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謎の長距離走大国ニッポンで「駅伝」を走る

ニューズウィーク日本版 2016年2月22日 16時12分

『駅伝マン──日本を走ったイギリス人』(アダーナン・フィン著、濱野大道訳、早川書房)の著者は、イギリス『ガーディアン』紙の編集者兼フリーランスジャーナリスト。ケニア滞在経験を記した『ケニア人と走る』(Running with the Kenyans 日本語未訳)が高く評価された実績を持つそうだが、つまりはその延長線上で、今回は日本の駅伝をターゲットに選んだということ。

 原点にあるのは、長距離走の世界の外にいる人たちが見落としがちな、「日本ではなにかが起きている」という思いだったとか。事実上、世界中の大規模なロードレース大会の優勝者はケニア人かエチオピア人のランナーで、誰もその牙城を崩せない状況にあるらしいが、そこに現在、日本人が闘いを挑んでいるというのである(2013年時点の最新の男子マラソン世界100傑のうち、アフリカ出身者以外は6人のみで、そのうち5人が日本人なのだという)。たしかに素人には意識しづらいことでもあるので、最初の段階から興味を抱くことができた。

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 ともあれ著者はそんな理由から、家族を引き連れて来日することになる。ところが日本語はまったくわからず、 "生まれながらの冒険家"である妻のリクエストを受け、ロシア経由で列車に乗ってこの国を目指したというのだから、その時点ですでにぶっ飛んでいる。

 ちなみに目的は、日本に半年間住んで、駅伝シーズンを経験し、あわよくば実業団チームに同行したいというもの。かくして日本に到着してからは京都に家を借り、ふたりの子どもをシュタイナー学校に通わせ(イギリスで通っていたのもシュタイナー学校だったため、子どもたちを戸惑わせなくてすむと考えたのだそうだ)、その時々に出会った人たちとの交流のなかから少しずつ人脈を広げていく。

 おもしろいのは、「あとから気づくと、京都が駅伝競走の発祥の地だった」という話だ。江戸時代には京都と東京(江戸)間を走っていた飛脚は、届ける書簡を宿場で別の飛脚に渡し、次の区間へと引き継ぐことも多かったという。つまり、この制度に想を得て生まれたスポーツが駅伝競走だったのだ。

 それにしても不思議に思ったのは、"外国人"である著者の目に駅伝が特別なものとして映っていることである。


 駅伝は「和」の精神を完璧に具現化する競技だった。駅伝チームは、すべての参加者が自分の役割を果たして初めて勝利を得る。つまり、全員がチームのために一丸となって闘わなくてはいけない。それが当時の日本人の精神と合致し、少しずつ駅伝の知名度が上がり、マラソンを凌ぐほどの人気を博すようになったのだった。(51ページより)

 もしかしたら、これまで私が鈍感すぎただけなのかもしれない。しかし個人的な感覚からすると、駅伝は"正月を祝っているときにテレビで流れているもの"であり、それはそれで見ていて楽しいのだけれども、そこに日本人の精神が反映されているかどうかなど考えたことがなかった。だから著者の思いには新鮮なものを感じたし、その思いが本書にリズム感を与えていることも間違いないだろう。

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 また、それ以前に、著者自身の「走る」ことへの思いも重要な意味を持っているように思える。ライターとしての取材という目的だけでなく、そもそも著者のなかには、走ることへの純粋な欲求が根ざしているのだ。だから「琵琶湖での駅伝に参加するメンバーが足りないから、参加してみませんか?」という誘いを受けるや、「これこそ、ずっと待ち望んでいた瞬間だった」と感じて快諾するなど、ここでは自身のランナーとしての立ち位置も大きな要素として機能しているのである。


 なぜ自分が走るのか自問することがよくある、と僕は彼女に伝えた。(中略)誰かに強制されたわけでも、頼まれたわけでもない。僕が走ろうが走るまいが、誰も気にしやしない。それでも、僕はいつも走る。何かが、僕を突き動かすのだ。(108ページより)

 そして著者はこうも主張する。自分のなかのなにかとつながるために走っているのではないかと。走るという行為はシンプルで、純粋なまでに無慈悲なものだそうだ。走ることによって世俗的な層が剥がされ、その下にある生の人間があらわになる。それは得難い経験であり、自分の力を試される機会で、一種の自己実現でさえある。走るという行為に対してここまで純粋でいられるというのは、ちょっとばかりうらやましくもある。

 ところで本書には、そのストーリー性を"偶然"際立たせている要因がある。読み進めながら感動的なクライマックスが訪れるであろうことを疑わなかったのだが、結果的にそれは訪れなかったのだ。

 日本滞在期間のクライマックスにあたる富士宮駅伝に出場することを決めた著者は、彼とともに参加するチームを<エキデン・メン>と名づけて期待を膨らませるのだが、そこには望まない結果が待ち受けていたのである。


 運転手の野村は帽子をうしろに傾けてかぶり、片手でハンドルを握っていた。そのとき、彼の携帯電話が鳴った。(中略)通話を終えた野村は、何も言わずにまえを見据えた。
「何か問題?」と僕は訊いた。
 初め、彼は答えようとしなかった。車内の全員の視線が野村に向けられた。
「大会が中止になりました」と彼はやっと口を開いた。「ひどい雪らしくて」(320ページより)

 結果論かもしれないが、富士宮駅伝が中止になって目標が失われたことが、作品に立体感を加えている。涙が出るほど感動的なドラマがあるわけではなく、むしろ喪失感だけを意識させるからこそ、逆に著者の思いが浮き立っているのだ。

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『駅伝マン――日本を走ったイギリス人』
 アダーナン・フィン 著
 濱野大道 訳
 早川書房


[筆者]
印南敦史
1962年生まれ。東京都出身。書評家、ライター。広告代理店勤務時代にライターとして活動開始。現在は他に、「ライフハッカー[日本版]」「Suzie」「WANI BOOKOUT」などで連載を持つほか、多方面で活躍中。2月26日に新刊『遅読家のための読書術――情報洪水でも疲れない「フロー・リーディング」の習慣』(ダイヤモンド社)を上梓。

印南敦史(書評家、ライター)

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