『新「ニッポン社会」入門――英国人、日本で再び発見する』(森田浩之訳、三賢社)を上梓した。思いもよらない新たな発見が綴られた「目からウロコ」の日本論であり、抱腹必至のエッセイ集でもある本書から、一部を抜粋し、3回に分けて掲載する。
以下、まずは「9 ゆるキャラ、侮るなかれ」から。
◇ ◇ ◇
人が笑ってはいけないときに限って笑ってしまいがちな原因に迫った科学的研究はないのだろうかと、ぼくは思うことがある。長いことぼくは、笑ってはいけないときに笑ったことでかなり面倒を引き起こしてきたから、誰かがその原因を(できれば解決策も)見つけてくれたらとても助かる。
最近そういう事態に陥ったのは、東京の博物館の静寂の中だった。ぼくは友だちといっしょに版画のコレクションを観賞していた。明治維新後に新しい思想や発明がどんどん入ってきたすばらしい時代の東京を描いた作品群だ。おそらくぼくは自分を賢く見せたかったのだろう、このテーマについて持っている乏しい知識を披露しようとした(「当時の男性は洋服と和服を合わせて着ていたなんて面白いな」とか「浅草の五重の塔は、以前は浅草寺の右側にあったことがわかるでしょ」とか)。
それから友だちが口にした言葉に、ぼくは恥ずかしいほど爆笑してしまった。よりたくさんの人が、変な人だという目でぼくを見たので、事態はさらに面倒なことになってしまった。ぼくは笑いを押し殺そうとしたのだが、そのせいで鼻からおかしな音が出てしまい、まわりの人たちは今度はぼくを見ないようになった。いかれたやつだと思われた確かなしるしだ。そのせいでぼくはまた笑ってしまい、落ち着きを取り戻すまでにかなりの時間がかかった。友だちが口にした言葉は「あ、ノーパン・ピーポだよ」だった。彼女が警視庁のマスコット「キャラクター」の絵を載せたポスターの話をしているとわかるまでに、〇・五秒かかった。さらに笑いが噴き出すまでに、また〇・五秒かかった。奇妙なことに、笑いに身をよじらせてから、ようやくぼくは何がそんなにおかしいと思ったのか分析することになった。
ぼくは「ピーポくん」をずっと前から知っていて、日本に住む多くの外国人と同じく彼のことを変だと思っていた。この小さくてかわいらしいキャラクターは、どう見ても警察のシンボルにはふさわしくないように思えた。「ピーポくん」はもっと強そうなキャラクターであるべきではないか。犯罪との終わりなき戦いに立ち向かうべく、厳しそうで、できれば怖いくらいの顔つきをしていてもいいのではないか。
【参考記事】警察よ、ムダな抵抗はやめなさい
「ピーポくん」は、日本では組織や企業、キャンペーン、地域、商品など、ほとんどあらゆるものがかわいらしいキャラクターをシンボルにする必要性があることを示す典型的な例だ。
ぼくは長いことおかしなキャラクターに注目しつづけ、本当におかしなものは写真に撮っている。ぼくはキャラクターの名前をあまり気にしていなかったのだが、好きなもののなかには、たとえば公正な選挙を呼びかけるキャラクター(羽のついた猫が怒っているところだろうって? もちろん!)や、住宅情報サイトのシンボルになっている緑色のふわふわしたボール(緑色のふわふわしたボールもどこかに居場所が必要だから?)、あるいは仙台の「おにぎり頭」の観光PRキャラクターがある。
日本文化のこうした側面をおかしいと思う外国人はぼくだけではなかったと思うが、ぼくは自分のことも少し心配していたことを認めなくてはならない。「ふん、日本はこういうこっけいなキャラクターだらけで、それがおかしいと思えるのはぼくのような外国人だけなんだ」というふうに考えている自分に気づき、これはちょっと見下した態度だと思った。
【参考記事】嵐がニャーと鳴く国に外国人は来たがらない
仕事のうえでも私生活でも、ぼくは日本人が変わっているわけではないとか、まったく違う考え方をする人たちではないと主張する立場に身を置いていることがよくある。ときにイギリス人はなんの遠慮もなく「日本人って変な人たちなの?」と聞いてくる。そういう質問に、ぼくはいつも強く抵抗している。「外から見るとふつうではないようにみえることもあるけれど、歴史や文化の背景を考えれば納得がいく」と、ぼくは答える。あるいは「日本に初めて来たときには不思議に思えたことが、今ではまったくふつうに感じられるようになったと思う......。外から見ただけでは必ずしもわからない一貫性が内部にはあるんだ......」とか。そしてぼくは、そういう質問をすること自体が偏見の表れではないかと考えたほうがいいと、聞いてきた人にそれとなく、あるいはわりにはっきりと言う。
