ビジュアル系という言葉を生み日本の音楽史に伝説を刻んだロックバンド、X JAPANの壮絶な物語は昼メロのようにも見える。メンバーの悲劇的な死やカルト集団による洗脳疑惑など、彼らをめぐる衝撃的な事件は数多い。もちろん奇抜なヘアスタイルや派手なパフォーマンス、彼らのロックに対する情熱も多くのドラマを生んだ。
バンド結成は1982年。メジャーデビュー後は華々しい活動を続けていたが、97年にボーカルのToshIの脱退を機に解散。翌年にはギターのHIDEが急死し、ToshIの洗脳疑惑も深まっていった。
しかし解散後もインターネット上でX JAPANの人気は世界的に高まっていった。そうしたファンの期待を受けて、バンドは2007年に再結成。今年には20年ぶりとなる新アルバムのリリースを予定している(3月発売が決まっていたが、ギターのPATAの緊急入院により延期)。
先月には、サンダンス映画祭でX JAPANの軌跡を描いたドキュメンタリー映画『We Are X』がプレミア上映され、ワールドシネマドキュメンタリー部門の最優秀編集賞を受賞した。同作品は、結成当時の80年代初期から世界進出、14年10月のマジソンスクエア・ガーデンでの公演までを追ったものだ。
【参考記事】【動画】外国人を(嵐よりも)魅了するサムライ集団「TAO」って何者?
ただし、コンサートの様子や昔懐かしい映像などでたどる、典型的な音楽ドキュメンタリーではない。それはリーダーのYOSHIKIの目を通して語られる再生の物語だ。YOSHIKIと監督のスティーブン・キジャクに本誌ポーラ・メヒアが聞いた。
──映画制作のきっかけは? もともとX JAPANのファンだったのか。
キジャク パッション・ピクチャーズ(映画制作会社)とはとてもいい関係で、ローリング・ストーンズのドキュメンタリー『ストーンズ・イン・エグザイル~「メイン・ストリートのならず者」の真実』を撮ったこともある。また一緒に仕事がしたいといつも思っていた。
私はミュージシャンのドキュメンタリーが専門だから、その手の話があるときはだいたい私に声が掛かる。関心がなくて断る場合もあるが、この作品にはすごく興味をそそられた。すぐに少しリサーチをして、伝えるべき素晴らしいストーリーがあると思った。
──2人が最初に会ったのは?
YOSHIKI 僕のエージェントのマーク・ガイガーとX JAPANの今後や日本国外での活動について話していたとき、彼が僕たちの歴史はすさまじいから映画を作ったらどうかって。僕はその扉を開けるのは難しいって言ったんだけど、結局は説得されてプロデューサーを紹介してもらった。
世界進出 夢のマジソンスクエア・ガーデンの前で PASSION PICTURES
そこで強くスティーブンを推薦された。スティーブンに会った瞬間、化学反応が起きたよ。
キジャク 私たちは2人ともデビッド・ボウイ世代。それからToshIも私も初めて買ったアルバムはキッスの『ラヴ・ガン』だった。私たちは同じ世代で、好きな音楽も似ていた。そうした共通点が、私を彼らの音楽に引き込んだのだと思う。
【参考記事】デビッド・ボウイ、最後のアルバムに刻んだ死にざま
YOSHIKI 僕らは80年代のヘアメタルにも影響を受けたけど、パンク、特にセックス・ピストルズのスタイルを多く取り入れていた。
キジャク HIDEを見ていると、(英パンクバンド)スージー・アンド・ザ・バンシーズを思い出すことがある。ゴスと派手さがあり、それはヘアメタルとは違ってもっと格好いい。
──映画では彼らの見た目について、とやかく言ってない点が良かった。
キジャク ありがとう。欧米的な視点だと、ああいう衣装や見た目はその性別に疑問を抱かせる。女装趣味なのか、ただの衣装なのか、って感じで。
でも文化的に見ると、それはパンクやニューウエーブに対する愛から生まれたもの。どちらかといえば社会的な主張に近いんじゃないかな。日本社会で新しい扉を開く一手段だったように見える。
【参考記事】日本の良さが若者をダメにする
僕は18か19歳で金髪にした。そしたらタクシーが止まらなくなった。「何だあいつは?」というふうに見られたんだ。髪をあんな色に染めるなんてあり得ない時代だった。でも今は日本中でピンクや紫や赤の髪が見られる。僕たちが文化的な変化に貢献したと言えるかもしれない。
──当初、映画制作に躊躇していたと言っていたが、なぜか?