たとえば人々は、日本人は通勤のときに駅員の手で電車に「押し込まれる」ことを知っていて、どうして彼らはそんなことに耐えられるのかと尋ねてくる。ぼくは、なぜそうしたことが起こりえたかを説明する(きっと説明しすぎている)。日本では明治時代以降の実に急速な近代化によって、経済と政治とアカデミズムが都市部に集中したこと。日本では税制上の理由から、企業が社員の通勤交通費を支払うことが理にかなっており、そのため社員が長時間の通勤にも耐える動機を生んでいること。電車の運賃はロンドンよりかなり安いので(ただしロンドンの電車も、混雑ぶりは日本に追い着きつつある)、単純な運賃設定だったら人々は安くて混雑している電車に乗ることをそんなに気にしないこと。自分のまわりのスペースが減っても、人はそれなりに慣れていくということなど。
そんなわけで、ぼくはキャラクターのことをおかしいと思いながら、その理由を説明できずにいる自分の矛盾した立ち位置に、ずっと居心地の悪さを感じていた。
友だちが「ノーパン・ピーポ」と言ったとき、日本人もキャラクターのばかばかしさを理解していることに、ぼくは気づいたのだ。実際、キャラクターについては日本人のほうがぼくより厳しい目で見ている。ぼくは「ピーポくん」の外見がおかしくて、名前が変だと思っただけだった。でもぼくは、日本の人たちが「どうして彼はベルトを着けているのにズボンをはいていないの?」と疑問を投げかけたり、もっと気のきいた名前をつけようとしたりしていることも知っている。
やがてわかってきたのは、日本中が「ゆるキャラ」をめぐるドラマに夢中になっているということだった。なんといっても、この現象を表す「ゆるキャラ」という言葉まで生まれていた。これはぼくが日本を離れたあとに広まったのか。それとも、ぼくが気づいていなかっただけなのか。いずれにしても、ゆるキャラはもう避けて通れない。ゆるキャラの王様は、もちろん「くまモン」だ。「くまモン」はどこにでもいる。けれども挑戦者格の「ふなっしー」もいるし、ほかにもプロレスラーさながらに独自のアイデンティティーをつくり上げ、それぞれの「物語」を背負って、競争の舞台に上がろうとするキャラクターたちがいる。
ぼくは、ゆるキャラを別の視点から見るようになった。ゆるキャラの広まりには、特異な能力がそそがれている。キャラクターを生みだし、名前をつけるために(ときにはある種の個性も与えるために)、おびただしい想像力が投入されている(もしかすると、ここに使うにはもったいないほどかもしれない)。ぼくが新しいキャラクターをつくれと言われたら、どこから手をつければいいのかわからない。もうありとあらゆることが試されているからだ。それでも、新しいキャラクターはまだ生まれてくる。ぼくは「ふなっしー」が千葉県船橋市の公認マスコットでさえないことを知って驚いた。誰が「ふなっしー」をつくったのかも、わずか数年でこれだけの認知を得たのが誰の功績なのかもわからない。
博物館で爆笑した一件に戻ると、ぼくの非科学的な見方によれば、笑わないように我慢することが逆に笑いの原因になるというメカニズムがある。さらにぼくは「ノーパン・ピーポ」を面白いと思っただけでなく、「安心感」を得られたから笑ったのだと思う。どこにでもいるこっけいな「キャラクター」に対するぼくの見方を、日本人も「共有」していることがわかってほっとした。でも次にわかったのは、話が逆だということだ。ぼくのほうが日本人の見方を共有していただけのことだった。
※抜粋第2回:どうして日本人は「ねずみのミッキー」と呼ばないの?
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『新「ニッポン社会」入門
――英国人、日本で再び発見する』
コリン・ジョイス 著
森田浩之 訳
三賢社