YOSHIKI 僕たちの歴史があまりにも悲しいから。僕の父は自殺したし、バンドのメンバーも亡くした。そうしたことを語りたくないときもある。でも映画を作るとなると、それらを容赦なく思い出すことになる。今回のプレミア上映では90分間の中で10回は泣いた。でもその涙は悪いものではなくて、浄化作用みたいなものがあった。
──過去を振り返ってカタルシスを感じたと?
YOSHIKI 触れたくないんだけど、あえて触れることによって前へ進めるというか、より強くなれた感じだ。
独自のスタイル リーダーのYOSHIKI PASSION PICTURES
スティーブンには、僕たちの歴史はダークで悲しいけど前向きな作品にしてほしいと頼んだ。
キジャク でもそれは「マジソンスクエア・ガーデンでライブをやったんだぜ!」とか華やかに成功した姿で伝えるものではない。これは再生と生還の物語なんだ。
ファンたちの熱狂ぶりを見ていると、彼らはX JAPANの音楽に救済されているようだ。傷ついた人々が、彼らの音楽に流れる痛みに自分たちの傷痕を見ている。陳腐な言い方かもしれないが、本当に人々を救っていると思う。
──まったく陳腐なんかじゃない。私もデビッド・ボウイに救われた。
YOSHIKI 彼は僕が海外へ進出した理由でもある。彼にインタビューしたことがあって、「素顔の自分とステージ上の自分の境界線はどこに引いているのか?」と質問した。彼は答えられなかった。
──最初からマジソンスクエア・ガーデン公演を軸に制作する計画だった?
キジャク 1つの要素にすぎなかったが、編集段階でそうなった。撮影準備期間がほとんどなく、撮影に入ってからいろいろなアイデアが生まれてきた。
ステージの裏でも、YOSHIKIやほかのメンバーの秘話や美しい世界がたくさんあった。
YOSHIKIは絶対にうまくやれない、リハーサルは絶対に間に合わないと思う瞬間もあったが、最後には完璧なライブを見せる。それもドラマだった。
──映画監督のデービッド・リンチが少し映っていて驚いた。
キジャク そうなんだ。リンチはX JAPANのシングル「Longing~途切れたmelody~」のCMスポットを演出したことがある。YOSHIKIはいつも誰かに舞台裏を撮らせていたから、偶然映っていたみたいだ。
そういう映像を何気なく見ていたときに発見して驚いた。リンチがメガホンを持って、全裸で砂浜に立っているYOSHIKIに叫んでいた。結局その映像を映画に使った。
YOSHIKI ソニーと契約していたとき、彼らは僕が来週か明日にも死ぬかもしれないと思っていた。だから僕がすることは全部撮っておけと言って、そのときから舞台裏を撮影するようになった。
──映画に入れたかったけど入れられなかったものはある?
キジャク PATAが2語以上しゃべってくれてたらと思うよ(笑)。何もしゃべらないメンバーがいるから。
YOSHIKI みんなバンドの打ち合わせのときにも話さない! 僕が90%ぐらいしゃべって、ToshIも少し口を開いて。だから映画で見られるのは本当にありのままの僕ら。演技なしの自然な姿だ。
──アメリカでの成功を目指す非英語圏のバンドは以前より受け入れられやすくなっている?
YOSHIKI インターネットがすべてを変えた。X JAPANは解散後の活動していないときに世界で有名になった。今は何でも起きる時代だと思う。
【参考記事】ジャパン・ナイトで輝く若者バンド
キジャク 人々の好みはチャートに左右されるものでもない。今の若い子たちはジャンルを問わず、いろんなものに飛び込んでいく。彼らはオールドジャズのアーティストもX JAPANも知っている。
YOSHIKI 僕が最初にアメリカに来たときに契約したアトランティック・レコーズからは、ハードにいくかソフトにいくかどっちかにしろ、両方はだめだと言われた。
でも言うことを聞かずに、X JAPANはハードな曲もバラードもキャッチーな曲もやってきた。僕ら独自のスタイルを築いてきた。
[2016.2.23号掲載]
ポーラ・メヒア
バンド結成は1982年。メジャーデビュー後は華々しい活動を続けていたが、97年にボーカルのToshIの脱退を機に解散。翌年にはギターのHIDEが急死し、ToshIの洗脳疑惑も深まっていった。
しかし解散後もインターネット上でX JAPANの人気は世界的に高まっていった。そうしたファンの期待を受けて、バンドは2007年に再結成。今年には20年ぶりとなる新アルバムのリリースを予定している(3月発売が決まっていたが、ギターのPATAの緊急入院により延期)。
先月には、サンダンス映画祭でX JAPANの軌跡を描いたドキュメンタリー映画『We Are X』がプレミア上映され、ワールドシネマドキュメンタリー部門の最優秀編集賞を受賞した。同作品は、結成当時の80年代初期から世界進出、14年10月のマジソンスクエア・ガーデンでの公演までを追ったものだ。
【参考記事】【動画】外国人を(嵐よりも)魅了するサムライ集団「TAO」って何者?
ただし、コンサートの様子や昔懐かしい映像などでたどる、典型的な音楽ドキュメンタリーではない。それはリーダーのYOSHIKIの目を通して語られる再生の物語だ。YOSHIKIと監督のスティーブン・キジャクに本誌ポーラ・メヒアが聞いた。
──映画制作のきっかけは? もともとX JAPANのファンだったのか。
キジャク パッション・ピクチャーズ(映画制作会社)とはとてもいい関係で、ローリング・ストーンズのドキュメンタリー『ストーンズ・イン・エグザイル~「メイン・ストリートのならず者」の真実』を撮ったこともある。また一緒に仕事がしたいといつも思っていた。
私はミュージシャンのドキュメンタリーが専門だから、その手の話があるときはだいたい私に声が掛かる。関心がなくて断る場合もあるが、この作品にはすごく興味をそそられた。すぐに少しリサーチをして、伝えるべき素晴らしいストーリーがあると思った。
──2人が最初に会ったのは?
YOSHIKI 僕のエージェントのマーク・ガイガーとX JAPANの今後や日本国外での活動について話していたとき、彼が僕たちの歴史はすさまじいから映画を作ったらどうかって。僕はその扉を開けるのは難しいって言ったんだけど、結局は説得されてプロデューサーを紹介してもらった。
世界進出 夢のマジソンスクエア・ガーデンの前で PASSION PICTURES
そこで強くスティーブンを推薦された。スティーブンに会った瞬間、化学反応が起きたよ。
キジャク 私たちは2人ともデビッド・ボウイ世代。それからToshIも私も初めて買ったアルバムはキッスの『ラヴ・ガン』だった。私たちは同じ世代で、好きな音楽も似ていた。そうした共通点が、私を彼らの音楽に引き込んだのだと思う。
【参考記事】デビッド・ボウイ、最後のアルバムに刻んだ死にざま
YOSHIKI 僕らは80年代のヘアメタルにも影響を受けたけど、パンク、特にセックス・ピストルズのスタイルを多く取り入れていた。
キジャク HIDEを見ていると、(英パンクバンド)スージー・アンド・ザ・バンシーズを思い出すことがある。ゴスと派手さがあり、それはヘアメタルとは違ってもっと格好いい。
──映画では彼らの見た目について、とやかく言ってない点が良かった。
キジャク ありがとう。欧米的な視点だと、ああいう衣装や見た目はその性別に疑問を抱かせる。女装趣味なのか、ただの衣装なのか、って感じで。
でも文化的に見ると、それはパンクやニューウエーブに対する愛から生まれたもの。どちらかといえば社会的な主張に近いんじゃないかな。日本社会で新しい扉を開く一手段だったように見える。
【参考記事】日本の良さが若者をダメにする
僕は18か19歳で金髪にした。そしたらタクシーが止まらなくなった。「何だあいつは?」というふうに見られたんだ。髪をあんな色に染めるなんてあり得ない時代だった。でも今は日本中でピンクや紫や赤の髪が見られる。僕たちが文化的な変化に貢献したと言えるかもしれない。
──当初、映画制作に躊躇していたと言っていたが、なぜか?
YOSHIKI 僕たちの歴史があまりにも悲しいから。僕の父は自殺したし、バンドのメンバーも亡くした。そうしたことを語りたくないときもある。でも映画を作るとなると、それらを容赦なく思い出すことになる。今回のプレミア上映では90分間の中で10回は泣いた。でもその涙は悪いものではなくて、浄化作用みたいなものがあった。
──過去を振り返ってカタルシスを感じたと?
YOSHIKI 触れたくないんだけど、あえて触れることによって前へ進めるというか、より強くなれた感じだ。
独自のスタイル リーダーのYOSHIKI PASSION PICTURES
スティーブンには、僕たちの歴史はダークで悲しいけど前向きな作品にしてほしいと頼んだ。
キジャク でもそれは「マジソンスクエア・ガーデンでライブをやったんだぜ!」とか華やかに成功した姿で伝えるものではない。これは再生と生還の物語なんだ。
ファンたちの熱狂ぶりを見ていると、彼らはX JAPANの音楽に救済されているようだ。傷ついた人々が、彼らの音楽に流れる痛みに自分たちの傷痕を見ている。陳腐な言い方かもしれないが、本当に人々を救っていると思う。
──まったく陳腐なんかじゃない。私もデビッド・ボウイに救われた。
YOSHIKI 彼は僕が海外へ進出した理由でもある。彼にインタビューしたことがあって、「素顔の自分とステージ上の自分の境界線はどこに引いているのか?」と質問した。彼は答えられなかった。
──最初からマジソンスクエア・ガーデン公演を軸に制作する計画だった?
キジャク 1つの要素にすぎなかったが、編集段階でそうなった。撮影準備期間がほとんどなく、撮影に入ってからいろいろなアイデアが生まれてきた。
ステージの裏でも、YOSHIKIやほかのメンバーの秘話や美しい世界がたくさんあった。
YOSHIKIは絶対にうまくやれない、リハーサルは絶対に間に合わないと思う瞬間もあったが、最後には完璧なライブを見せる。それもドラマだった。
──映画監督のデービッド・リンチが少し映っていて驚いた。
キジャク そうなんだ。リンチはX JAPANのシングル「Longing~途切れたmelody~」のCMスポットを演出したことがある。YOSHIKIはいつも誰かに舞台裏を撮らせていたから、偶然映っていたみたいだ。
そういう映像を何気なく見ていたときに発見して驚いた。リンチがメガホンを持って、全裸で砂浜に立っているYOSHIKIに叫んでいた。結局その映像を映画に使った。
YOSHIKI ソニーと契約していたとき、彼らは僕が来週か明日にも死ぬかもしれないと思っていた。だから僕がすることは全部撮っておけと言って、そのときから舞台裏を撮影するようになった。
──映画に入れたかったけど入れられなかったものはある?
キジャク PATAが2語以上しゃべってくれてたらと思うよ(笑)。何もしゃべらないメンバーがいるから。
YOSHIKI みんなバンドの打ち合わせのときにも話さない! 僕が90%ぐらいしゃべって、ToshIも少し口を開いて。だから映画で見られるのは本当にありのままの僕ら。演技なしの自然な姿だ。
──アメリカでの成功を目指す非英語圏のバンドは以前より受け入れられやすくなっている?
YOSHIKI インターネットがすべてを変えた。X JAPANは解散後の活動していないときに世界で有名になった。今は何でも起きる時代だと思う。
【参考記事】ジャパン・ナイトで輝く若者バンド
キジャク 人々の好みはチャートに左右されるものでもない。今の若い子たちはジャンルを問わず、いろんなものに飛び込んでいく。彼らはオールドジャズのアーティストもX JAPANも知っている。
YOSHIKI 僕が最初にアメリカに来たときに契約したアトランティック・レコーズからは、ハードにいくかソフトにいくかどっちかにしろ、両方はだめだと言われた。
でも言うことを聞かずに、X JAPANはハードな曲もバラードもキャッチーな曲もやってきた。僕ら独自のスタイルを築いてきた。
[2016.2.23号掲載]
ポーラ・メヒア